ミイとクジラ

ふっふー

プロローグ 数年後の僕へ

 十二月一日 晴れ

 とくになし。僕は十八歳になっていた。


 遠くから、外で遊ぶ子ども達の声が聞こえる。

 きゃっきゃと声を弾ませ、ボールを蹴る音が聞こえる。

 微かだが、近くの小さな教会からだろう。

 バッハのコラールが聞こえてきた。

 長いこと、その音を聴いていた。

 ふと嘆く。

 どうやら、元気で羨ましいと思ってしまったようだ。

 意識を部屋に移す。

 ぼーっと部屋を見やる。

 カレンダーは、二か月前のまま止まっていた。

 ハロウィンをイメージしたイラストだ。

 寂しく、申し訳なさそうに僕の目に映り込んだ。

 気付いたらもう十二月なのか。

 どうりで寒いわけだ。

 クリスマスも近い。

 だが、別にどうだってことはない。

 カレンダーを直そう、という気にはならなかった。

 クローゼットから服は、何着か床に零れ落ちたまま。

 それも、直そう、という気にはならなかった。

 本棚には異様なほどに本が並べてあるが、

 どれも父さんから貰った本で、少しも面白いとは思わなかった。

 立っていることを苦に感じ、ベッドに横になった。

 ベッドはひどく冷え切っている。身体中の体温を、容赦なく奪っていった。

 僕は目を動かし、部屋の様子を再び眺めた。

 この空間は、本当に無機質だ。

 そういえば、時計の針は止まったままである。

 まるで、この空間だけ外の世界から取り残されているような、そんな気持ちになる。

 僕も、すっかり取り残されてしまったのかもしれない。

 どくんと、心臓の音が聞こえる。

 身体を動かしていないからか、思ったよりもゆったりと動いていた。

 僕は、この取り残された空間に置かれた僕の感情に意識を向けた。

 ――いつか、この冷え切った感情も行き先を決めるのだろう。

 それとも、あてなく僕の心で彷徨うのか。

 横になったまま、しばし時が流れた。

 ベッドの横にある机に、そっと視線をやった。

 目の前の茶色い机は、小学校に通っていたときの宿題の名残がある。

 あちこちにクレヨンの油、鉛筆で引っ掻いた痕がびっしりと刻まれていた。

 机だけはずっと昔からこの机だ。

 不思議とこの空間にいながらも、気持ちが落ち着くような、そんな気がする。

 目を閉じる。真っ暗闇の中、机をきっかけに、僕の脳は回想をはじめた。

 ――昔は絵を描くのが好きだった。

 宿題で出た絵を、飼い猫のミイと一緒に描いた。

 ミイは僕の絵が好きだから、描く絵をずっと見てくれていたんだよね。

 今は寄りつかなくなってしまったけれど。

 あの頃の僕は意欲があった。

 何でも絵にして残してやろうと躍起になっていたのかもしれない。

 白い紙を机に広げ、はみ出すことを恐れずに、

 思いのまま色を塗りたくったような。

 このこびりついたようなクレヨンの青には、思い出があったような。

 目を開けると、机の棚に差し込まれた一冊の古びた本が目に留まった。

 重たい身体を起こし、その本を取り出す。

 表紙を見る。どうやら、昔の日記だ。

「あ、懐かしいな」

 最近の僕はあまり感情を表に出さなくなった。

 思わず声に出てしまって、少し恥ずかしくなる。

 何となく表紙を開いてしまい、そのまま紐解くこととなった。

 日に焼けてすっかり色あせた紙には、文字がびっしりと埋め尽くされていた。

 書いてあることは、『今日のごはん』とか、『好きだった女の子に言われたこと』とか、『ミイがいつもより楽しそうだった』とか。

 どうしてそんなこと、わざわざ日記に書いたんだろうって思うけど、たぶん、どうしても頭の中だけじゃ足りなかったんだ。

 人の記憶には限界がある。

 大事なことでも、いつかは忘れてしまうものだ。

 そのままめくっていると、ついに、問題の日記にたどり着いた。

 数ページに亘って綴られた文字は、隙間なく収まっている。

 窮屈そうで、今にも飛び込んできそうな気がした。

 ――数年後の僕へ。これからお話したいことは、僕が憧れの街で出会った色んな人達、素敵な場所、そしてミイとあのクジラ。すっごく大事な時間だったから、また僕に伝えたくて、日記に書きました。きっと今の僕にとっても大事な時間のままだから、どうか大切にして見てほしいな。

 こんな前書きを書くとは、よほどこの出来事に自信があるらしい。

 そう思った僕の心はすっかりこの物語に傾いている。

 久しぶりに、胸の鼓動が高まってきた。

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