第8話 帰還 ①

 泰輝が仰向けにはめ込まれた穴の手前で、金色の体毛に覆われた巨軀が静かに四肢を大地につけた。九本の尾が瑠奈たちに向いている。

 葛のにおいが立ちこめた。

 小野田も恵美も彩愛も、身動き一つせず、ただ立ち尽くす。

「本郷さん」

 瑠奈の声によって白面が左の横顔を見せた。三つの細い瞳が瑠奈に集中する。

「もう本郷梨夢ではない……そう言ったはずだ」

 しわがれ声が瑠奈の言葉を否定した。人であった時間を捨てたらしい。すなわち彼女は、九尾の狐という純血の幼生以外の何ものでもないわけだ。

 そして彼女――九尾の狐は、黒っぽい虹色の怪物に顔を向けた。

 冷気が消失し、蒸し暑さが蘇った。

 見上げれば、門はすでにない。

 九尾の狐が前方に跳躍した。

 彼女が巻き起こした一陣の風が、立ち尽くす四人に土埃を浴びせる。

 瑠奈は顔を伏せて目をかばった。そして再び正面を見れば、九尾の狐はショゴスの右で身構えていた。

 刹那、何本もの黒っぽい虹色の腕が九尾の狐に躍りかかった。

 次から次へと襲い来る握りこぶしを、金色の巨軀は右へ左へと小刻みに飛び跳ねて躱す。

 何本もの腕が風を切る音と、九尾の狐が大地を蹴る音とが、宵闇の中で延々と続いた。

 腐臭と甘いにおいが混交する。

 瑠奈は二体の戦いから目を離せなかった。だがいずれが勝つにせよ、勝者が泰輝にとどめを刺すことは目に見えている。

 繰り返される攻防に終止符を打ったのは、九尾の狐だった。

 大きく跳躍した九尾の狐が、数本の腕の間をかいくぐり、敵の本体の反対側へと着地した。そしてすかさず九本の尾を前方に伸ばし、鏃のようなそれぞれの先端を黒っぽい虹色の固まりに突き刺す。

「テケリ・リ!」

 声を上げたショゴスが無数の腕を髪のようになびかせて宙を飛んだ。否、九本の尾が振り上げられ、その力によって原形質の巨体が持ち上げられたのだ。

 九本の尾が突き刺さったままの状態で、不浄なる合成生物は金色の巨軀の後方へと落ちていく。同時に、九尾の狐がそちらへと素早く正面を向けた。

 ショゴスが大地に激突した。

 再度の地響きに瑠奈は足に力を入れて耐えた。

 ショゴスの何本もの腕が本体に吸い込まれた。代わりに現れたのは、甲殻類のはさみのような部位――を有する一本の腕だった。大北方川で二口女と戦ったときに使ったのと同じ器官らしい。

 巨大なはさみが金色の尾の一本に迫った。

 素早く闇に走ったのは、九尾の狐の舌だった。長く伸びた舌が、敵のはさみの付け根に巻きつく。

「汚らわしい下等な生物め。貴様にお似合いのとどめを刺してやろう」

 しわがれ声を放った舌が、はさみを有する腕の動きを封じた。

 白面に狂気が浮かんだ。

 すさまじい音を伴って九本の尾に稲妻が走った。突き刺さったままの尾から原形質の体へと、荒れ狂う光が撃ち込まれていく。

 三秒……五秒……十秒……と続いた電撃が、ふと、止まった。

 長く伸びた舌が引き戻され、解放された腕がぐったりと大地に横たわった。さらに、九本の尾が引き抜かれる。

 うっすらと湯気を立てるショゴスに、動きはない。

 九尾の狐が星空を仰いだ。

 しわがれ声がかすかに聞こえた。口の中に収まった舌で言葉を紡いでいるらしいが、瑠奈には聞き取れない。

 横を見ると、恵美によって拳銃をこめかみに突きつけられている彩愛が、微笑をたたえていた。

 黙した九尾の狐がショゴスに顔を向け、三歩ほど後退して間合いを取った。

 不意に、ショゴスを取り囲むようにいくつもの門が現れた。虹色のマーブル模様を表面に浮かべるそれらは、十個以上はあるだろう。繫がったシャボン玉が完全な球体ではないように、それらも隣接する門との接する箇所は球体を部分的に切り取った面である。一つ一つの大きさは、どれもが差し渡しで二メートルほどだった。ショゴスの体はいくつもの門によって完全に覆い尽くされ、一部とて垣間見られない。

 そして、いくつもの門が同時に消えた。そこにショゴスの姿はなく、地面の数カ所にゴルフボールのディンプルのようなへこみがあった。

「電撃で細胞を破壊したうえで、いくつもの門によってその体を切断すると同時におのおのを違う場所に転送したのね」

 彩愛が言った。

 ゆっくりと、九尾の狐が正面をこちらに向けた。

 小野田と恵美はそれを睥睨しつつも、次の行動に出ない。おそらくは、出られないのだろう。

 腐臭が消えていた。今は葛のにおいだけが漂っている。

「はっきりとさせておく」半開きの口のまま、九尾の狐は言った。「わたしはどこぞの落とし子どもとは違う。あの程度の動く粘土ごときに手こずりはしない」

 六つの目が笑った。少なくとも瑠奈にはそう見えた。

 半ば地中にうずもれている泰輝へと、九尾の狐は近づいた。

「幼い弟よ、おまえはまだ未熟だ。とはいえ、これだけは覚えておけ。たとえ契約によって人間の腹から生まれ出たとしても、神の子は神の子だ。このような下賤の輩にかしずくのはやめるんだな」

 しかし泰輝は返事をするどころか微動だにしない。

 答えを期待していなかったのか、九尾の狐は「猛禽類の足」のような四肢を使ってすぐに歩き出した。向かう先にいるのは、小野田と恵美、彩愛だ。

「貴様、それ以上は近づくな」

 小野田が拳銃を両手で構えた。センサーグラスには急所である脳が表示されているはずだ。そこを狙っているのは瑠奈にもわかった。

「撃ってみるがいい」

 白面が告げた。

「なめんなよ」

 口を引きつらせた小野田が、引き金を引いた。

 炭酸飲料のふたを開けたときのような音ではあるが、これまでより太い音質だった。

 瞬時に九尾の狐が頭を低くした。

 尾の一本がちぎれ飛ぶ――が、別の一本がそれを巻き取った。そして、ちぎれた部分の双方からこより状の白いものが伸び出し、それらが互いに絡み合った。

「なんだ?」

 愕然とした趣で、小野田は怪物の生態を瞠った。

「再生する」

 恵美がつぶやいた。

 ちぎれた尾が接合した。傷口は見えない。巻き取った尾はそれを離し、九本の尾は、すべてが本体の背後で扇状に悠然と立っている。

 小野田は再度、銃口を敵に向けた。

 それと同時に、長い舌が突き出された。

 小野田の拳銃は火を放つことなく九尾の狐の舌に巻き取られ、彼女の後方の杉林へと投げ飛ばされてしまった。

 ほぼ同時に、一本の尾が走った。

 恵美の拳銃がその狙いを彩愛から金色の巨軀に変える――が。

 尾の先端が恵美の拳銃を直撃し、拳銃を粉砕したそれがさらに直進した。

 恵美が彩愛を突き飛ばした。

 二人の女の間を金色の尾が突き進んだ。

 ほんの一瞬だった。

 草むらを転がった恵美が、小野田の横で片膝を立てた。

 伸びきった尾が、彩愛の右足首に巻きつき、本体のほうへと引き戻された。右足首を巻き取られた彩愛は、白面の前で逆さにつるされ、その正面を瑠奈たちにさらされる。

「梨夢、下ろしなさい!」

 逆さまの蒼白した顔で、彩愛は叫んだ。

「梨夢ではない!」

 雌の幼生はそう反駁した。

「数千年前のあの日、わたしはこの地上に生まれ出たが……」白面は言った。「その瞬間に気づいたのだ。愚かな下等生物である人間どもがこのわたしを利用しようとしている、とな。だから、儀式に携わったものども……そう、このわたしを産み落とした人間の女も、みんな殺した。そしてわたしは、人間社会に災いをもたらし続けてきた。それなのに、立花彩愛……おまえと山野辺士郎によって記憶を消され、人間の似姿を取らされ、人間としてのくだらない時間を押しつけられた。そのうえ、一兵士として利用されるところだった。わたしは神の子だ。立花彩愛よ、身のほどを思い知るがいい」

 別の尾が、彩愛の左足首に巻きついた。

 彩愛の左右の足が、V字型に広がる。

 逆さまの顔が目を見開いた。

 意図せず、瑠奈はその顔と目を合わせてしまう。

「やめてえええ!」

 あらん限りの声で瑠奈は叫んだ。


 蒼依が小野田からの伝言を運んできたその数分後に、越田と佐川、池谷の三人が分駐所に戻ってきた。さっそく木島による人選が始まったが、今回ばかりは松崎の強い申し出により、木島が管制室に残ることになった。現在、管制室にいるのはこの木島と、蒼依、真紀、三上、矢作の五人である。GPSの示す場所へと向かったのは、新一号車を運転する越田とそれに同乗する松崎、専用のワンボックス車を運転する池谷とそれに同乗する佐川だ。四人が出動してまだ間もない。真紀の隣でただ座っているだけの蒼依だが、状況に進展のないことだけは把握できた。

「そういえば、三人とも右手を負傷したはずです」

 木島と越田、三上らに目を配りながら、真紀が言った。

「痛みはだいぶ治まりました。三人とも骨折も裂傷もないですから、問題はありません」

 ドアの近くに立つ三上がそう応じた。とはいえ、三人とも右手に小さなやけどを負っている。敵が威嚇目的で手加減をしたに違いない、という木島の言葉は当たらずとも遠からずだろう――現場を目にしたわけではないが、蒼依にはそう思えた。

「けがで心配なのは小野田さんのほうですよ」三上は言った。「まさかあんなけがをしているのに先陣を切るなんて」

「そのとおりです。本当に無茶をする」

 深刻そうに言う真紀は、この場に小野田がいたら𠮟咤するに違いない。しかし同時に、瑠奈を救出に向かった彼に、そして恵美に、感謝しているのも事実だろう。

「ん?」

 椅子に座ってモニターを監視していた木島が、声を漏らした。

「どうしました?」

 真紀がモニターを覗いた。

「GPSの表示が消えました」モニターから目を逸らさずに木島は答えた。「小野田と尾崎のスマホ……二つのGPSが同時に消えたんです」

「そんな……それじゃ瑠奈たちの居場所がわからなくなっちゃう」

 感情を抑えられず、蒼依は口走った。

 木島が蒼依を見る。

「消えた地点は把握してある。専用車のカーナビにもその場所は表示したままだから、松崎たちはそこに到着できるはずだ。問題なのは、瑠奈ちゃんがそこにいるかどうか。それと、どうしてGPSが消えたのか」

「さっきは門のせいでみんなのスマホが使えなくなりました」真紀が意見した。「そういう可能性はある、と思いますが」

「門を使ってまたどこかに飛ぶのか、もしくは、そこに何かがやってきたのか」

 三上の隣に立つ矢作が、抑揚をつけずにつぶやいた。

「とにかく、四人がそこに到着しなければ、状況の把握はできません」

 木島は真紀に向かって言った。その言葉がすべてを物語っているのは確かだが、木島本人はもちろん、ここにいる全員が歯がゆく思っているのも事実だろう。

 自分が特機隊員だとしたら、はたして小野田と同じ行動が取れただろうか。恵美のように疑いもせずについていけただろうか。特機隊への入隊を希望している蒼依だが、その心は揺れ動いていた。秘密を共有できる仲間がほしい――それだけの理由で特機隊に入隊しても、このような過酷な任務が務まるわけがない。

 己の浅薄な腹づもりに吐き気を催しそうになった。しかし特機隊への入隊を諦めたのではない。むしろこれを、心構えを改める契機、とするつもりだ。

 ――強くなるんだ。そしてこれからは、あたしが瑠奈を守るんだ。

 自身はないが意地にはなれそうだった。

 がむしゃらになれば意外とできるものさ――蒼依が中学生のときに隼人から聞いた言葉だ。あの一言が、今になって胸をよぎった。


 甘いにおいに血のにおいが入り混じった。人の血のにおいだ。

 四肢で立つ金色の巨軀は、こちらに正面を向けたまま動かない。

 二つのものが金色の巨軀の手前に落ちていた。大量の血に濡れた地面に落ちているその二つのものが、瑠奈の目を引きつけて離さない。

 いつの間にか、恵美が瑠奈の横に立っていた。その横には小野田が立っている。

「瑠奈さん」恵美が瑠奈に声をかけた。「瑠奈さん、しっかりして」

 しかし、どのような立ち振る舞いをすれば「しっかりしたこと」になるのか、瑠奈にはわからなかった。

 瑠奈が目を離せないでいるのは、彩愛の左半身と右半身だった。とはいえ、均等に分かれているわけではない。股間から入った裂け目は上半身へと至る過程でわずかに右に逸れていた。よって彩愛の頭部は左半身に残った。運悪く、それらは仰向けの状態だった。しかも上半身がこちら側である。彩愛の半開きの目から涙があふれているのが、瑠奈の位置からでも見て取れた。

「どうして」口を開いた瑠奈は、ようやく顔を上げ、白面に視線を預けた。「どうしてこんなひどいことをするの? どうしてこんなことができるの?」

 六つの細い瞳が瑠奈を睨む。

「おまえたちが下等ならば、これも当然の成り行きだ」

 しわがれ声が瑠奈の耳朶を打った。

「意味がわからない!」

 嗚咽をこらえ、瑠奈は叫喚を上げた。

「おまえたち人間は自分の血を吸った蚊を叩き潰す。同じことだ」

「それとこれとは別――」

「別ではない」九尾の狐は瑠奈の言葉を遮った。「わたしからすれば、人間など、おまえたちから見た蚊と同然なのだ。おまえも蚊を殺したことがあるだろう。そのときのおまえは、蚊に対しての慈悲など持っていなかったはずだ」

 世の中の理だ、ということなのだろう。九尾の狐の言葉は正しいのかもしれない。しかし、瑠奈は割りきれなかった。少なくとも数日前までは、この金色の巨獣はただの少女だったのだ。

「本郷梨夢ではない、って言っているけれど、でも実際に、わたしと同じ学校にかよっていたんだよ。小能の林の中では、ハイブリッド幼生を前にしておびえて、わたしの手を握っていた。あなたには人間の気持ちがあるはずよ」

 訴えたものの、これで納得してもらえるとは思えなかった。たとえば、瑠奈が一時的に蚊になり、蚊としての経験を得て再び人間に戻ろうとも、やはり瑠奈にとって蚊は害虫である。叩き潰すなり殺虫剤で始末するなり、同じことを繰り返すに違いない。

「くどいぞ」案の定、白面はいら立ちをあらわにした。「いじめられていたときの屈辱なども、今となってはただの戯れでしかない。どうせ下等動物には理解できないのだろうがな。理解できぬのなら理解せずともいい。だが恐怖は覚えてもらおう。この二つに分かれた立花彩愛をしっかりと見て、恐れおののき、わたしに食われるがいい。神宮司瑠奈、そして小野田輝男、尾崎恵美」

 肉の避ける音、骨の砕ける音、飛び散る鮮血と内臓、彩愛の断末魔――これだけで十分すぎるほど瑠奈の気持ちは萎えていた。今の瑠奈ならば、幼生にとって美味なる贄となるに違いない。そのうえ、自分たちに助かる望みがないことも、瑠奈は理解していた。泰輝は動けず、小野田と恵美は武器を失っており、救援の到着にはまだまだ時間がかかるはずだ。このままでは九尾の狐の望みどおり、自分たちは食われてしまうだけである。

「ショゴスを斃したわたしは、間もなく地球を統治するだろう。そして人間どもは、家畜や奴隷としてわたしに拝跪するのだ」

 そう宣言した九尾の狐が、瑠奈たちに向かって歩き出した。

「梨夢お姉ちゃん」

 しわがれ声がした。

 見れば、金色の巨軀の横に、一メートルほどの長さの細長い何かが立っていた。泰輝の舌である。

 九尾の狐が足を止め、六つの瞳でそれを睨んだ。

「九尾の狐と呼べ」

 声に棘がなかった。泰輝に対しては寛容であるらしい。

「キュビー……お姉ちゃん?」

 ふざけてはいないはずだ。瑠奈には理解できたが、九尾の狐も大目に見たらしく「それでかまわない」と告げた。

「キュビーお姉ちゃんは、あいつに勝ったの?」

 考えるまでもなく「あいつ」とはショゴスのことだ。

「そうだ。わたしはこの地球で最強の存在となったのだ」

「でも、お父さんの力を借りたんだよね?」

 泰輝の言葉に白面が口を引きつらせた。

「父上の力を借りるのも技のうちだ」

 怒りをこらえるかのごとく、九尾の狐は声を抑えた。

 門を司るのも蕃神の一柱だ。泰輝の父でもある。二体のこの会話は、九尾の狐――本郷梨夢が無貌教信者の家で口にしたことの裏づけとなるのだろう。

「じゃあ、ぼくもお父さんの力を借りていいんだね? それでキュビーお姉ちゃんに勝てたら、ぼくが一等賞でもいいんだね?」

 泰輝のしわがれ声が弾んだ。

「何を言っている? 何をどうしようと、おまえはわたしに勝てない」

 口調にいら立ちが表れたが、鼻であしらうように、九尾の狐は瑠奈たちに顔を向けて歩き出した。

 轟音が響いた。

 泰輝が仰向けになっている位置で、巨大な土煙が立つ。

 そちらへと素早く身を翻した九尾の狐が、夜空を見上げた。

 瑠奈も小野田も恵美も、金色の巨軀に合わせて顔を上げた。

 星空を背にして、泰輝が宙に浮かんでいた。燐光を放つかのように、その体がうっすらと光っている。

「キュビーお姉ちゃん、ぼくと戦おうよ」

 そう告げた舌が、口の中に引き戻された。

 とたんに九尾の狐も全身の金毛をうっすらと光らせる。

 暗闇で発光すればおのずと目立ってしまう――というのは人間の感覚だ。戦うには不利にも思える状態だが、漆黒の闇でもなんの支障もなく目が利く幼生ならば、相手が発光しようとしまいと、特に意味はない。この二体は己の存在を誇示しているのだろう、と瑠奈は受け取った。

「赤子が生意気な口を叩くか!」

 抑えきれなかったらしい。白面に怒りの形相が表れた。そして彼女は日本語でなければ英語でもなく、瑠奈には聞き覚えのない言葉で何やらまくし立てると、ミサイルを連射するかのごとく、九本の尾を瞬時に伸ばして突進させた。鏃状のそれぞれが狙うのは、泰輝だ。

 数十メートルにも伸びたそれぞれの尾が、星空で乱舞した。

 体を上下左右に振りながら、泰輝はそれらを躱す。

「落ちろ! 落ちろ! 落ちろおおお!」

 白面が吠えた。

 九本の尾のそれぞれは、突進しては引き、引いては突進する、という動きを続けた。そんな攻撃を受けてか、泰輝は地上の敵に接近できないでいるらしい。だがそれは、九本の尾の伸長に限界があることを示す光景でもあった。

 上空へ飛びのいた泰輝が、白い尾を突き出した。その先端から電撃が放たれる。

 獣のうめきが上がった。闇を裂く一撃が、九尾の狐の左肩をかすめたのだ。とはいえ、大きなダメージを与えたようには見えない。

 九本の尾がだらしなくたわんだ。

 刹那、泰輝は急降下し、敵に接近した。

 とっさに九本の尾が弓なりに反って突進の構えを取るが、それらが功を奏するより早く、泰輝の右足の蹄が九尾の狐の鼻先に蹴りを入れた。

 一声吠えて、九尾の狐は頭をのけ反らせた。

 翼を羽ばたかせてわずかに上昇した泰輝が、二本の耳の先端から電撃を放った。

 金色の巨軀はその攻撃を左に飛び跳ねて躱す。

 すかさず、泰輝は勢いをつけて降下した。そして両腕と二本の触手で九尾の狐にしがみつくと、瑠奈たちから見て正面奥の杉林を目指して低空飛行で加速した。

 しかし大気を貫く中で、九尾の狐が笑う。

「あははは。うかつだな!」

 彼女の全身に電撃が走った。

 絶叫を上げた泰輝が、草むらへと弾き飛ばされた。そのすぐ横には、彩愛の二つに分かれた遺体がある。

 横向きで大地を十メートルほど滑走した金色の巨軀が、四肢でその動きを止め、こちらに正面を向けた。

 暗がりの中、雑草に埋もれて横たわる泰輝は、うっすらと光を放っているものの、動く気配はなかった。電撃を受けたがための熱のせいなのか、肉体が崩壊しようとしているせいなのか、彼の全身から湯気が立っている。

「泰輝!」

 叫んだ瑠奈は、またしても泰輝の元へと走り出そうとするが、なんとか思いとどまった。

「そうよ、早まらないで」恵美が言った。「泰輝くんの肉体は崩壊していないわ」

 落ち着いた調子でそう告げる恵美は、センサーグラスの機能でそれを把握したらしい。

「彼は反撃のチャンスを窺っているのかもしれない」

 恵美は声を抑えた。

「そのようだな」小野田も小声で言った。「ならば身を低くしたほうがいいだろう。とんでもない戦いになりそうだ」

「そうですね」

 答えた恵美が、腰を落とすように、という身振りで瑠奈を促した。そして三人が同時に片膝を立てた。

「いざとなったら、地面に伏せるわよ」

 恵美の言葉に瑠奈は「はい」と返した。

 そんな思惑を見透かしたように三人を一瞥した九尾の狐が、微動だにしない泰輝を睨んだ。

「おまえの仲間の三人は最後にまとめて片づけよう」

 金色の尾の一本が地面に突き刺さった。

 次の瞬間、瑠奈の全身が大きく震えた。手も足も震えており、思うように動かせない。

 地面に突き刺さっていた尾が引き抜かれると同時に、瑠奈の震えは収まった。脱力するあまり倒れそうになるが、下半身に力を入れ、どうにかこらえた。

「くそっ」と小野田が声を吐き出した。恵美はうつむいて頭を横に振っている。二人も瑠奈と同じ目に遭ったらしい。

「弱いけど、電撃ね」

 言いながら、恵美はセンサーグラスを外した。

「スマホだけじゃなく、これも使いものにならなくなっちまった」

 小野田もセンサーグラスを外した。

 センサーグラスをスーツの内側に入れる二人を見て、瑠奈は九尾の狐の周到さに気づいた。

「わたしたちが逃げ出さないようにしたのね?」

 瑠奈が問いただすと九尾の狐は白面を向けた。もとより逃げるつもりなどないが、現実的に考えれば、自分がここにいても戦いの邪魔になるだけなのかもしれない――瑠奈はそう感じた。

「そのサングラスがなければ林の中の暗闇を歩くのは難儀なはずだからな」そして彼女は泰輝を見る。「さあ、寝たふりはいい加減にやめろ。まだ終わっていないぞ。それとも、もう降参かい?」

 語っているうちにも、九尾の狐の左肩に生じた傷が癒えてしまった。

「寝たふり、ばれちった」

 横になったまま、泰輝はしわがれ声を出した。しわがれ声がさらにくぐもっているのは、声を放つ舌が口内に収まっているからだろう。

「……ちった? ふざけている場合か!」

 声を荒らげた九尾の狐は、八本の尾を泰輝へと伸ばした。八本のそれぞれが、泰輝の両耳、喉元、両腕、両足、尾へと巻きつく。

「一瞬で黒焦げにしてやる。おとなしく神々の元へと退散するがいい」

 決め台詞のような言葉は弟への手向けのつもりなのかもしれない。

 八本の尾がしなった。

 白い巨獣が宙に掲げられる。

「泰輝!」

 立ち上がろうとした瑠奈だったが、恵美の左手によって右肩を押さえられた。

「こらえて」

 訴えは理解できるが、この焦燥をこらえられるはずがない。

 泰輝の二枚の翼が素早く広がった。否、コウモリの翼で「親指」に相当する位置に備わる左右の二本の鋭い爪が、両耳に巻きついているそれぞれの金色の尾をつかんだのだ。

 轟く雷鳴とともに二体の巨獣の体にまばゆい電撃が走った。

 後方へと弾き飛ばされたのは金色の巨軀だった。

 八本の尾から解放された泰輝が、四肢を大地につけた。そして振り向き、同じく四肢で大地をつかむ九尾の狐に、赤い双眼を向ける。

「お姉ちゃんよりぼくのほうが早かったね」

 あざ笑うかのごとく泰輝が声を落とした。

「電撃を放ったのは泰輝くんのほうだったのか」

 小野田が驚愕の声を漏らした。その言葉どおりだが、瑠奈の見立てでは、電撃を放った部位は二枚の翼のそれぞれに備わる爪だったようだ。

「望みは、まだある」

 言った恵美が、瑠奈の右肩から手を離した。

「こわっぱがあああ!」

 怒号が放たれた。

 闇の中で金色の巨軀が低く身構えた。

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