第7話 ハウリング ④

 泰輝はソファで蒼依に寄り添って眠り込んでおり、一方の蒼依は、目を半開きにして睡魔と戦っていた。

 掛け時計が午前三時三十一分を指していた。第一別宅の応接室に移動してから、十分ほどが経過している。

「泰輝くんは本宅の自宅の部屋に戻したほうがよいのでは?」

 ドアの近くで小野田とともに立つ恵美が、ソファの二人を見ながら言った。

「そうだな」小野田は頷いた。「会長はおそらくこのあとも管制室に入り浸りだろうが、本宅では藤堂さんも家政婦たちも、みんな起きて待機している。声をかければ誰かが迎えに来てくれるだろう。木島隊長に相談したほうがいいかもな」

「はい。では、木島隊長に電話してみます」

 答えた恵美が、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。インカムを使うにはセンサーグラスを装着する必要があるため、この状況ならスマートフォンを使ったほうが手っ取り早い。

「あ、たいくん」

 蒼依の声がした。

 見れば、泰輝がソファから立ち上がってた。特に眠そうでもなく、見開いた目を南向きの窓に向けている。とはいえカーテンは閉ざされており、窓も外の闇も目にすることはできない。

「お母さんを見つけたよ」

 どこか遠くを見つめながら泰輝は告げた。

「瑠奈? 瑠奈を見つけたの?」

 ソファに腰を下ろしたまま、蒼依は泰輝に問うた。

「お母さんだよ。迎えに行かなきゃ」

 そして泰輝は、つかつかとドアのほうへと歩いた。

 つられたように蒼依も立ち上がる。

 ドアの手前で立ち止まった泰輝を、小野田は見下ろした。

「迎えに行くのかい?」

「うん」

 頷いた泰輝が、ドアノブに手をかけた。

「お母さんのいるところがどの辺なのか、わかるかな?」

 門を使って連れ去られたのだ。そこが日本とは限らない。問いかけた小野田は、その場所が遠方でないことを期待した。

「えーとね、あっち」

 泰輝は南西の方角を指差した。重要なのは方角ではなく距離だ。小野田は質問を変えてみる。

「遠いのかい?」

「うーん」指差した手を下ろし、泰輝はその方角を見つめる。「ぼくのケッカイーの外で、外のケッカイーの中」

「え?」

 意味が理解できず、小野田は恵美を見た。

 スマートフォンを持ったまま恵美が、首をひねる。

「わたしにも、わかりません」

「たぶん」蒼依が口を開いた。「神宮司邸の敷地に張られた結界の外で、神津山市の市境に張られた結界の内側、ということだと思います」

「ああ、そうか」得心がいき、小野田は泰輝に視線を戻す。「なら、おれたちと一緒に行こう」

 言って小野田は恵美を見た。彼女にも泰輝を説得してもらおうという魂胆だ。

 恵美も泰輝に目を向ける。

「そうね。また車で一緒に行きましょう。そうすれば、お母さんをその車に乗せて帰ってくることができる」

「だめだよ」泰輝は首を横に振った。「早くしないと、あいつがお母さんのところに来ちゃう」

「あいつって?」

 恵美は尋ねるが、泰輝は言葉にせず、ただ首を傾げるばかりだった。

 もっと重要なことを、小野田は尋ねる。

「車では間に合わないのかな?」

「うん。ぼくが飛んでいけばすぐだよ」

「門は使わなくても大丈夫かい?」

 小野田は重ねて問うた。

「ぼくはあれを上手に使えないんだもん。でもね、飛んでいけばすぐなんだよ」

 そう言って、泰輝はドアノブに再び手をかけた。

 その手を小野田は片手で押さえる。

「だったら、おれも一緒に行くよ」

「どういうことです?」

 問うたのは恵美だ。

 泰輝の手を離し、小野田は恵美を見た。

「言葉のとおりだよ」

「まさか……」

 言いさした恵美は、目を丸くした。

「そしてできれば、尾崎も一緒に行ってほしい」心苦しさを抑えて小野田は訴えた。「本当はおれだけが泰輝くんと一緒に行けばいいんだが、あいにくと今のおれは五体満足じゃない。瑠奈ちゃんの命がかかっているんなら、もう一人ばかりほしい。しかしほかの隊員じゃだめだ。おれの相棒は、尾崎なんだ。木島隊長と策を練っている時間はない。おれの勝手な判断だし、木島隊長の許可もない。無事に帰ってきたとしても、懲罰があるかもしれない。そんなリスクばかりで申し訳ないが、引き受けてくれるかな?」

 小野田の言葉を受けた恵美は、すぐに力強く頷いた。

「もちろんです」

「ありがとう」わずかでも気持ちが楽になった小野田は、蒼依に顔を向けた。「それから、蒼依ちゃん」

「はい」

 緊張した趣の蒼依が、小野田を見た。

「一つ頼みがあるんだ」

 瑠奈を救出に向かうには、これも重要な仕事だ。小野田はそれを蒼依に任せなければならなかった。


「なんだって?」

 分駐所の管制室で蒼依から小野田の伝言を受けた木島は、椅子に座ったまま、面食らった表情を呈した。同じく椅子に座っていた真紀と松崎も、呆然としている。

「スマホのGPSで追跡してほしいとのことです」

 三人を前にして立つ蒼依は、そう付け加えた。

「呆れたやつらだ。こんな勝手な行動を本部が許すはずがない」

 木島は嘆くが、小野田の行動を支持する気持ちがあるからこそ、蒼依は言う。

「木島さんが命令したことにすればいいじゃないですか」

 この一言は小野田の支持ではない。あくまでも蒼依の思いつきだ。

「え……」と木島は言葉を失うが、松崎は得心したように頷いた。

「そうですよ隊長。これは最善の策です。さあ、はやくGPSで追跡しましょう。一刻も無駄にはできない」

 松崎は木島の返答を待たずに机に向かい、機器類の操作を始めた。

「余計な問題を本部に報告するのも、処分を検討するのも、面倒だしな」

 納得したように頷いた木島も、机に正面を向けた。

 ため息をついた真紀が、うっすらと笑顔を浮かべ、蒼依を見る。

「蒼依ちゃん、いろいろとありがとう。あとはいいから、少し休みなさい」

「いえ」

 蒼依は首を横に振った。

 たったそれだけの所作だったが、真紀は蒼依の心境を把握したらしく、空いている隣の椅子を引き出した。

「なら、ここに座って、一緒に待ちましょう」

「はい」

 思いを受け入れてもらった蒼依は、椅子に座り、改めて気持ちを引き締めた。


 白い体毛に覆われたその巨軀は、意外にもひんやりとしていた。この熱帯夜には都合のよい清涼感だ。

 とはいえ、泰輝に抱えられた状態での高速飛行は、脳や内臓が吹き飛ばされそうな勢いがあった。しかも強烈な風圧のため、進行方向と上には顔を向けられない。泰輝の顔も、翼も、夜空も、目にするのは不可能だ。スーツのボタンが外れてしまえばワイシャツのポケットに入れてあるセンサーグラスやパラライザーが吹き飛ばされてしまうだろう。小野田を包み込む太い右腕と分厚い胸板が、かろうじてそれを防いでいた。

 顔面に風を受けないように目を向けると、泰輝の左腕に抱えられた恵美も、風から顔を背けていた。ショートヘアをなびかせる彼女は、苦悶の表情で両目を閉じている。その両目が、ふと開いた。

 ほんの束の間、二人は見つめ合った。

 言葉はない。あったとしても、風を切る轟音にかき消されてしまうだろう。

 意思の疎通が何もないまま、恵美は再び両目を閉じた。

 神宮司邸本宅の裏から飛び立って、まだ一分程度だ。しかし、恵美が運転する車でも五分以上はかかる距離を、この巨獣は移動したに違いない。眼下を見れば、ときおりなんらかの照明が点となって見える以外は、地形など確認すのも困難な闇だが、わずかな月明かりによってほんの数秒前に巨大な黒い水面が目に入った。位置的にも神貫ダムと思われる。今はそのさらに南の山稜を越え、山林の上空を飛んでいた。

 風圧が下がった。山林が後方へと流れていく速度が落ちている。

「もうすぐ到着するようですね」

 声がした。見れば、恵美が目を開けている。

「そのようだな」

 風を切る音が小さくなっているため、会話は可能だった。

 やがて泰輝が体を起こした。速度をさらに落としつつ、高度を下げる。

 ようやく星空を目にすることができた。その下には、どこまでも広がる杉林があった。

「地面に下りたら、すぐにセンサーグラスと拳銃を」

 恵美が言った。

「了解だ」

 答えた小野田は、真下を見下ろした。

 杉林の梢が近かった。


 両膝を抱えてうつむき、目を閉じていたが、眠っているわけではなかった。眠ろうと試みたがどうしても目が冴えてしまうのだ。

 物音がした。

 目を開いて顔を上げると、彩愛が立ち上がっており、夜空を見上げていた。

「お迎えが来たようね」

 見上げたまま、彩愛は言った。

「お迎え?」

 尋ねつつ、瑠奈も立ち上がった。

「あなたのお迎えよ」答えた彩愛が、瑠奈に顔を向けた。「でも、わたしにしてみれば窮地ね。まあ、梨夢が来るよりはマシかな」

「泰輝?」

 瑠奈が疑問を呈すると、彩愛は皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 雲は晴れていた。一面に星がまたたいているが、あの細い月は山林の陰に隠れようとしている。それだけだった。

 突然、枝が折れるような音が背後から聞こえた。

 巨大な影が頭上を後方から前方へとよぎる。

 いくつもの枝葉が周囲に散らばった。

 それはそっと、大地に両足を着けた。

 バニラの香りが漂う。

 背中の巨大な一対の翼を折りたたみ、正面をこちらに向けたのは、巨獣の姿の泰輝だった。しかも、左右の腕のそれぞれに一人ずつ、人を抱えているではないか。その二人が巨大な腕から解放され、泰輝の前に立つ。小野田と恵美だった。

 両手を地面につけた泰輝が、長い両耳を垂らした。彼の赤い目が彩愛を通り越して瑠奈を見ている。早く帰ろう――と訴えているのが、幼生の気配を察知することのできない瑠奈にさえ理解できた。

 そちらへと正面を向けた彩愛に、小野田と恵美は拳銃の銃口を向けた。そして二人の特機隊隊員は、それぞれセンサーグラスを装着する。

「立花彩愛」小野田が言った。「おとなしく投降したほうが身のためだぞ。おれたちは普通の警察官と違って、引き金を引く確率が高い」

「しかもその一発で、人間の頭なら簡単に吹き飛ばしてしまう」

 解説を加えた彩愛が、肩をすくめた。

「ものわかりがいいようだが、この新型は、人間なら頭を吹き飛ばすどころか、体全体を粉みじんにできる。両手を上げて、そのまま動くな」

 そう告げた小野田が彩愛に向かって歩き出すと、恵美も彼に続いた。

「瑠奈さん、大丈夫?」

 歩きながら、恵美は瑠奈に声をかけた。

「はい、大丈夫です」

 立ち尽くしたまま、瑠奈は答えた。

 彩愛は宣告されたとおりに両手を上げた。そして、微笑を浮かべた横顔を瑠奈に見せる。

「いい気味でしょう?」

 その卑屈な態度に瑠奈は怒りよりも悲しみを覚えてしまう。改心など期待できず、だからこそ瑠奈は、言葉を返さなかった。

 小野田と恵美が彩愛に拳銃を突きつけた。

「しばらくすれば特機隊の仲間が駆けつけるわ」恵美が言った。「そうしたら、あなたを連行する」

 そのときだった。

 泰輝が地面から両手を離し、体を起こした。彼の長い両耳が夜空に向かって立ち上がる。

 遠くで音がした。

 小野田も恵美も彩愛も、周囲に目を走らせる。

 息を吞み、瑠奈は耳をそばだてた。

 枝を折る音、下生えを踏みつける音、木々をなぎ倒す音――それらが徐々に大きくなってきた。

「あいつが来るよ」

 しわがれた声がした。

 四人の視線が泰輝に集中した。

「泰輝? あなたがしゃべったの?」

 問いつつ、瑠奈は泰輝を見つめた。

 泰輝は口を半開きにし、舌を三十センチほど出していた。その舌の先に横に長い楕円形の開口部があった。それが上下に開閉する。

「そうだよ。お姉ちゃんに教わったんだ」泰輝の舌が言った。「ぼくは今からあいつと戦うよ」

 巨獣の姿の梨夢が舌の先の口で話すことを瑠奈は小野田から聞いていたが、そんな技能を泰輝が短時間で会得していたとは驚愕以外の何ものでもなかった。それよりも、「あいつ」とやらの存在に注意を向けなければならないだろう。

「あいつ、ってなんなの? 梨夢お姉ちゃんのこと?」

 瑠奈は泰輝に問うた。

「梨夢じゃないわ」答えたのは彩愛だった。「神の子の気配がしない。純血種でも混血種でもない」

 二丁の銃を突きつけられて両手を上げたまま、彩愛は憂いを呈した。

 舌を口の中へと戻した泰輝が、自分の背後の闇に顔を向けた。

 音がさらに大きくなった。

 小野田が目配せをすると、頷いた恵美が彩愛の背後に回り、銃口を対者の右のこめかみに押しつけた。そして小野田は、拳銃を泰輝が睨む闇へと向ける。

「確かに、センサーに幼生の反応はないな」

 銃口を闇へと定めたまま、小野田は言った。

「いったい、何が来るのよ」

 彩愛は闇を見つめたまま声を漏らした。

 闇の先――杉林の外れで、何本かの杉が左右と手前に倒れた。

 現れた巨大な固まりが、杉林の手前で動きを止めた。

「こいつは……」

 小野田が声を吞んだ。

「二口女」瑠奈は見たままを言葉にした。「でも、どうしてあれが幼生じゃないの?」

 問いかけは闇に消えた。答える者は、誰もいない。

 無数の触手に覆われた巨大な固まりが、前進を再開した。威嚇するかのごとく、ゆっくりと近づいてくる。

 バニラの香りに悪臭が混交した。まるで生ゴミのにおいである。

「このにおいは、彼女ではないわ」

 彩愛が言った。すなわち、二口女ではない、ということらしい。

 脆弱な月明かりに照らされたそれは、見覚えのある二口女だ。しかし、外見の変化は瑠奈にもすぐにわかった。

 触手の群れから垣間見える二口女の顔は、左半面がなかった。まるで仮面の半分を割ったかのようにへこんで見える。失われた左半面はただの影のようだったが、近づいてくるにしたがって、その落窪の表面が黒っぽい虹色であることが見て取れた。

「テケリ・リ! テケリ・リ!」

 二口女のような何かが、声を上げた。

「小野田さん、銃はだめです!」

 とっさに恵美が警告した。

「ショゴスかよ」

 忌まわしき名前を吐き出した小野田は、両手で構えた拳銃をその怪物――ショゴスに向けたまま、身動きをしなかった。強化された拳銃で撃てば、ショゴスの体は無数の肉塊となって飛び散り、その一つ一つが独立したショゴスとなってしまう。それを承知しているからこそ、瑠奈は小野田の心境が理解できた。

「消化する前に寄生されたんだわ」

 彩愛のこめかみに銃口を押しつけたまま、恵美は言った。

 巨大な咆哮が上がった。泰輝だ。彼は低く身構え、戦闘態勢に入ったことを窺わせた。

 しかし、二口女は山野辺士郎事件において泰輝を押さえ込んでしまったほどの強大な純血の幼生であり、その二口女にも勝るこの怪物に泰輝がかなうなど、瑠奈にはとうてい思えなかった。

「泰輝――」

 彼を止めようとした瑠奈だが、声を吞んでしまった。泰輝にすがる以外の手段がないことは、自明の事実なのだ。

 翼を閉じたまま、泰輝が跳躍した。

 二口女の右半面が弾け飛び、触手の群れの中に生じた間隙から黒っぽい虹色の肉が先端をとがらせ、高速で伸びた。

 突き出された肉の槍を避けた泰輝が、触手の固まりに組みつき、再度、咆哮を上げた。

 灰色の無数の触手が泰輝の体に絡みついた。泰輝の白い巨軀がじわじわと締め上げられていく。そして黒っぽい虹色の肉の槍がさらに伸び、細い触手となって、ほかの触手と同様に泰輝の体を締め上げた。

「ふん」彩愛が嘲笑を浮かべた。「ショゴスを食らうように指図したのは確かだけど、あだとなってしまったわ。でも泰輝くんにはかなわない相手よ。ショゴスを斃すには、彼の電撃では弱すぎる」

「どういう意味だ?」

 横目で彩愛を睨み、小野田は問うた。

「かの魔道書に記されてあるのよ」彩愛は言った。「上古の種族がショゴスを罰するために電撃を使った。そしてその体を細切れにして細片をそれぞれ遠くに分散させ、体の再構築を不可能なものとした、とね」

 蕃神――もしくは旧支配者と呼ばれる神々でさえ手こずる合成生物ショゴス。しかし聞き及んでいた以上の脅威の存在であることを、瑠奈は改めて知るのだった。

 泰輝の体が触手の群れによって高く持ち上げられた。泰輝はうめきながらもがくものの、強力な触手から逃れることができない。

「テケリ・リ!」

 それは気合いにも聞こえた。

 灰色の触手のすべてが黒っぽい虹色へと変化した。

「ショゴスが完全に再生した」

 小野田がそうつぶやいた直後、泰輝は背中からショゴスの手前の地面に叩きつけられた。

 轟音と地響きが周囲に広がった。

 雑草や土砂が飛び散る。

 手をかざし、顔を背けて顔への直撃を避けた瑠奈は、すぐに正面に向き直った。

 自分たちとショゴスの間に、巨大な穴が穿たれていた。泰輝の頭部と尾、四肢が覗いている。微動だにしない彼は、穴の中で仰向けになっているらしい。仰向けの頭部がこちらに向かって逆さまに寝そべっていた。

 触手のすべてが泰輝から離れた。そしてそれらのすべてが、黒っぽい虹色の本体に吸収される。巨大なダンゴムシにも見えるそれは、紛う方なき一体のショゴスだった。

「テケリ・リ!」

 声を上げたショゴスが、背中に盛り上がりを生じさせた。その盛り上がりが垂直に伸び上がり、円柱状に変ずる。

 瑠奈の予想どおりの攻撃が始まった。円柱状の肉塊が振り下ろされ、穴の中で仰向けになっている泰輝を叩いた。白い尾や白い四肢がびくんと跳ね上がる。円柱状の肉塊は振り上げられ、またすぐに振り下ろされた。叩かれた泰輝はまたしても尾と四肢を跳ね上げてしまう。

 不意に、円柱状の肉塊が本体の背中に収納された。続けて、本体の前面から無数の腕のようなものが伸び出る。それぞれの先端はまるで握りこぶしのようだが、指らしきものは見当たらない。

 これも瑠奈の予想どおりの攻撃だった。それぞれの腕が握りこぶし状の先端で泰輝を連続で猛打したのだ。殴られた頭部や四肢が、その勢いによって右へ左へと弾かれている。

「やめて!」

 見るに堪えず、瑠奈は泰輝に向かって駆け出した。しかしすぐに右腕を引かれ、足止めを食らう。

「死にたいのか!」

 小野田だった。右手に拳銃を提げる彼は、左手で瑠奈の右腕をつかんでいた。

「だって、このままじゃ泰輝が」瑠奈は小野田の手を振り払おうともがいた。「脳を破壊されたら究極の混沌へと帰されてしまうんですよ」

「君に何ができる」

 手を離すどころか、小野田はその手にさらに力を込めた。

「だって、泰輝が……」

 なすすべはない、と悟り、瑠奈は泣きながらその場に崩れてしまった。それでも小野田は手を離さない。

 泰輝への猛打は続いていた。無数の握りこぶしが泰輝の全身を襲い続ける。

「小野田さん」恵美が言った。「そろそろ連絡が入ると思います。ここはいったん、引き下がりましょう」

 そんな冷たい言葉が信じられず、瑠奈は恵美を睨んだ。

「どうして?」

「次に狙われるのはわたしたちよ。今なら逃げきれるわ」

「そうだな」恵美の答えに小野田が賛同した。「泰輝くんは究極の混沌へと帰ったとしても、死ぬことはない。だが人間は、そうはいかないんだ」

 二人の言うことに間違いはない。むしろ、泰輝のために彼らの命を散らせるわけにはいかないはずだ。ならば、と瑠奈は自分の考えを口にする。

「わたしだけ、残してください」

「ふざけんな!」

 とたんに瑠奈は小野田の左手によって強引に立たされた。今まで瑠奈には見せたことのない怒りの表情が、センサーグラスをかけていてもわかるくらいだった。

「おれたちが君を置いて行くはずが……」

 着信音が鳴り、言いさした小野田は瑠奈から手を離すと、離した手でズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。そして彼は、急いでそれを左耳に当てる。

「はい、木島隊長……もしもし……」

 通話に支障があったのか、彼は耳から離したスマートフォンを睨んだ。困惑の様子で操作を試みている。

「小野田さん?」

 訝しげに恵美が声をかけた。

「電源が落ちている。起動できない」

 小野田が答えると、彩愛に拳銃を突きつけたままの恵美が、左手でズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、それを確認した。

「わたしのも、だめです」そして恵美はスマートフォンをズボンのポケットに戻し、彩愛に問う。「何をしたの?」

「わたしは何もしていない。原因は、あれよ」

 答えた彩愛が、天空を仰いだ。

 小野田と恵美も見上げる。

 冷気があった。

 殴打され続ける泰輝から目を逸らして、瑠奈も見上げた。

 頭上の星空が円形に欠けていた――否、虹色のマーブル模様に覆われたそれは、夜空に浮かぶ球体である。

「門!」と恵美が声を上げたとおり、それはまさしく門だった。

 瑠奈は目を瞠った。何かが門の底から飛び出し、降下してくる。

 甘い香りが漂った。

「このにおいは……」

 見上げながら、小野田がつぶやいた。

 泰輝を殴打する音がやんでいた。見れば、無数の腕の攻撃が止まっている。黒っぽい虹色のそれも、降下してくる存在に注意を向けているらしい。

 瑠奈は再び見上げた。

 けたたましい咆哮が、頭上で放たれた。泰輝の雄叫びをも凌駕する大音量だ。

 新たなる脅威の証しでもあるその咆哮が、広大な闇を震わせた。

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