冴えない後輩の歩みかた サンプル版

ななみの

第一章


 第一章 冒頭からシリアスってマジですか?


「なあ倫也、これで最後かよ」

「そうだな。この椅子で最後だ」

「やっとかあ……」

 去年までのクラスメイトで、そして幸か不幸か三年生となった今年もクラスを共にすることになったやつ――上郷喜彦が疲れ顔で話しかけてきたのは、入学式の片付けもラストスパートに差しかかった頃合いだった。

 当たり前だがこれは俺たちの入学式ではない。入学したてピカピカの一年生が式典の片付けなんか手伝わされるわけがないし。

 しかし人出が足りているわけでもないとなれば、じゃあ在校生に手伝わせようとなるわけで。

 そこで俺たちに白羽の矢が立ったのはただの偶然ってだけじゃなくて、佳乃ちゃんの涙ぐましいほどの試行回数と狡猾な口車と、ついでに乗せられやすい俺の性格の賜物なんだけど。

 普通に考えて、学校に来なくていいはずの日にわざわざ学校でボランティア労働に従事したい生徒なんて極々少数派に違いないし、本来であれば俺も多数派の一員だったはずで。

 なのにこうしてあくせくと働くことになったのには、山よりも高く海よりも深い事情があるんだけど、その話はまた今度にするとしまして。

 ……俺の名誉のために一応言っておくと、決して不祥事を起こしたわけではない。

「ふう、俺は疲れたよ」

「おいおい、さっさと帰ろうぜ。もう十二時近いぞ」

「お前なんでそんな元気なんだよ」

「午前中ちょっと作業しただけだろ」

「ちょっとったってお疲れ気味な季節じゃん? 最近春アニメの第一話ラッシュだしよ。特に昨夜の『風そよぐ四葉』なんてよ……」

「悪いが俺は昨夜寝落ちしてたからな。それ以上喋るならこっちにも考えがある」

「かーっ。俺とお前の差は睡眠時間だったのか」

「多分それだけじゃないと思うぞ。普段体を使ってるかどうかの差だろ」

 新聞配達も引っ越しも、高校生が短時間で稼げるアルバイトを探せば肉体的にハードなセレクトになるのも致し方ない。やりたくてやっているわけではないんだけど、それでももらえるものはもらっておこうなんて貧乏根性のおかげでプラス思考になれていたり。

「そんなわけで俺は佳乃ちゃんに報告だけしてもう帰るぞ」

「ちょっと待てってぇ……」

 喜彦の情けない声を背にして、俺は体育館の入り口へと足を進めた。

 ……リアタイ視聴できたこいつに対する恨めしさがあったとも言うけど。

「じゃあ校門で待っててやるよ、五分だけな」

 最後の部分だけを小声でつぶやくと、そそくさと体育館を後にした。

 ここから職員室に寄って佳乃ちゃんとちょっと喋って、それから校門に向かえばだいたい五分くらいだろう。

 五分で喜彦が来るならいいんだが、来なかったとしても後で恨み言が飛んでくるんだろうなあ。

 逆に五分待っても呪いの言葉を食らうなら待たなくていい気すらしてきたが、それはそれですっきりしないし。

 職員室に向かうためには当然校舎に入らなければならず、体育館から校舎に入るには渡り廊下を経由して昇降口を抜けなければいけない。その渡り廊下の長いことといったらないのだが、そこは早歩きで突破していく。

 帰ってアニメを観たいのもそうだけど、どうやら雲行きが怪しい。雨の予報なんて聞いていないので傘は持っていないし。

 濡れる前にさっさと帰ろうと小走りになったその時だった。

「うわっ……!」

「あたっ……!」

 曲がり角から飛び出してきた女の子とぶつかった。

「すみません、前をよく見ていなくて」

「いや、こちらこそ……」

 あわあわしながらも、立ち上がってパンパンとスカートの裾を手で払う彼女。胸にコサージュが付いているので、今日入学してきた一年生なのだろう。

 短めのお団子ツインテールに、中学生と言われても納得できてしまいそうな小柄な背丈。

 しかし、大学生と言われても納得しがたいくらいのボリューミーなアレを胸元にひっさげていて。

「あ、これ」

 傍に伏せて落ちた生徒手帳を見つけたので、先輩らしく冷静を装って拾い上げる。

 入学したてほやほやの年下の女の子と衝突して情けない声を出した十数秒前の過去と。

 あと、初対面の後輩の胸元を注視してしまった邪な心を打ち消すべく。

「……波島出海…………?」

「は、はい……?」

 何気なく覗き込んだ学生証の氏名欄には紛れもなくよく知った名前で、けれどもう数年間は耳にすることのなかったそれが記されていた。

「出海ちゃん……? えっ……あの出海ちゃんなの⁈」

「……って倫也先輩……っ⁉ あの、わたしですっ! 波島出海、こっちに戻ってきました!」

 ワンテンポ遅れて一礼して、それからニコッと笑う出海ちゃん。まるで幼い子供がいたずらがバレたときに見せるかのような笑顔が、四年前の彼女の面影とどこか重なった。

「そっかあ……本当に出海ちゃんなんだなあ」

「本当にってなんですか、もう。波島出海なんてあんまりいる名前じゃないと思いますよ」

 思わず口からこぼれた俺の感想に、出海ちゃんはクスッと笑った。

 このシーンだけ切り取ったらどっちが年上なのか怪しくなってしまいそうなやり取りに、出海ちゃんの成長をひしひしと感じる。

 でも、四年前の彼女しか知らない人なら誰だってこの反応になると思うんだ。

「だって、出海ちゃん本当に別人みたいだからさ」

「え~、倫也先輩そこまで言うかなあ」

 ぷくっと頬を膨らませる出海ちゃん。そんなしぐさもきっと四年前から彼女が見せていたそれのうちの一つで。

 だから、出海ちゃんから見た出海ちゃんは昔からずっと変わらないままらしくて。

「でも、あの頃の出海ちゃんは日焼けで真っ黒になってたし、髪ももっと短かったし」

 それが今では、眩しいくらい白い肌に程よく伸びた髪に。

「それじゃあわたし、ちょっとは女の子っぽくなりましたかねっ」

 あと、ふくよかに成長しただとか。

「ま、まあな」

 変に意識している自分が見え隠れしたような気がして、そっけない返事になってしまった。

 なんてったって、近しい友達と数年ぶりに再会を果たしただけでもかなりインパクトのあるイベントだし。

 で、その友達が妙齢の、しかも未だ発達途上の伸びしろ爆盛りの女の子になって帰ってきちゃったりしたら。

 その衝撃たるや、序盤でいの一番に死んだはずの仲間が実はラスボスだった……くらいのもので。

「一雨来そうだし、後は歩きながらってことで」

「はいっ!」

 なんて、とりあえずこの鼓動を運動エネルギーに変換することで誤魔化してみたりとか。


       ※ ※ ※


「いやあ~、すごい降ってきちゃいましたね」

「ほんとにね……」

 予想以上にザーザー降りの雨に襲われた俺たちは、帰り道の途中にある喫茶店にたまらず逃げ込んだ。

 そして、目の前では出海ちゃんが両サイドで縛った髪の先っちょを指でくるくるといじりながら、テーブルの上のメニュー表に目を落としている。

そのまま難しい顔をしてうなること数分、一つうなずくと彼女は大きく手を挙げた。

「すみませーん、小倉トーストとミックスサンド、あとアイスカフェオレお願いします」

「あとブレンドコーヒーも一つ」

 午前いっぱい働いたのに不思議と空腹感はないので、ここはコーヒーだけの注文にとどめておく。

「あ~、入学式緊張しましたぁ~」

「そうそう。言い忘れてたけど入学おめでとう、出海ちゃん!」

 ふふっと照れ笑いをこぼして伸びをする彼女に、本来真っ先にかけるべきで、けれど驚きやら桃の木やらで忘れてしまっていた言葉をかけた。

「ありがとうございますっ! 波島出海、本日付で本当に倫也先輩の後輩になりました!」

「出海ちゃん、うちの中学校入る前に引っ越しちゃったもんな」

 そんなわけで、出海ちゃんが正式に後輩だったことはない。

 むしろ俺からしたら、出海ちゃんは共にオタクコンテンツを楽しんでいた同志なんだけど。

 とはいえ、出海ちゃんをオタク道の入り口まで案内しただけでなく、そのまま洞窟の中へ手を引いていったのが俺だったっていうのもまた事実だったりするし。

「カバンについてるそのキーホルダーって『白雪姫』の神楽坂先輩じゃん⁈」

「えっ……⁈」

 目をぱちぱちさせる出海ちゃん。

「いやだって前期最高評価の一角じゃん! 俺も『白雪姫』なら神楽坂先輩なんだよなあ」

「倫也先輩も神楽坂先輩なんですね! わたしも一目見たときからずっと好きで好きで……」

 『白雪姫は毒林檎がお好きな模様』、前期絶好評だったアニメ。だいたい「白雪姫」って呼ばれてる気がする。

「くうう……出海ちゃん、俺が見ない間にすっかり成長して……」

「あはは、泣かないで泣かないで先輩」

 拳を震わせる俺に、出海ちゃんは手のひらをふりふりさせて笑った。

 小動物のような小柄で愛らしい外見で、今も運ばれてきたミックスサンドをむしゃむしゃと口に運んでいる現役女子高生だけども。

 しかしそれは世を忍ぶ仮の姿。心の内に熱いオタク魂を飼っている同志。

 本当に成長したなあ、と感心した。変わったなあ、と実感した。

 彼女に女っぽさを感じなかったあの頃が今となっては不思議に思えるくらいには。

「出海ちゃんはこっちにいつ帰ってきたの?」

「ほほひひはっへははへふほ」

「飲み込んでからで大丈夫だから」

 前言撤回、こういうところは変わってなかったりした。

「今年の春からですよ」

「へえ、そうなのか」

「だからこっちまで来て高校を受けたんですよ」

「あー、そうなるのか。なんか大学受験みたいな話だなあ」

 情けないことに、俺にはそんな経験などないので、またしても人生の先輩っぽさが失われていってしまった。

 まあ出海ちゃんがそんなことを思うはずがないから俺の後ろ向きな妄想もいいところなんだけど……。

「新幹線乗って遠くの街まで行って、ホテル泊まって……って感じでしたから旅行みたいで楽しかったですよ」

 かと思えば幼い部分もチラ見せしてくれたりするし。

 ……もしかして、俺、気を遣ってもらってる?

「昔住んでた街だから?」

「あ~、確かにそれはあるかも」

 なにかしらクリティカルなことを言わないと、と思い付きで口にした俺の言葉に出海ちゃんは腕を組んでふんふんとうなずいた。

 正直なところ、久しぶりに会った出海ちゃんがいい子過ぎて余裕がないというか、間が持たないというか。

 もやもやとした違和感の解決策を求めて窓の外に視線を向けた。帰ってるときには滝のように降っていた雨も今は小雨になりつつある。

「ねえ、倫也先輩」

 回想にふけっていた俺を言述世界に呼び戻したのは出海ちゃんだった。

「ん、どうしたの?」

 俺に呼び掛けたっきり、出海ちゃんは人差し指と人差し指をこすり合わせながら視線を右隅に落としたままだった。

 ……あれれ、もしかしてまたなんか俺やっちゃいましたか。

「ごめん、出海ちゃん! ちょっと考え事してて」

「ち、違うんです。そういうわけじゃないので……その、先輩は悪くないから」

 悪いのはわたしだから、と小さく呟いた。

「……悩みがあるなら力になるぞ。あ、勉強がわからないとかそっち方面だけはパスで頼む」

 情けない注意書きをこそっと最後に滑り込ませた。

 とはいえ、同じ高校の先輩として、かつての戦友として、あるいは再会した友達として、できることがあるならなんとかしたいというのは、言うまでもないところで。

「もう大丈夫なので……心配かけてごめんなさい」

 そんな俺の気持ちが中途半端に届いてしまったからか、それとも単純に届かなかったのか、出海ちゃんから返ってきたのは乾いた愛想笑いだった。

「わかった。でも本当に辛くなったら必ず言ってくれ」

 現状精一杯の俺の言葉に、出海ちゃんが小さくうなずいた。

 俺がどうにかできる問題かはわからないけど。

 少なくともこの場ですぐにどうにかできるほどイージーなことじゃないのは、今の短い時間でも十分すぎるくらいわかってしまったけど。

 いや、もしかすると俺が何もしない方がいいのかもしれなくて。

 それでも、俯いた彼女の表情を見て、何もしないで引き下がれるほど俺は冷静でも大人でもなかった。

「雨、収まってきてたんですね」」

「そうだな。そろそろ出よっか」

 出海ちゃんから二つ返事の承諾を得て、伝票を手に取った。

「あの、お金……」

「いや流石に二つ下の後輩に財布出させるわけにいかないし」

「うーん。じゃあごちそうさまです」

 出海ちゃんは渋々といった様子で財布をしまった。

 俺がどれだけダメダメな先輩でも、退けない一線くらいはある。

 それに財布くらい出さないと、落ち着かなかったり。

 ともすれば、このどうしようもない無力感をそのまま家にお持ち帰りする羽目になりそうで。

「はい、お待たせ」

「出してもらっちゃってごめんなさい」

「いいよいいよ、せっかく出海ちゃんにまた会えたんだから」

 しかも、豊ヶ崎の後輩としてだったんだから、その驚きったらなかったけど。

「それと、その……」

「うん?」

 ポケットからゆっくりとスマホを取り出すと、

「よかったら先輩の連絡先、教えてもらってもいいですか?」

「お、おう。いいよ」

 ちょっとだけ踏み込むのを躊躇って、返事に詰まってから、俺も同じようにスマホを取り出した。

「そうだ。それと、あいつの連絡先もくれ」

「あいつって……もしかしてお兄ちゃんの連絡先ですか?」

「そうそう。伊織の」

「いいですけど……先輩、お兄ちゃんの連絡先持ってないんですね」

 意外そうな顔で出海ちゃんがスマホの画面をポチポチして、追加操作を済ませた。

 軒先で天気を窺おうと手をかざしてみる。まだ曇り空だけど、雨は止んだみたいだ。

「はい、終わりですっ!」

「おう、ありがとな」

「あと……」

「お、おう……?」

 まだ言い忘れてること、あるっけ……?

「その……もうちょっと、もうちょっとだけ時間をくれませんか」

「……うん?」

「もうちょっと、考えさせてください」

 瞳をまっすぐ捕らえられて、思わず身体が固まった。

「それで……心が決まったらその時は、聞いてくれますか?」

 断る理由が見つからなかった。けれど、乗っかる理由も見つからなかった。

「……わかった」

 そして、断る選択肢だけは俺の中のどこにも見当たらなかった。

「そ、それじゃあ、よろしくお願いしますっ! さよならっ!」

「……いや、駅までは同じだから」

 俺の平静ぶった指摘を最後に、店を出てからはお互いに一言も言葉を交わさなかった。

 無言で足を進めながら、俺は遠くの灰色空をずっと見つめていた。

 鼠色と白色の曖昧な境界線を意味もなく目で追いながら、しかし浮かんでくるのは出海ちゃんの顔だった。それなのに。それだけのはずなのに。

 俯き加減の瞳に落ちた影の色も、切羽詰まって正面からぶつかってきたあの視線も。

 なんでだろう。どの瞬間を切り取っても、数年前のあいつが瞼の裏にちらついた。数年前のあいつと重なった。

 キラッキラの金髪と新雪のように真っ白な肌が脳裏にこびりついて離れなかった。

 俺が出海ちゃんをまだ知らなかった頃、出海ちゃんも俺を知らなかった頃、そして俺にはあいつしかいなかった幼いあの頃の。

 なんでだろう。捨てたつもりで、けれど臆病な俺は自分にも見つからないように、あいつの欠片をこっそり引き出しの奥にねじ込んでおいたらしくて。

 数年後の自分へのタイムカプセルだったのか、あるいは放棄することを体が拒否していたのか。それとも、そうすることしかできなかったのか。

 当時は、今の自分には何もできやしないと諦めて、今となっては遅すぎるとため息をつき。

 思い出すくらいなら捨てておけばよかったと後悔するにも手遅れなくらいに、今でも何もできなくて。

 そして今回も捨てる選択肢は結局見つからなくて、宙ぶらりんの約束が頭の中をぐるぐるとめぐっていた。

 引き出しの奥の欠片は今となっては鋭いガラスの破片も同然で、雲間から時たま差し込む光みたいにチクチクと心を刺していた。


       ※ ※ ※


「伊織、お前には聞きたいことが山ほどある。全部吐いてもらうぞ」

「いきなり呼び出されたかと思えば、早々怖い顔で睨まれる僕の身にもなってみて欲しいんだよね」

 出海ちゃんと衝撃の再会を果たした数日後、俺は電話で伊織を呼び出した。一言二言くらいは面倒なことをごねられるかと思ったんだけど、意外にも伊織は即応で了承した。

 そして、ログハウス型の喫茶店での今に至る。

 あの日から雨の日が何日も続いたのに、今日は打って変わって日差しの気持ちいい春の陽気。

 そんな心地よいはずの日の夕方に、俺は腕を組んで後方彼氏面……じゃなくて普通に険しい表情をしている。対照的におちゃらけた顔でコーヒーを啜るのは波島伊織。あのよくできた出海ちゃんの実の兄にして、

「で、藪から棒に何の用かな? 高く捌けそうな同人誌が大量に手に入ったとか?」

 実によくできてない悪の同人ゴロツキオタクだ。

「なんだよ。用がなきゃ呼び出しちゃ悪いのかよ」

「流石に作者も、僕と倫也くんのカップリングで売り出す気はなさそうだし、腐女子ホイホイしかねない軽率な発言は控えた方がいいと思うんだ」

「わかっててやってるお前にだけは絶対言われたくないな……」

 波島伊織、こういうやつだ。

「それで? この前出海に会ったんだって?」

「そ、そりゃ同じ学校なんだし顔合わす機会くらいあってもおかしくないだろ」

 唐突に出海ちゃんの名前が出て戸惑った。

 別にやましいことがあるわけじゃないうえに、いくら学年が違くたって同じ敷地内にいれば会わないほうがよっぽど不自然だし。

 それこそお互いがお互いを避けたりでもしない限りは。

「僕が言ってるのは廊下ですれ違ったときにちょろっと声をかけられたとかそういうことじゃなくて、喫茶店で長いこと話し込んでいるうちに偶然手と手が触れあったりしていい感じのムードになったりとか」

「待て、そこまではなってない! 断じてなってないからな⁈」

 こいつ、さては近くで見てたりでもしたのか……?

「だいたい、出海ちゃんがうちに来るなら一言でも連絡くれればよかったのにさ」

「だって、君が通ってる高校がどこかなんていちいち……」

「まあ普通そうだよな」

 俺と伊織が最後に会ったのは俺たちが中学生のときだったし、当時小学生だった出海ちゃんが知らないのも無理ない。

「うん、まあ君が豊ヶ崎に通ってることくらいは知ってたけどね」

「なんだったんだよ今のくだり!」

 膨大な情報網を抱えてるこいつならやりかねないとは思ったけどさ。

「こっちに帰ってくることが決まってさ、一応声くらいはかけておこうと電話したんだけどさ、倫也くん三回くらいかけて三回ともお話し中だったから」

「あっ、ああ……」

 ……伊織の電話番号、着信拒否にしたっきりだったっけ。

 別れ方が別れ方だったから使う機会もなかったし、そのまま忘れてたんだろうな。

 相手が伊織であることを差し引いても、この場合は流石に申し訳なくなってきた。

「そ、それは俺が悪かった……ってことにしておいてもいいぞ」 

「まあ、そんなことはどうだっていいんだけどね」

 俺の謝罪もどきをばっさりと斬って捨てると、伊織は窓の向こうの遠くを見つめた。

「入学式当日じゃ終わった後おしゃべりしてくような相手も出来にくいだろうし」

「いや、そんなことは……そのくらい出海ちゃんなら……」

 できるんだろうか、四年前の快活な波島出海なら。

 あるいは、四年間で一気に女の子らしくなった今の波島出海なら。

「できると思うかい、倫也くん?」

 コーヒー色の苦い瞳に詰め寄られて、答えに詰まった。

「……お前はどう思うんだよ」

 俺の後出し宣言に、伊織はゆっくりと目を閉じた。

「僕ならそのくらい朝飯前だけどね」

「……どうせなら逆の方がよかったのにな」

 伊織ならできるってことは、つまりその逆が存在するっ言ってるも同然なわけで。

 そして、この場における「逆」が誰の話なのかだってのは言わずもがなで。

「なあ伊織。何があったんだよ」

 本来は出海ちゃん本人から聞くべきなんだろう。実際、出海ちゃんもその意思を見せつつあった。

 でも仄めかすとかそういうことじゃなくて、きっぱりとNOを告げられてしまえば、引かれた線で止まることなどできっこない。

「聞きたいのかい?」

「気になるだろ」

「でも、聞いちゃいけないこともわかってるんだろう?」

「まあ、そりゃ……な」

 こうしてきつくブレーキでもかけられたりしない限りは。

「本当のところを言うとね倫也くん、僕もすべてを掴んでるわけじゃない。だから、君に伝えようとすると僕の憶測もだいぶ混じってしまう」

「それもそう……か。そういう時期、だもんな」

 思春期の女の子の悩みの全容なんて、いくら伊織でも掴んでいないはずだし。

 ましてや、それが兄妹なんて近い関係ならなおのことで、近ければ近いほど伝えにくいこともある。

 実際、近ければ近いほど助かるのなんて、コンビニとか、あとはとら〇あなとかメロン〇ックスとかそれぐらいのもので。

 いっそ関係が遠かったりすれば綺麗さっぱり忘れられるのかもしれないけど。

「うーん、まあそれもあるんだけどね」

「なんだよ、含み持たせやがって」

 腕時計にちらりと目線をやってから伊織は口を開いた。

「倫也くん、僕はね君に期待してるんだ」

「何をだよ」

「口に出さないとわからないかい? それとも……」

「それとも……?」

 一瞬だけ表情を曇らせてから、伊織は口元を結んだ。

「……悪かったね。少し熱くなってた」

「別にいいが……そんな伊織、初めて見た気がするな」

 伊織が熱くなることももちろん、そしてこうして期待をはっきり他人に伝えることも。

 特にその問題が問題なだけに、解決を人に投げることなんて。

「ああ、だとしたらそれは四年間で変わったってことなんだろうけどね」

「四年間もあったらな」 

 四年間なんて、続編を出そうにもユーザーが前作を忘れるか忘れないかの瀬戸際……くらいの年月にはなるだろう。

「でもね、僕は四年間で変わらないもの、変わってないものもあると思ってるんだ」

「この喫茶店もそうだろ」

 伊織が何を言いたいのかはっきり掴めないまま、俺は曖昧な一般論を口にしてお茶を濁した。

「安心したよ。君は四年経っても、驚くほどに何も変わってない」

「悪口の数だけお前のコーヒーに角砂糖ぶち込んでやるからな」

 角砂糖の入った備え付けの小瓶に手をかけて、臨戦態勢を取る。

「だから君には期待してるんだ」

 同じフレーズをまた繰り返した。

「だいたいそこまで言うなら、『お願いします、倫也様』くらいはあってもいいと思うんだが」

「ほら、お願いするのは出海がお嫁に行くときじゃないとね」

「なんだかんだお前シスコンなんだろそうなんだろ」

「そんな顔をしないでくれよ。僕は別に、相手が君だなんて一言も言ってない」

 ちょっとペースが崩れたかと思っても結局すぐこれだ。

「言いたいことはそれで全部か? 俺は帰るぞ」

 財布から千円札を出してぶっきらぼうにテーブルに放り投げた。

お釣りがくるくらいだけど、よくよく考えたら呼び出したの俺だったしなぁ。

「じゃあね、倫也くん。多分またすぐに会うことになると思うけど」

 伊織が小さく手を振ってから去っていった。

 ……伊織が何を言いかけてたのか、聞き忘れていたことに気が付いたのは伊織と別れた五分後のことだった。

 あとは出海ちゃん、なんで伊織と同じ高校に進まなかったんだろう、とか。

 別れた後になってから聞きたかったことがいくつも浮かんできた。


       ※ ※ ※

 

 朝日がキラキラ輝く午前七時、まだ教室には人っ子ひとりもいない時間帯。

 そんな時間帯になぜ俺が学校まで来たかといえば、

「倫也! ほら、早く早く」

「まったく急かすなって。ほらよ」

 このゴールデンな暴君にブルーレイディスクボックスを貸し出すためだ。

 澤村・スペンサー・英梨々。イギリス人の父親と日本人の母親に日本で育てられたお嬢様。

 陽の光が当たってキラキラと輝く金髪に白い肌が眩しくて、付き合いの長い俺じゃなくたって、誰もが掛け値なしに美少女と評する容姿。

 優雅なふるまいと落ち着いた言動も相まって、現在ミスコン二連覇中の有名人。

「とろとろしてんじゃないわよ。誰か来たらどうすんのよ」

 して、その実態は邪知暴虐の王・澤村英梨々ンゴその人はさっそくビニール袋の中身をゴソゴソやり始めた。

「だいたいこの作品、最初の方は散々こき下ろしてたくせに放映終了してから観たい観たい言うし」

 ついでに重度の、それこそ俺と張るくらいのオタクなんだけど。

「うるさいわね。気が変わったのよ、気が」

「それにこの作品お前リアタイで観てたじゃん。翌朝は何借りるでもないのに呼び出して延々と語ってたじゃん」

「あんたいつから他人の作品の楽しみ方を批評できるくらい偉くなったのよ。オタクは自由なの。地雷は避ける、推しは躊躇わず推す、公式には貢ぐ。それでいいでしょ」

「お、おう……」

 ……さてはこいつ、珍しくまともなこと言ってるな?

「あと、いい作品は何度見てもいいものなの」

「いいこと言ってるから流されかけたけど、だったらお前が自分で買った方がいいんじゃ……」

「べっ、別にいいでしょ⁈ そんなの気分よ、気分!」

 英梨々は顔をぷいっと背けて鼻息を荒げた。

「そういや、この教室で会うのは初めてか」

「何言ってんのよ、毎日会ってるじゃない」

「そりゃそうだけどさ、俺、教室で話した覚えないし」

「あたしも話した記憶ないもん」

「……ちなみに話しかけたら?」

「笑顔でスルーの後に一生絶交よ、そんなの」

 人前で話しかけないこと、口に出して約束をしたわけではないが、数年前からどこか習慣のようになっているそれだ。

 それでも、ここ一年くらいはこうして冗談まで交わせるようになって、それも俺たちにとっちゃ大きな進歩で。

 こんな七面倒くさいことをしているのも、英梨々がオタクであるという事実を巧妙かつ慎重に隠しているからで。

 よって俺が英梨々にこうして何か貸そうと思ったら、朝早くか夕方遅くの二択になるわけで。

 もっと言えば、朝の方が見つかる可能性は低いだろうしってことで、今のこの状況がある。

 もちろん去年みたいにロッカーを使ってブツを受け渡す方法もあるんだけど、同じクラスだとそっちの方が窮屈だったり危険だったりするからな。

「今年は、同じクラスなのよね、倫也と」

「お、おう。そうだな?」

 遠くの空を見つめながら英梨々が息を吐いた。

 去年とは違う環境、違う距離感だってことくらい俺にだってわかってる。

 でも、わかってるだけなのはきっと、距離感ごときではどうにもならないハードルの高さに俺が半ば絶望してるから……なんて他人事みたく思ったりもして。

「なあ英梨々、女の子って思春期でガラッと変わったりとかするもんなのかな」

 変わらない俺たちとは対照的に、大きな変化を遂げた女の子を目の当たりにした直後ならそれはなおのこと。

「し、知らないわよ。そんなの人によりけりでしょ」

「そりゃそうだけどさ。それこそ小学生の頃とは別人みたいになったりとか、そういうことってあったりするのかなって」

「……あんたいきなり何言いだすのよ」

 要領を得ないといった表情で英梨々が答える。

「それこそ倫也なんて昔からなーんにも変わらないじゃない」

「それを言うなら英梨々もだろ⁈」

 その怪訝な目も、こうやって強気に突っぱねてくるところも。

「は、はあ? な、何言ってんのよ、実際に見たこともないくせに⁈」

 と思っていたら、英梨々は想像よりずっと狼狽し始めた。

「見たことないって……もう何年の付き合いだと思ってんだよ」

 それこそ背中のほくろの位置もバレてるくらいの近さだし、逆に知らないことを探す方が難しいはずなんだけど……。

「見せてない! だってここ数年は見せてないもん⁉」

「そりゃここ数年は色々あったけどさ、そこまで言わなくても……っ⁈」

 英梨々が胸元を両手で抱いてこちらを睨みつけてくる。気のせいかもしれないけど、ほんのりと頬が紅いような……。

「倫也……最低……っ」

 涙目で訴えかけられて、そこでようやく気が付いた。

「待てって! 俺は胸のことなんて一言も……」

「やっぱりそうなんじゃない! 悪かったわね、小学生の頃から変わらないくらいしか成長してなくて⁈」

「だ、だから違うんだって……。とりあえず落ち着いて話を……」

「も、もう知らない! 帰る!」

 英梨々が座っていた机から降りると、ガタンと大きな音が響いた。そのままスタスタと歩を進め、教室のドアをピシャっと閉めた。

「帰るったって、この後授業だろ……」

 なんて、自分がその原因を作った張本人であることは都合よく忘れることにして。

 ……出海ちゃんのこと、英梨々に伝えようと思ってたのにタイミングを逃してしまった。

 伊織との別れ際といい、なんか最近こんなこと多いなあ……。


       ※ ※ ※


 ……そんなことがあった日の放課後、電車を乗り継いで駅から徒歩十分の閑静な住宅街。

「ど、どうぞ」

「ありがとな、出海ちゃん」

 玄関先で新築の香りに圧倒されている俺と、ガチャガチャと鍵を開けてから俺を招き入れてくれた出海ちゃんの姿があった。

 波島と記された表札を視界の端っこへ流しながら一軒家へと侵入していく。とにかく落ち着かないので、大仰に靴を揃えてみたりなんかしてわざとらしくも間を取った。

「こっちこっちです」

 出海ちゃんの後ろに引っ付いてスタスタと階段を上がった先に開かれたのは、

「ここが出海ちゃんの部屋かあ……」

「改めて、いらっしゃいませ、倫也先輩!」

 何の間違いか、こうして放課後に高校一年生の女の子の部屋に来てしまっているわけですが。

 もちろん俺から志願する勇気やら気概やらなどあるわけもない。ひとり校門を出たところで出海ちゃんに捕まった俺は、あれよあれよという間に家路とは別方面の電車に揺られることになった。

「女の子の部屋にいきなり訪問とか、オタクにとっては結構ハードル高いんだぞ」

 出海ちゃんの両親も伊織もいないことが一層壁を引き上げていたりするんだけど、そこまでは口が裂けても言えない。

「女の子の部屋って言われても……まだ段ボールの中身も全部出し終わってないんですよね」

 てへへという出海ちゃんの笑みすらも、どこか特別なものに見えてくる。

 …………いかんいかん、この雰囲気はまずいって……。

「そんなわけで、その……倫也先輩にお願いしたいことがあって……」

「いっ、出海ちゃん……っ⁈」

 少し赤らんだ顔をそっぽに向けながら、出海ちゃんは歯切れの悪い口調で俺に迫った。

「本当は間違ってるんだってこと、わかってるんです。でも、こんなこと……倫也先輩にしか頼めないから」

「わ、わかったからとりあえず落ち着いて……」

 出海ちゃんが膝歩きでゆっくりとこちらに近づいてくる。

 次いでふわっとした甘くて軽い香りが鼻腔を駆け抜けていったタイミングで、俺の心臓も爆走を始めた。

「だから倫也先輩……お片付け、手伝ってもらえませんかっ!」

「そういうことは本当に好きな人と……って……片付け?」

 俺がよからぬ妄想の残滓を口走りかけて、それから心臓のエンジンルームが急速に冷やされていく。

 程なくして頭もばっちりクールになって、今度は脳内に大量の疑問符が湧いてきて。

 あとそれから……

「あの波島出海さん……今の言葉、聞こえてましたでしょうか……?」

 壁の一点をぼーっと見つめてフリーズしてる出海ちゃんが視界に入ってきた。

「…………ふぇ? 何も聞こえてましぇんひょ……?」

「ほ、本当に⁈」

 驚きのあまり、反射的に出海ちゃんに近寄る、と。

「……な、な、何も聞こえてないから大丈夫っ! ……なので、えっと……わたしから離れてもらえると…………」

 だって口でどれだけ社会的な身の安全を保障されてても、耳まで真っ赤に染まってたら流石に、嘘が嘘になってすらいないこと請け合いなわけで……。

「あっ、はい……」

 ……どうやらダメみたいですね。


「ふ、ふう……これで全部?」

「はいっ、なんか本当にすみません……」

「いや、大丈夫……だけどちょっと休憩」

「本当はわたしひとりでやるべきところなんですけど……ちょっと」

 中身のずっしりとした段ボール箱を運んで、階段を昇り降りすること数十分。

 ひとしきり運送し終えた現在、出海ちゃんの部屋は段ボール箱で埋め尽くされていた。

「だってこの量だもんなあ」

「でもしょうがないじゃないですかこんなの……捨てるわけにはいきませんからっ!」

 出海ちゃんはグッと拳を握ると両手を振り回した。

「捨てるなんて……両手両足をちぎって置いてくるのと同じようなものですっ!」

 そして、こちらをビシッと指さして決めポーズ。

「確かに仕方ないよなあ」

 オタク七不思議が一つ、なぜか自宅のグッズの総量を気にするオタクはいない。

 かといって捨てられないとなれば、必然的に運ぶのにもしまうのにも一苦労な状況が一丁上がり。

 そうして隠れオタク趣味や、最悪の場合はあんな性癖やこんな性癖がバレてしまった例も多数報告されており……。

 えっと、今はそんな話はどうでもいいんだったっけ。

「そうです、仕方ないんですっ!」

「うんうん……あれっ?」

 その豊満な胸部を突き出して……じゃなくて、ドヤ顔で胸を張って鼻息を荒くする出海ちゃん…………?

 出海ちゃんが後輩で、俺が先輩で、そしてつい最近に数年ぶりの再会を果たしたばかりだという現実ををひとつひとつ確認していくと軽くめまいがした。

「……とりあえず片付け始めてくか」

「は、はい、わたしも頑張るのでどうか最後までお付き合いをば……」

 気が付いたらちゃんといつもの真面目な出海ちゃんに戻ってるし。

 オタク形態のときだけ人格と押しの強さが急変するのって、いったい誰に似ちゃったんだろうなあ……。


       ※ ※ ※


「んーー。これで最後?」

 大きく伸びをしながら、出海ちゃんに今日二度目の同じ質問を投げかける。

「はい、それで最後ですね、多分!」

 初期段階、段ボール箱に占拠されていた部屋。現在、オタグッズに支配された部屋。

 うん、まるで成長していない……。

「じゃあ、この本と漫画の山をそろそろ本棚に詰めましょう~」

 当然ながら、段ボール箱が散乱している部屋では身動きひとつ取るのも厳しい。

 ならばと手当たり次第で段ボールを開封していったわけだが。

「うわあ、これ懐かしい……!」

「それ出たの俺が中学生くらいのときだから、多分出海ちゃんはまだ小学生だったかもな」

 気になる本を手に取る度にパラパラとめくって流し読み……だけのつもりがふたりして熟読を始め、部屋は沈黙に包まれ、続きの巻はどこだろうと段ボールをガサガサやる段階になってやっとこさ正気に戻る、そんなサイクルを繰り返すこと数回。

 とうとうほとんどの段ボール箱は空になったので、今度は床やらベッドやら椅子やらに積み上げてある書物たちを本棚に移して、再度スペースを作った。

「よーし、じゃあ開けるか」

 狭い環境でのこういう作業はどうしたって窮屈な体勢になりがちで、だからかその前の運送作業も含めてか腰が悲鳴を上げつつある。

「あ、先輩……それだめっ⁉」

「えっ」

 箱の中から現れたのはレースで飾られた薄紫の布。

 いや、布切れというか服というか、つまるところこれは……

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 女の子の部屋で見てはいけないものランキング二位、下着………。

「いや……下着、入りきらなくてそっちの箱に詰めたのはわたしなので……わたしこそごめんなさい……」

 俺が後ろを向いている間に、出海ちゃんは下着の群れをひょいひょいと取り出して隠していった。

 ……それにしても、なんというか俺が見てもわかるくらいにラージな人のためのそれで……

「先輩、その…………見ました?」

「み、み、見てないし? ぜんっぜん、これっぽっちも、ちょっとだけしか見てませんよ⁈」

「……ということは見たんですね?」

「まあ……はい…………」

 背後に出海ちゃんのプレッシャーを濃く感じる。

 その勢いたるや、ゴゴゴゴゴ……とか音が出そうなレベルで。

 それでも、俺は後ろを向いているので実際は出海ちゃんがゴソゴソ動いてる音が聞こえてくるだけなんだけど。

「はあ……仕方ないですね。こうなったら奥の手です」

「へ? 奥の手?」

「はいっ、こうするんですっ」

 刹那、視界がブラックアウトした。目元には出海ちゃんの両手が、そして背中には出海ちゃんの豊潤なダブルキャノンがぴったりと張り付いており。

「出海ちゃん、ちょっ……⁈」

「……いいですか、先輩は全部忘れます、綺麗さっぱり忘れるんです。いいえ、先輩はわたしのブラなんか見てません。そんなことなかったんです」

 あの、出海ちゃん……耳元で囁かれてドキドキが止まりません……。

 それと、背中にゆさゆさ当たってるものが気になりすぎて洗脳に集中できません……。

「これで完全に記憶消去完了ですね」

 洗脳する内容に一切そぐわない洗脳手法でしたね、などとはもちろん言えるわけもなく。

「もうこっち向いても大丈夫ですよ」

「念のために聞くけど、段ボール箱の中に俺が見たらまずいようなものはもう……」

「そんなものはありませんっ!! もうっ……」

「ですよねそうですよね本当に申し訳ございませんでした」

 不覚にも洗脳が全く効いていないところを見せてしまった俺は、出海ちゃんにこっぴどく怒られた。

「じゃあ気を取り直して開けるからね……って、出海ちゃんこれ……」

「わわっ、またなんかありました⁈ って、それは……」

 一本のゲームパッケージに刻まれた文字は『リトルラブ・ラプソディ2』。

「これ、倫也先輩にもらったんですよ」

「そりゃあげたの俺だし、そのくらいは覚えてるよ」

「ふふっ、それもそうですね」

 箱から取り出して、出海ちゃんはぎゅっと抱えた。

「本当に先輩にはいろんなものをもらったんですよ」

「いやいや、俺はただ種をまいただけだよ」

 これは本当に謙遜でもなんでもない。

 出海ちゃん本人の熱意と不断の努力があったからこそ、ちゃんと芽が出て。

 そして、今やこんな立派な大輪のオタクとして花を咲かせているわけで。

 俺が果たした役割なんてせいぜい引き金を引いたくらいのもので、ただそれだけで。

「なんかパッケージ見たらやりたくなってきちゃいました」

 でも、近くに戻ってきた彼女を見ていると、引き金を引けたことが誇らしく感じられたりもする。

「俺も2の方はかなりご無沙汰なんだよな」

 まあ、だいたい片付けも終わりましたということで。

「じゃあ長くなりそうですし、お茶淹れてきますね」

「サンキュー、出海ちゃん」

 出海ちゃんがパタンとドアを閉めて、ついで階段のほうからパタパタという足音が聞こえてきた。

 思い返してみると、『リトラプ2』を出海ちゃんにハードごとプレゼントしたのが……もう何年前だろう。彼女と一緒に遊んでいたのは遠い昔の記憶なのに、結構鮮明に残ってたりするのが意外だった。

 そうだ、ハードごとあげたんだから段ボールの中にハードも一緒に入ってるはず、と箱の中を覗いてみる。

「やっぱりあったあった……って、これは……?」

 無造作に箱にしまわれていたのは一冊のスケッチブック。

 にしたってこの部屋にはスケッチブックも画材らしきものもないし、ということは図工の授業で使ったものか何かだろうか。

「…………えっ……?」

 そんな取るに足らないいたずらごころで開いたスケッチブックに広がっていたのは、膨大な数のイラスト。

 それもただのイラストなんてもんじゃない。平均的なレベルを遥かに凌駕していることはドの付く素人の俺にでもわかる。

 それこそ、あいつに見劣りしないくらいの……。

「……なんなんだよ、これ」

 だって紙の世界で笑って、泣いて、そして怒っているキャラクターの、そのすべてが『リトラプ3』のものだったから。

 もう何もわからない。けれど、これが出海ちゃんの見せた哀しみの断片で、伊織が憂いていたことだっていう予感がして止まなかった。

 最後のページのメインヒロインは皮肉なくらいに輝かしい笑顔を浮かべていた。

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