第2話「平和な日常の再来で」

 体育祭も終われば、高校生活は嘘のように日常を取り戻す。いつまでも体育祭の余韻に浸りたい高校生たちにとって、その存在は疎まれるべきものであった。

 荻原の席を囲み各々の弁当を広げるクラスメイト達のもとに、げっそりとした河合が背を丸めて帰ってきた。四十分ある昼休みは残り十分ほどしか残っていない。河合は力なく近くの椅子を引っ張ってくると、身を投げ出すように椅子に崩れた。

「どうだった」

 クラスメイトの一人、鈴木和宏は口をもぐもぐとさせながら、河合の様子をうかがった。

「最悪だ……」

 事の発端は午前中の三限目の河合の行動だった。

 数学の時間の最中、河合は膝の上に潜ましたデジタルカメラのディスプレイを確認しながら、クラスメイト達から受けていた体育祭写真の注文をチェックしていた。

「……で、あるからして、問三の回答は……」

 近藤は不審な行動をとる河合に、声の大きさを少しずつ小さくしながら、静かに近づいた。

 普段、数学の授業は全く聞かず睡眠に充てているような河合は、生徒指導教員でもある近藤にしっかりとマークされていたのだ。

 河合が気づくころにはもう近藤はすぐそこにいた。あわててカメラを足の下に広げられたエナメル鞄の口に投げ入れるも、すべての証拠が隠しきれるわけではなかった。

 河合は、写真の注文をこともあろうに数学のノートに書き込んでいたのだ。これには仏の生徒指導教諭と揶揄される近藤も黙っていなかった。

「河合、カメラをだせ」

 普段怒らない教師ほど怖いものはない。高校生にもなればそれは経験から身をもって知っている。近藤の野太い声は、教室全体を重たく凍らせた。河合はそれに従うしかなかった。

「くそう」

 河合は購買部のロゴの入ったポリ袋から荒っぽくサンドイッチを取り出すと、強引に口に押し込んだ。目にはわずかに涙が浮かんでいる。河合の手元に見慣れた紫のデジタルカメラはなかった。どうやら河合のカメラは永遠に生徒指導室から帰ってこないのだろう。

「帰ってこないのか」

 そう聞くのは同じバスケ部の野口隼斗だ。彼の軽くまっすぐな声が河合をぐさりと突き刺した。

「……ほんの五分だぜ、五分遅れただけで反省が足らないので返せません、なんて。仏の近藤じゃねえのかよ」

 河合はそう言いながら、袋から出したペットボトルのお茶で口の中を空にした。よほど悔しかったのだろう。だが、

「購買よって指導室行ったのが、間違いだったんじゃね?」

 荻原よりも早く口の開いた野口は、さらに河合を追い詰めた。

「まあ、人気だしな、そのサンドイッチ。並ばないと買えないし」

 和宏は涙を目じりに溜める河合をかばうように言った。それでも野口は攻撃をやめなかった。

「あーあ。俺の青春が」

 野口の言葉が、荻原の脳裏に薄暗がりの渡り廊下での出来事を思い浮かばせた。昨日のことなのに、すっかり忘れていた。荻原は机に肘をかけると、窓から見えるメタセコイアの赤くなりつつある枝の群れを見つめた。

 いったい、啓吾と女子は何をしていたのだろう。啓吾が練習を中断させられて不機嫌になるのはいつもの出来事だ。部活中は知らないが、その後の数時間はかなり不愛想に人と接した。もしもその女子が啓吾に告白をしたのであれば……荻原は女子に同情の意をしめした。いつもの自分のようにけちょんけちょんに言われていなければいいが……。

「荻原、荻原」

 河合の助けを求めるような声で、荻原は物思いから覚めた。

「宇田って、誰にコクられたとか知ってる?おまえ、宇田の幼馴染だろ」

 河合が自分への非難の回避のために、啓吾の話題を出したのは見え透いていた。荻原は一瞬眉をひそめた。

「聞いてないな」

 荻原は突き放すように、河合に言った。それよりも、河合のカメラに収められた思い出のほうが、野口同様重要だった。

「そこを何とか聞いてほしかったんだなあ」

 河合は堅い笑みを作りながら、顔の前で手を合わせている。よっぽどカメラの話に戻りたくないのだろう。荻原はあきらめて深くため息をついた。

「幼馴染っていっても、クラスは違うし、部活も違うから最近はあんまり話さないしなあ。それに、昨日の今日じゃ聞けないって」

 荻原の弁解に、三人は肩を落とした。一番肩を落としたのは河合だった。

「そこは聞いておけって」

 河合は調子よく聞いてきた。カメラを近藤にとられていることなど、棚に上げているようだ。

「さすがにウザくね?」

 荻原は眉をひそめた。調子もののクラスメイトは冗談のようにおもしろがっているが、啓吾の怒りを買うのはごめんだった。最悪その場で殴り合いになり、絶交だとも言われかねない。

「わかんねーのか……」

 河合は残念がって、おもむろに席を立った。

「どこ行くんだ」

 鈴木が頭をあげて言った。

「近藤のところ。もう一回直談判してみる」

 河合は力なく手を振って教室を出ていった。こんな短時間に二度も行ったら、近藤はカメラを返すだろうか。反省の色が見えないからと言って、門前払いをされるだろうか。それよりも、時間を理由に教室に返される確率が一番高いと、荻原は考えていた。

 結局この日、河合のカメラは帰ってこずじまいだった。七限後のホームルームの後、荻原は二つの意味で肩を落とす河合を昇降口まで見送ると、靴を履きかえて体育館へと向かった。

 啓吾同様、荻原も三週間後に試合を控えていた。こちらは練習試合だが。

 体育祭が終わるまで満足に部活ができないため、ひとり自主練習を行うことが多かった。だが今日からは伸び伸びと部活ができる。荻原の頭からは啓吾のことや、河合のことなどとうに抜けていた。足元をふわふわさせながら、荻原は体育館の扉を開いた。

 体育館にはまだ誰もいなかった。いつもは広く感じられないコートがひっそりと静まり返っている。こんなにも体育館って広かったけ?遠くで暗い影を作る舞台に目を向けながら、荻原は更衣室の扉をノックした。

 反応がない。本当に一番なのかもしれない。荻原はにやりと笑った。誰よりも早く来たということは、誰よりも早く練習できるということだ。荻原の左手は自然にゆるく絞められた縞模様のネクタイへと運ばれた。右手が勢いよくドアノブを回す。さっさと着替えて、早くボールに触れよう。監督のように口うるさいマネージャーはまだ来ていない。

 そんな口うるさいマネージャーが現れたのは、部活が始まってすこししてからだった。いつもてきぱきと動く姿はどこにもなく、今日の彼女は別人のように仕事が遅かった。

 彼女の名前は早瀬美緒という。部活で三人いるマネージャーの中心だ。荻原達選手よりも先に来て、いつも準備をしてくれていた。

 そういえば、今日体育館に来た時になんとなく広く感じたのは、バックボードが壁から伸びていなかったせいかもしれない。そんなことを考えながら、荻原は監督から投げ出されるボールを受け取り、バスケットへと落としていく。

 荻原達が淡々と練習をこなしていく中、マネージャーたちはその日の部員の記録や、ドリンクづくりなどの雑用をしてくれている。早瀬は中でもかなり集中力がいる記録係をやることが多い。素早く繰り返されるシュートの一つ一つを記録していかなければならない。そんな作業ができるなんて、荻原は関心をしながらも、感謝していた。ミスが続けばデータを用いて容赦なく攻められた。

 ところが、いつもなら躊躇なく飛んでくるはずのその言葉は、今日は全く飛んでこない。

 記録係が兼任するメニュー管理も、監督に言われて初めて、次のメニューに代わることに気付いた様子だった。

 早瀬は同じマネージャーの七川あさみに記録用紙を預けて、ボール磨きのほうにふらふらと歩いていく。元気がないな。そう思いながら、荻原はデイフェンスを越えてシュートを打っていく。カタンという音を出してボールがバスケットからはじかれる。ドンマイ、と単調な七川の声が聞こえた。

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