練習

胆鼠海静

第1話

上下左右が、柔らかい光に包まれている空間に能葉は立っていた。

「お気づきになられましたか」

能葉の頭上斜め上に浮かぶ点が喋っていた。

「ええと、誰」

点という無機質なものを「誰」と形容したことに自分でも驚いた。

「そうですね、仲介係といいますか、別の世界に行く方が、行き先で引き起こす摩擦を最小限に抑えるために設置された役職です」

「じゃあ、ここは」

「世界と世界の結節点です。ここに来たあなたは、所定の手続きに従って別の世界に行き、そこで新しい生活を送ってもらう、ということになります」

別の世界といわれても、そもそも元の世界から離れた、という感覚はなかったが。能葉の心中を察したのか、点は言葉を次ぐ。

「従来は、突発的な事故の形を採っていましたが、それだと人格の損傷が激しく、別の世界への移行が難しくなってしまうケースが多々あったため、漸進的に移っていただく形になりました」

一度区切りが付いていないとそれはそれで発狂の元になるとは思うが、少なくとも自分の中には、それと分かるような感情の波立ちはなかったので、能葉は、黙って頷いておいた。

「質問はそれだけですか」

他に何か質問すべきなのかしどろもどろになっていると、

「現在形成されつつある文脈はリストの2311番に該当します。ここで質疑応答が終わった場合、ここで形成された文脈は新たなケースとしてリストに追加され、今後の結節点における質疑応答に役立てられることになります」

流れる点の声と同時に、さきほどのような質問をした人はこのような質問もしています、というリストが浮かび上がってきた。それを払い除けながら、

「その、なんでこういうことをするの」

と聞いてみる。

「その質問は、哲学性を帯びてきます。私たちは、世界間の橋渡し役として、各結節点に配置されていますが、誰、または何が私たちを配置したかについては、記録らしい記録は見当たりません」

「その『誰』とか『何』っていうのは」

「私たちは、結節点同士の通信を介して、私たちの配置者あるいは制作者についての議論をすることを許されています。このような場面では、議論対象を神といっても差し支えないですが、神という言葉は様々な文脈を背負っており、その多義性により解釈が拡散状態に至ってしまったため、結節点ネットワークにおいては、その呼称は二千クール前に不採用となりました」

段々と事務的になっていく点の口調によって周囲の明度が下がっているような気がしてくる。自分が置かれている状況の神秘性が減じてきたからだと思う。神秘性がなくなるというと、次は元の世界のことが気になってきた。そういえば、エアコンの電源を切った記憶がない。こういう話が展開されると分かっていたら、まずそれを聞いておくべきだった。急に湧いて出てきたエアコンという観念に能葉の意識は引きずられ、点の説明の何割かが耳から抜けていく。

「私たちとこの場所が配置された目的についてですが、おおよそ合意が得られている説として『濃度調節』説が挙げられます。世界には自然的な領域と意味的な領域があり、どちらも他の世界からその領域を成り立たせる資源を受け取っているのですが、両者の中で意味的な領域の供給口となっているのが、あなた方のような知性体の意識です。ただ、供給口である意識は、一つの世界に偏りやすく、偏りすぎた意識を逐次、他の世界に逃がし、全世界で見た時の意識の濃度を一定に保つ必要があります」

寝床の脇で丸まった湿布の辺りまで、意識を放浪させた末、能葉は我に帰る。

「ちょっと待って、元の世界に帰れたりはしないの」

数秒間沈黙が流れた。

「少し、確認しますね」

演出なのかしらないが、キーを叩く音が少し籠った音量で聞こえてきて、合間合間に「あ」とか「あー」とかいう声が挟まってくる。

「数分前なら可能でした」

再び沈黙が流れる。

「数分前、あなたの世界に意識の急激な流入があったらしく、あなたを含む数億の知性体が抜けたことで生じた不足分が、充填されています」

引き継ぎ係が、点なのはつかみかかる体がないからだろうか、と能葉は思う。

「時間が来ましたので、移行シーケンスに入ります」

豪奢な装飾の施された門が、能葉の前に現れる。

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