第6話 敵陣へと ④

 瑠奈が見た限り、少なくとも一階部分は手入れが行き届いていた。リビングのソファにいるように彩愛から支持があったが、その室内はもちろん、尿意を我慢できずに借りた様式のトイレも清潔感があった。もっとも、彩愛がトイレの外で見張りに就いたことには、閉口せざるをえなかった。

 リビングの隣に和室があり、意識を失ったままの矢作はその部屋で畳の上に仰向けにされた。和室の照明は落とされているが、ふすまが全開にされ、リビングの照明が矢作の姿を照らしている。

 リビングを挟んで和室の反対側にダイニングキッチンがあった。彩愛はそこでコーヒーを入れていた。

 リビングに正面を向けてソファに着く瑠奈に対し、そんな彼女と向かい合うように泰輝と梨夢が反対側のソファに着いていた。梨夢は瑠奈の監視を任されているが、この向きであれば矢作のことも監視できるわけである。もっとも梨夢は、矢作の顔を見ていたいに違いない。冷房がほどよく効いた室内で、瑠奈はじっと固まっていた。

 自分の横に置いたリュックには泰輝の着替えが入っているが、はたして必要になるのか否か、現状では予想がつかない。それ以前に、彩愛の手の内から逃れるすべが見つからないのだ。このままでは泰輝や矢作ともども無貌教に利用されてしまうかもしれない、という懸念があった。

「おばさん、まだなの?」

 梨夢が彩愛をせかした。とはいえ、せかした彼女はコーヒーを飲まないという。コーヒーが飲めないというわけではなさそうで、どうやら、早く矢作と交わりたいらしい。

「焦らないの。お楽しみは取っておくものよ」

 キッチンで彩愛がそう返した。

 もちろん、梨夢と矢作が交わるなど、許すつもりはない。矢作が梨夢に強姦される、というのが正しいのだろうが、いずれにしても、いかにしてその行為を阻止するか、それが問題だった。

「しかし驚いたわね」トレイに二つのコーヒーカップを載せて、彩愛がリビングに入ってきた。「特機隊に見鬼がいただなんて」

 見鬼ならばここには矢作以外にもいるはずだ。瑠奈と、もう一人――。

「立花さんも見鬼なんですか?」

 瑠奈は問うた。

「そうよ」と答えた彩愛は、テーブルにトレイを置くと、瑠奈の前にコーヒーカップの一つを置き、梨夢の隣に腰を下ろした。そして残りのコーヒーカップを自分の前に置く。

 彩愛が見鬼ならば泰輝が発情しないとも限らないが、今のところ、泰輝にそんな感情は見受けられない。むしろ泰輝は、同族の梨夢に親近感を抱いているようだ。とはいえそれは、仲のよい姉と弟といった具合である。一方、彩愛と梨夢は、叔母と姪というより母と娘の間柄に窺えた。ならば疑問の一つも生じる。

「もしかして、立花さんが本郷さんを代理出産したとか?」

 瑠奈が続けて問うと、彩愛は澄まし顔で首を横に振った。

「残念ながら違うわ」

「でも魔道士なんですよね。だから門を使える」

「そうなんだけど、魔道士と呼ばれるよりは、魔女、がいいかな」

 そして彩愛は瑠奈にコーヒーを勧めたうえで、自分のコーヒーカップを手にした。もっとも、瑠奈はそのカップに口をつけるつもりはなかった。毒が入っている、などと思っているわけではない。こんな状況でのんびりと施しを受けることが、できないのである。

「そうそう、砂糖を用意していなかったわね」

 言って席を立とうとした彩愛に瑠奈は「おかまいなく」と告げた。

「ブラックがお好み? わたしと同じね」

 おそらくは瑠奈の気持ちを見通しているのだろう。何食わぬ顔を見せた彩愛は、コーヒーをもう一口飲んだ。

 着信音が鳴った。リビングの端にある電話台の上の固定電話だ。

「着いたようね」

 言いつつカップを置いた彩愛が、ソファから立ち上がって電話台へと向かった。そして受話器を耳に当て、「わたしよ」と告げる。

 仲間からの電話なのだろう。瑠奈は彩愛の様子を注視した。

「ええ……」と耳を傾けていた彩愛だったが、その形相がやがて険しくなった。「ここの場所がわからない……って、ちゃんと聞いていなかったの? ……そうよ。そこまでは来ているのね? じゃあ、わたしが今からそこまで行くから、少し待っていなさい」

 通話を終えた彩愛は、受話器を戻すと、ソファの横に立った。

「梨夢、ちょっとそこまで行ってくるから、留守番をお願いね」

「無貌教の仲間が荷物を運んできたの?」

 彩愛を見上げて梨夢は尋ねた。

 彩愛からの答えが出される前に瑠奈が口を開く。

「荷物?」

「そうよ」彩愛は瑠奈を見ていた。「しばらくはここに滞在することになるわ。となると、神宮司さんとそこの特機隊隊員とわたしのぶんの食料とか、そのほか生活必需品がなくては困るでしょう。梨夢や泰輝くんはトイレやお風呂も必要ないけど」

「わたしはお風呂に入るよ」

 訴えた梨夢が彩愛を横目で睨んだ。

「ぼくも入りたいな」

 泰輝が追従した。

「だったらなおさら強力してちょうだい」彩愛は肩をすくめた。「とにかくそれを仲間たちに運んでもらわないとならないのよね。わたしが自分の車を使えば、特機隊にこの場所を知らせるようなものだし……本当に面倒だわ。だいたい、あの通りまで歩いたら片道で五分以上もかかるのよ」

「門を使えばいいのに」

 こともなげにそう告げた梨夢を、彩愛の険しい目が睨む。

「門を呼び出すのもそれを使うのも、相当に疲れるのよ。片道で五分くらいなら、歩いたほうがいいわ」

 さんざん言い募ったあげく、彩愛はリビングを出ていった。


 玄関のドアが閉じる音がした。

「おばさん、テンパっていたね」

 梨夢はそう言って笑った。口が耳の近くまで避けており、すべての歯が鋸歯に変わっている。

「ここって、神津山なの?」

 目の前の異様にかまわず、瑠奈は尋ねた。

「そうよ」と答えた梨夢が、口のサイズを元に戻した。鋸歯のもすべても常人の歯に戻っている。「地名はわからないけど、神津山市のどこか」

「そうなの」瑠奈はとりあえず頷き、そして続けて問う。「立花さんは、いったい何をしようとしているの? 召喚球は割ってしまうし、何がしたいんだか、わからない」

「さあ」

 梨夢は首を傾げた。

「本郷さんは立花さんから何も聞いていないの?」

「よくはわからないけど、山野辺士郎という人の方針に則って計画は進んでいるんだって。おばさんはそう言っていた」

「山野辺士郎……」

 瑠奈はうつむいた。あの魔道士が絡んでいたとしても、同じ無貌教なのだからなんら不思議なことではない。彼にとっても今の召喚球は邪魔な存在でしかないということなのだろう。

「神宮司さんは山野辺士郎という人を知っているの?」

 問われて瑠奈は顔を上げた。梨夢は山野辺士郎との面識がないようだ。

「知っているよ」

 答えたが、詳しく語るつもりはなかった。それなのに、高三土山での惨劇が脳裏に蘇ってしまう。

「山野辺さんって、確か見鬼なんだよね。かっこいいの?」

 気のせいか、梨夢の首がわずかに伸びているように見えた。そのうえ、ごくりと生唾を飲み込むではないか。

「かっこいいよ。でもね、雌の幼生……」瑠奈は慌てて言い改める。「神様の娘たちや女性の神様には人気がないんだって」

「どうして?」

 目を剝いて問われ、瑠奈はのけ反った。

「同性愛者だから。本人がそう言っていたらしいの」

 これは蒼依から伝えられた話だ。

「ああ、そういうことね」

 簡単に納得してもらえたが、拍子抜けさせるこの様子は、いつもの泰輝にも通じるものがある。同じ純血の幼生ということもあるだろうが、少なくともこれまでの梨夢には見られなかった態度だ。泰輝と梨夢、二人のソファに座っている様子にしても、人間らしさが不足している。二人は並んで同じ方向――和室で仰向けになっている矢作ではなく、どこか遠くを見つめているように窺えた。それがやがて、吐き気を催すほどの空気を帯びてきたように感じられた。

 沈黙に耐えきれず、瑠奈は疑問に感じていたことを問うことにした。

「本郷さんはいつ、自分が神の子だって気づいたの?」

「そうねえ」回顧するかのごとく、梨夢は天井を見上げた。「終業式の日の帰り道に神宮司さんと空閑さんに声をかけたあのときから、何か妙な感覚が身についたの。そうそう、泰輝くんの気配を、まずは感じたのよね」

 あのときの様子は瑠奈も忘れていない。狼狽する様が尋常ではない梨夢に対し、瑠奈も蒼依も見鬼の疑いを抱いたが、まさか純血の幼生だとは思いもよらなかったわけである。

「そのあともいろいろとあった」梨夢は天井を見上げたまま続けた。「視力が急に回復したりね。裸眼でもすごくよく見えるんだよ。それから、神宮司さんや空閑さんは敵だ、と訴える声が聞こえたりもしたけど、それは自分の声だったわ。本能で神宮司さんたちをそう感じたのね」

 しかし、瑠奈は梨夢を敵とは見なしていない。ためにその言葉にむなしさを覚えた。

「今でもわたしを敵として見ているの?」

 瑠奈が尋ねると、梨夢は視線を下ろし、瑠奈を見つめた。

「神宮司さん次第だよ。あなたがわたしによくしてくれたことは、わかったもの。でもね、わたしを神の子と知って、戸惑っているんでしょう?」

「そうだね」隠し立ては通用しないと判断し、そう答えた。そして付け加える。「でもね、泰輝だって神の子なんだよ。だから本郷さんとも仲よくできる、そう思っている」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。だけど、わたしが無貌教に加担しないというのが前提、なんじゃない?」

「それは関係ない」と否定したうえで、瑠奈は言う。「でもね、無貌教にいれば特機隊に攻撃されるわ。だから、わたしと一緒に行こう、って言ったの」

 瑠奈の言葉を受けた梨夢は、考え込むような表情を見せると、隣の泰輝を一顧し、再び口を開いた。

「泰輝くんが無貌教の仲間になったら、特機隊はやっぱり泰輝くんのことも敵と見なすのかな?」

 不意打ちだった。そこまで考えていなかったが、現状を見る限り、その可能性はあるだろう。

「そうなっちゃうかもしれない」

 認めたくはないが、瑠奈は正直に答えた。

 泰輝の目の焦点が瑠奈に合った。

「ぼくは小野田さんや尾崎さんと戦うの?」

「戦いたいの?」

 思わず問い返してしまった。問い返してから、自分の声に険があることを悟った。

「わかんない」

 別段悲しそうな顔をするでもなく、泰輝は首を傾げると、再び目の焦点を外した。

 梨夢は言う。

「泰輝くんって強くて頼りになるのよね。小能の雑木林で泰輝くんは大きな混血種と戦ったけど、混血種は飛んで逃げちゃったじゃない?」

「逃げたね」

 瑠奈は追従した。

「あのあとね、混血種は海……太平洋の沖のほうまで逃げたらしいんだよ。それを泰輝くんは空中でやっつけたんだって。得意の電撃でね」

「そう、デンゲーキ」

 遠くを見つめたまま、泰輝は言った。

 瑠奈は梨夢に尋ねる。

「それ、泰輝から聞いたの?」

「そうだよ。泰輝くんは嘘なんてつかないから、本当のことだよ」

「確かに、仲間と認めた人に嘘はつかないね」

 もとより、疑うつもりなどなかった。梨夢の言葉のすべてを、瑠奈は受け入れていた。

「そして」梨夢は続けた。「坂萩の海岸まで戻った泰輝くんは疲れて休んでいたところを、おばさんに保護された。裸の少年の姿で、砂浜に寝そべっていたんだって。ほかの誰かに見つかる前でよかったね」

「立花さんは泰輝の行動を把握していたの?」

 そうとしか考えられない。むしろ、ありうることだ。

「そうらしいよ」

 梨夢は認めた。ならば、瑠奈の脳裏に残留する疑問は解消するかもしれない。

「本郷さんは小能の雑木林に幼生……混血種がいることを感じ取ったんでしょう? それで小能に向かったんだよね?」

「うん」

「なら、本郷さんのうちの近くに別の混血種が潜んでいたことは知っている? 何か感じていた?」

「あのときはまだわたしの感覚が弱かったから、それには気づかなかった。でも、あとになっておばさんから聞いたの。わたしが神の子として目覚める気配があったから、一体の混血種を自宅の近くに配置した、って」

「立花さんが?」

 疑問ではなく、確認だった。

「そうだよ」と頷く梨夢に合わせて、瑠奈も頷いた。

「じゃあ、その混血種を使って本郷さんを刺激し、覚醒させようとしたのかな?」

「そうみたい。混血種の気配に刺激されるかもしれない、ってね。それは失敗に終わったみたいだけど、小能の雑木林の混血種のおかげで、わたしは目覚めかかった」

「小能に混血種がいたのも、立花さんのお膳立て?」

「もちろんそうだよ」

 だから彩愛はそのハイブリッド幼生を追った泰輝の行動を把握できたのだ。瑠奈は得心した。

「おばさんにとって想定外だったのは、わたしが特機隊に保護されてしまったことね。結果的にあなたのお屋敷の門……というか泰輝くんの結界を通過できなくて、わたしは無意識のうちに本能で遠くに飛んじゃった」

「車の窓ガラスが吹き飛んだのは、そのためね?」

「そうだよ。後ろの窓を突き抜けたんだけど、勢いをつけたから、全部の窓ガラスが割れちゃった。……そして、人里離れた野原でおばさんに助け出された。わたしはあそこで覚醒しちゃったみたいだね」

「自分が神の子だって、気づいたのね」

「というよりは、思い出したのよ」

「思い出した? どういうことなの?」

 瑠奈は問いただした。

「わたしが生まれたのは、何千年も前なの」

 梨夢は語った。二口女と呼ばれる純血の幼生は梨夢の妹だという。梨夢と二口女は縄文時代に代理出産で人間の女から生まれたが、江戸時代の後期に、ほかの混血種とともに妖怪を模倣した姿へと成長した。しかし人々は、妖怪を怖がらなくなってしまったのだ。

「泰輝くんは人間を食べないようだけど、ほとんどの神の子は、純血種も混血種も人間を食べる。しかも、ごちそうになる人間が恐怖や絶望など負の感情を抱いてくれないと、味がしないのよ。だから人間にもっと恐れてもらえるように、神の子たちは姿を変えていったの」

 瑠奈にとっては既知の情報であるが、梨夢が例の古代中国の一族によって産み出された幼生である、ということが証言されたわけだ。

「わたし」梨夢は続けた。「本当はさっきね、特機隊の四人を食べるはずだったの。そのために昼間は大川というところで巨大な混血種をやっつけて、特機隊隊員の二人に見せつけてやったんだよ。そう、怖がらせるためにね。そのほうがあとでおいしく食べられるんだもの。惜しいことをしちゃったかもね」

 つまり大川地区で小野田と恵美が遭遇した純血の幼生とは、梨夢だったのだ。真紀が言うように無貌教としては特機隊に揺さぶりをかけていたのかもしれないが、梨夢に関しては「人間をおいしく食べる」という実情もあり、瑠奈の懸念したとおり、楽しんでいる節がある。今回ばかりは食欲よりも性欲を優先したのだろうが、もちろん過去には人を食った経験があるはずだ。そんな存在と対峙していることに、瑠奈は改めて脅威を感じるとともに、さらなる疑問を抱く。

「本郷さんは縄文時代に生まれたことになるけれど、本郷梨夢という名前を得て、この時代を一人の人間として生きてきたよね。どうして人間の社会に入ってきたの? どうやって?」

「本当のことを言うと、本郷梨夢になったときのことを覚えていないの」

 梨夢は力の抜けたような面持ちでそう告げた。

「覚えていない?」

「うん」梨夢は続ける。「今から十七年前に何かがあって、わたしは本郷敬吾と美由紀夫妻の子供として生まれた……もしくは、生まれたことにされた」

「気づいたら普通に人間として生きていた……神の子であることを忘れていた、ということなの?」

「そう。たとえば、神宮司さんは人間として暮らしてきたけど、ある日突然、自分は神の子だった、と思い出したら? そんな感じね」

 梨夢の比喩は薄ら寒さを誘った。自分が幼生であることを思いだした梨夢はさまざまなしがらみから解放されたようであるが、瑠奈にはそんな心境に浸れる自信はなかった。

「でも」瑠奈は言った。「本郷さんが十七年前に起こった何かを覚えていないということは、何者かの策略にはまった、とい可能性も考えられるよ」

「何者か……誰だろう?」

 特に動揺するでもなく、梨夢は首をひねった。

「無貌教とか……もしかしたら立花さんかもしれない」

 話の流れでなんとなく言葉にしたにすぎないが、あながち的外れでないような気がした。

「そういうこと、言わないほうがいいよ」

 梨夢は忠告した。またしても目の焦点が合っていない。

「でもね」と言いかけて、瑠奈は口をつぐんだ。おそらく、梨夢は彩愛との関係を断ち切れないのだろう。もしかすると梨夢が一方的に彩愛に信頼を寄せているだけなのかもしれない。それでも梨夢の感情を逆なでするのは得策でない。

 瑠奈は話題を変えることにした。

「本郷さんはコーヒーを飲まないの?」

 自分のぶんのコーヒーを譲ってあげたいくらいだが、見下ろせば湯気はまったく立っておらず、冷めてしまったらしい。

「今までのわたしは、コーヒーは飲んでいたし、紅茶も好きだったよ」

 過去形だった。梨夢が幼生であることを思い出し、瑠奈は肩をすぼめた。

「そういえば、神の子として目覚めて以来、まだ何も食べていなかったな」

 言いながら、梨夢は目の焦点を瑠奈に合わせた。

 瑠奈は息を吞んだ。

「大丈夫だよ」梨夢は笑みを浮かべた。「神宮司さんを食べたりはしないから。だって、わたしの友達になってくれそうなんだもの」

 瑠奈は否定しなかった。そうなりたいとさえ思っている。しかし背筋のこの冷たさはいかんともしがたい。

「それに神宮司さんはおばさんにとっていろいろと使い道が豊富みたいだしね。巫女にもなるし、人質にもなる」

 否定しがたい事実だ。自分からついてきたようなものだが、今となっては人質も同然だろう。最悪の場合、梨夢の言うとおり、巫女として利用されるかもしれない。しかし瑠奈には、もっと大きな懸念があった。

「立花さんは泰輝のことをどうしようとしているの?」

 瑠奈がそれを口にすると、梨夢は泰輝を横目で見た。

「どうもしないよ。泰輝くんがわたしたちと一緒にいるだけで、おばさんは安心できるみたい。なんせ、一番手強い敵が、敵陣からいなくなるわけだし」

 自分の名前を出されたことで、泰輝の目の焦点が合った。もっとも、彼は梨夢を見ている。

「泰輝が特機隊と戦うのだけは、やめさせてほしい」

 切実な願いだった。それを彩愛に聞き入れてもらうためにも、梨夢を敵には回せない。

「泰輝くんがそれを望まない限り、そんなことにはならないよ。おばさんも泰輝くんには無理強いできないはず」

 そうは言ってもらえたが、泰輝は特機隊との戦闘を肯定も否定もしなかった。その判断を泰輝に依存するのは危険である。

「あとは、泰輝くんのお母さんである神宮司さんがそうさせなければいいんじゃない?」

 簡単に言ってくれる――と返したかった。普段でさえ泰輝はたてつくのである。だが、梨夢のその言葉に一理あると感じ、瑠奈は反駁をこらえた。

「そういえば」梨夢は続けた。「泰輝くんも二口女もわたしも、両親は一緒なの」

 蕃神は数多く存在するが、確かに、幼生を手に入れるために術者が召喚するのは、何柱かの決まった存在ばかりだ。特に純血の幼生を得るともなれば、男神にしろ女神にしろ、強大な蕃神でなければならないだろう。自ずと蕃神の名も決まってしまうわけである。

「梨夢お姉ちゃんはぼくのお姉ちゃんなんだよ」

 言った泰輝は、久しぶりに瑠奈に目の焦点を合わせていた。

「あははは」梨夢は笑った。その口が大きく裂けている。「わたしが泰輝くんのお姉ちゃんなら、神宮司さんはわたしのお母さんね。義理の母親かな?」

 聞き流すしかなかった。適当な言葉で話を合わせる余裕など、あるはずがない。

 不意に、梨夢は真顔に戻り、ソファから立ち上がった。そんな梨夢を、泰輝は黙して見上げる。

「ねえ、神宮司さん」言いながら、梨夢は和室のほうへと歩いた。「わたし、もう我慢できないの」

 梨夢の姿が背後に回ったため、瑠奈はソファに座ったまま振り向いた。

 和室の暗がりに梨夢は立っていた。彼女の足元には矢作が仰向けになっている。

「ちょっとまって」

 瑠奈は立ち上がると、和室に入り、両手で梨夢の左手を握った。そして「立花さんに留守番を頼まれたでしょう」と訴えながら梨夢のその手を引く。

 リビングに引き戻されてすぐ、梨夢は瑠奈の両手を振りほどいた。

「いいじゃない。代わりに神宮司さんがここで見張っていてよ」

 和室を背にして、梨夢は口を尖らせた。

「何を見張れっていうの?」

 瑠奈が問うと、梨夢は泰輝に目を留めた。

「泰輝くんが覗かないように」

「ちょっとね、本郷さん……」

 呆れて絶句しかかった瑠奈は、その光景を見てなおのこと声を失った。

 梨夢の背後に矢作が立っていた。右手にパラライザーを握っている。

 横目で見ると、泰輝が相変わらずの呆けた表情で梨夢を見ていた。

 状況を察し、瑠奈は梨夢の足元に視線を落とした。

「もう少しで立花さんが戻ってくるよ。そのときに本郷さんがリビングにいないと、立花さんの機嫌が悪くなると思うの」

 瑠奈が思いつきを口にし終えたときだった。

「だましたな」

 言ったのは梨夢だった。両眼を大きく見開き、瑠奈を睨んでいる。矢作はまだ何もしていないが、幼生である彼女は気配を感じたようだ。

 梨夢は振り向いた。その正面で、矢作はパラライザーを逆手に構えていた。

「ぎゃっ」と声を上げて梨夢が仰向けに倒れた。パラライザーの直撃を額に受けたらしい。

 パラライザーをスーツの内側に入れた矢作が、左手で瑠奈の右手を取った。そしてソファのほうに進むと、泰輝の左手を右手で握り、彼を強引に立たせた。矢作の思惑を瞬時に悟った瑠奈は、左手でソファの上のリュックを取った。

「行くぞ」と言いながら、矢作は瑠奈と泰輝を引いてリビングを出た。

 瑠奈は機転を利かせ、繫がれた手を離して矢作の前に出ると、先に玄関で靴を履き、泰輝が履いていた、と思われる靴を手に取った。そしてロックを解除し、ドアを開ける。矢作が靴を履いている間に、瑠奈は泰輝に靴を履かせた。

 矢作が泰輝の手を引いた。瑠奈はそれに続く。

 瑠奈が玄関ドアを閉じると、家の中からばたばたと激しい足音が聞こえた。

 三人は家の脇を抜けて茂みをかき分けた。瑠奈は矢作についていくだけだが、通りのほうへと向かわないのは、彩愛との鉢合わせを避けるためなのだろう。となれば、矢作は彩愛の電話での会話を聞いていたに違いない。

 二人のあとを追いながら、瑠奈はリュックを背負った。闇のなかで小石につまずくが、なんとかバランスを保ち、足を前に進める。

 右手で泰輝の左手を引く矢作は、空いている左手でズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。しかし使い物にならないことが確認できたのか、すぐにそれをズボンのポケットに戻す。そして彼は、その手にパラライザーを持った。ペンライトとしても使えるそれに明かりを灯し、進行方向を照らす。

 見上げれば雲間に細い月が浮かんでいた。この月明かりだけでは、確かに心許ない。

 そんなことより、瑠奈は重大な事実に気づく。

「そっちには二口女が」

 走りながら、瑠奈は矢作の背中に訴えた。

「大丈夫だ。泰輝くんと本郷梨夢以外の幼生の気配はない」

 泰輝の手を引いて走る矢作が、そう答えた。

 今になって蒸し暑さを感じた。その蒸し暑さが、より一層、瑠奈の息を上がらせる。

 やがて三人は木立を抜けて草地へと足を踏み入れた。

 なんら抵抗もせず、黙したまま、泰輝は矢作に手を引かれていた。

 梨夢に対する罪悪感を抱きつつも、瑠奈は矢作と泰輝のあとに続いて走った。

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