第5話 脅迫する舌 ③

 上り道の県道がさらに狭まった。加えてカーブも多くなる。たまに対向車があっても、恵美はさほど減速せずに車体を側溝に寄せ、難なく躱すのだった。

「しかし本当に狭い道だな。これで県道とはな」

 助手席で小野田はわめいた。

「これと同程度の道で国道、というのも多いですよ」

 脇目も振らずに恵美は言った。

 自縄自縛の羽目なのは理解できる。それにしても、どうしてこうも仕事以外の話題では絡みづらいのだろう。

「まあ、確かに」

 当たり障りのないように返した小野田は、ふと、うってつけの話題があったことを思い出した。

「そういや、今度赴任してくる隊員、矢作といったか?」

「そうですね。早ければ、もう到着しているかも知れませんよ」

「だな」そして小野田は、核心に迫る。「その矢作だって覚えなくちゃならないことがあるだろう。おれもこの仕事に慣れてきたし……尾崎はそいつの教育に移っていいかもな」

「彼に教育の必要はありませんが」

 恵美は横目で小野田を一顧した。

「なんで?」

「矢作さんは特機隊に入隊して八カ月です。小野田さんより仕事はできますよ」

 胸に突き刺さる一言だったが、小野田はめげずに訴える。

「しかしだな、第六小隊には第六小隊なりのやり方っていうものがあるはずだ。神津山という土地にも慣れてもらわなくてはならないし」

「三上さんと佐川さんのコンビに二日ほどついて回るそうです」

「それだけ?」

「それだけです。しかし、小野田さんはまだまだ教育が足りていません」

「足りていない――」

 小野田が絶句すると、恵美は眉を寄せた。

「もしかして、わたしの教育に不満があるのですか?」

「いや、そんなことはないよ。問題はない」

 焦燥のあまり顔面から汗が噴き出そうになった。否、もう出ているかもしれない。小野田はドアガラスに顔を向けた。左手の甲でさりげなく額にふれてみると、案の定、うっすらと発汗があった。

「問題がなければいいんです」

 またしても自縄自縛に陥ってしまった。自分の不甲斐なさに失望した小野田は、車外の風景を眺めたまま押し黙った。

 やがて道は平坦となり、長い直線を経て下りに差しかかった。下りも再び、カーブが多くなる。山林の中の下り道は、右に山肌が迫り、左は斜面が落ち込んでいた。

 数分をかけて下りきると、視野が開け、集落へと至った。山々に囲繞されたそのわずかな平地が大川地区だ。

 四号車は集落の中で右折して県道を離れた。北へと延びるこの舗装路も、先ほどまでの県道と大差なく、相変わらず狭い。むしろ田畑の中を進むこの道は、見通しが利くぶん、開放感があった。

「もうすぐ現場だな」

 カーナビの地図を見ながら小野田は言った。

「そうですね。そこに誰もいなければいいのですが」

 恵美の言葉に頷いた小野田は、幼生に襲われた父子を思い出した。

「昨日みたいなのは、たまらないからな」

「まったくです」

 恵美の横顔は平静を保っているが、心持ちは小野田と変わらないようだ。

 空に晴れ間が見えてきた。稲の穂が揺れる田んぼを眺めていると、ドライブでもしてるかのような錯覚に陥ってしまいそうだ。

 道は再び山林の中へと入り、緩い傾斜の上りとなった。

 県道から分岐して三キロほど走ると、左に野球場ほどの広さの空き地があった。間もなく県境という位置である。四号車は道から逸れて雑草の生い茂るその空き地へと乗り入れた。

「やっと着いたな」

 言いながら、小野田はシートベルトを外した。

 恵美もシートベルトを外すが、エンジンはかけたままだ。

 小野田はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、三上のスマートフォンに電話をかけた。現場に到着した旨を伝えると、彼らの到着にはあと十分ほどかかるという。

 スマートフォンをズボンのポケットに戻した小野田に、恵美が顔を向ける。

「早速ですが」

 恵美はカーナビの画面をセンサーの画面に切り替えた。対幼生モードに設定するが、百五十メートル圏内に反応はなかった。性能上、それ以上の広域は感知できない。それでもセンサーグラスの有効感知距離の百メートルよりは高性能と言えよう。

「今のところは確認できないか」

「ですね」と返した恵美は、車載対幼生センサーを対人モードに切り替えた。こちらにも反応はない。

「では、降りましょう」

 促した恵美は、エンジンを切った。

 二人は同時に車外へと出た。

 遠くでセミが鳴いている。

 蒸し暑さを感じて眉を寄せた小野田は、ワイシャツの胸ポケットからセンサーグラスを取り出した。

「空き地に面した林の中、ということらしいが」

「そうです。空き地を挟んで道路の反対側ですね」

 答えた恵美がセンサーグラスを装着した。

「人がいないんだったら、対幼生モードでいいな?」

 尋ねつつ、小野田もセンサーグラスを装着した。

 恵美は「はい」と答えると、空き地に面した雑木林に向かって歩き出した。

 それに並んだ小野田は、歩きながらセンサーグラスを対幼生モードに設定し、北のほうを見上げた。

「なあ尾崎」

「はい」

 恵美は応答しつつも顔は正面に向けたままだ。

「矢作という隊員は結界が見えるらしいが、そいつがここにいたら、神津山市の市境に張られている結界が見えるんだろうな」

「結界……」とつぶやいた恵美も、歩きながら北の空を見上げた。「あと少し北上すれば福島県ですね。でも、ここより遠く離れた場所からでも、見えるかもしれません」

「まあ、見える見えないはいいんだが……その結界は幼生にとって多少の障壁にはなるらしいが、それでも幼生は結界を出入りしてしまう」

「神津山市の居心地がいいみたいです」そして恵美は小野田を見た。「噂どおりにここで幼生が目撃されたとして、その幼生が外から神津山市に入ってきた可能性はあるにせよ、出ていくことはないと思われます」

「なら、少なくとも福島県側には行っていないな。南下した可能性はあるが」

「この付近で見つからない場合は、南下しながら捜索したほうがよいでしょう」

「そうだな。いずれにしても、敵は巨大なやつ、ということだ。集落に近づかせるわけにはいかない。三上たちの到着を待っている場合ではないかもな」

「はい。急ぎましょう」

 二人は歩調を上げ、雑木林へと足を踏み入れた。


 雑木林の中は下生えが繁茂しているが、獣道のような小道があった。恵美が先頭に立ち、小野田がそのあとに続く。酸っぱいようなにおいがあった。腐葉土のにおいらしい。

 セミの鳴き声がかまびすしい中、センサーグラスを介した索敵は怠らなかった。もっとも、幼生の反応は未だにない。小野田はときおりセンサーグラスを対人モードに切り替えるが、前を歩く恵美をのぞき、人の反応も皆無だった。

 二分ほど歩くと雑木林から草地へと出た。広々とした空間であり、前方と左右に山並みが見える。見上げれば、青空がさらに広がっていた。

「左右に分かれたほうがいいかもしれません」

 恵美の提案に小野田は頷く。

「そうしよう」

 右に向かった恵美を見送った小野田は、左へと歩を進めた。センサーグラスは対幼生モードにしておく。雑草は膝の高さほどはあるが、密集度は思ったほどではなく、加えて地面が固いため、歩行に支障はなかった。

 それにしても蒸し暑い。そよ風さえないのだ。額の汗が頬から喉に伝った。

 不意に、セミの鳴き声が聞こえなくなった。

「小野田さん」

 遠くで恵美の声がした。

 振り向くと、五十メートルほど離れた位置に恵美の後ろ姿があった。彼女はその場で立ち止まっており、拳銃を持つ右手はハイレディポジションを維持し、左手でハンドサインを出している。幼生を発見した――というサインだ。

 スーツの内側のホルスターから拳銃を抜いた小野田もハイレディポジションを取り、小走りに恵美に近づいていった。とはいえ、小野田のセンサーグラスに幼生の反応はない。

 恵美の横にたどり着いた小野田は、「いるのか?」と小声で尋ねた。

「正面の藪……その奥です」

 小声で返した恵美は、前方の藪に顔を向けたままだ。

 ようやく、小野田のセンサーグラスにも幼生の反応が表示された。どうやら先ほどまでの小野田は有効範囲から外れていたらしい。表示には「L・F・H」とあった。雌のハイブリッド幼生だ。対象との距離は九十メートル前後である。数値が一定しておらず、対象である幼生は行きつ戻りつを繰り返している、と推測された。

「こちらから接近するべきか?」

 小野田のその言葉は自分自身に対する問いかけだった。

「しかし、藪が深すぎます。敵に攻撃された場合、回避するのは困難かと」

 予想どおりの言葉が返ってきた。

「とにかく、あの藪に近づいてみよう」

「はい。なら、左右からがいいですね」

「OK」

 打ち合わせは手短に済んだ。

 先ほどと同じように、恵美は右、小野田は左へと進んだ。

 手持ちの弾丸で効果があるのか、という不安はあった。幼生がSNSでの噂どおりに巨大であるならば、昨日のように専用の武器でも歯が立たない可能性がある。それでも、引き下がるわけにはいかない。改めて気を引き締めつつ、小野田は足を忍ばせた。

 自分たちの雑草を踏みしめる音以外には何も聞こえなかった。静寂の中の蒸し暑さがなおのことうっとうしい。

 二人が藪の端にたどり着いたとき、双方の間隔は四十メートルほどに広がっていた。互いに態勢が整っているのを確認し、揃って顔を藪に向ける。

 幼生との距離は五十メートルほどに狭まっていた。その数値がさらに減っていく。

 恵美がハンドサインで「十メートル後退」という意思を伝えてきた。

 頷いた小野田は、恵美の動きに合わせて、藪を正面に見たままあとずさった。そして十メートルほど後退して、二人は足を止める。

 幼生との距離が三十五メートルと表示された。かすかに異臭が感じられる。草を踏みしめる音が聞こえた。

 小野田と恵美はセンサーグラスの表示に向けて拳銃を構えた。

 距離の減少が早くなった。

 藪の奥で小枝が舞い散る。

 図太いうなりが聞こえた。

 距離が十メートルとなった瞬間――。

 藪を突き破って不可視状態の巨体が草地に躍り出た。そしてそれは、草地に出ると同時に立ち止まり、可視状態になる。

 小野田は一瞬、それが肉食恐竜のティラノサウルスに見えた。強靱な二本の後ろ足に長い尾、地面から浮いている短い前足、濃緑色のざらついた皮膚――しかし頭部は、イソギンチャクのごとく触手に覆われていた。触手の群れのやや後ろ、その左右には眼球を先端につけた細い管が生えている。そんな異様な頭部に、脳の表示があった。

 小野田と恵美は同時に発砲した。

 四発ぶんの消音された銃声が鳴った。その四発のすべてが触手の群れの中に飛び込む。

 二人が効果を確かめる間もなく、肉食恐竜もどきは頭部を左右に激しく振った。いくつかの小さな何かが怪物の足元に散らばる。おそらく、四発の弾丸を吐き出したのだろう。

 自分たちの装備ではかなわない、と悟った小野田は、恵美に向かって叫ぶ。

「尾崎は逃げろ!」

 そして拳銃の引き金を引くが、弾丸は怪物の触手をかすめただけだった。

 続いて、肉食恐竜もどきの何本もの触手が、小野田に向かって一斉に伸びた。躱す間もなく、小野田の四肢と動胴が触手にとらえられてしまう。

 白っぽい触手は、小野田の腕の太さほどもあり、ゴムのような感触だった。糞尿のにおいが強烈である。

「小野田さん!」

 恵美が叫びつつ撃った一発が、怪物の左目の付け根付近に命中した。しかし、弾丸は貫通せずに弾き返されてしまい、標的が傷を負った様子もない。

「いいから、おれを置いて逃げるんだ!」

 ほかに手はないと思えた。少なくとも、やられるのは一人で済む。

 肉食恐竜もどきが再び頭を横に振った。触手にとらえられている小野田の体が、恵美のいる側とは反対のほうに飛ばされた。

 地面に左肩を打ちつけた小野田は、自分ではその勢いを止めることができず、何回転も転がったうえで、ようやくうつ伏せの状態で止まった。そして、右手に拳銃がないことに気づく。

 左肩の痛みをこらえ、どうにか片膝を立てた。

 肉食恐竜もどきはこちらに正面を向けており、今にも飛びかかってきそうだった。

 消音された銃声が鳴った。その一発が怪物のどこかに当たったのかそれとも外れたのか、小野田には確認できなかったが、少なくとも敵に負傷した様子はない。そればかりか、銃を撃った恵美を見向きもしなかった。

「こっちよ!」

 小野田の窮地を救おうとしたらしく、恵美は怪物を威嚇した。

「よせ!」

 しかし小野田の叫びを無視した恵美は、さらに「こっちよ!」と声を上げた。

 肉食恐竜もどきが恵美に正面を向けると同時に、新たに標的とされた恵美が、拳銃を撃つ。

 触手の群れに弾丸が撃ち込まれたのは明らかだが、怪物はそれを吐き出し、早足で恵美に近づいていった。

「逃げろ!」

 小野田は叫ぶが、恵美は後ずさりつつも拳銃を連射した。その効果は、見られない。

 触手の波が恵美を包もうとしたときだった。

 半透明の巨大な何かが、小野田の頭上を後方から肉食恐竜もどきに向かって飛んだ。それに対する表示が出るが、確認する余裕はなかった。

 巨大な何かは肉食恐竜もどきに体当たりを食らわせ、藪の奥へと着地した。小枝が飛び散る藪から視線を戻すと、肉食恐竜もどきが草地に転倒していた。

 小野田は立ち上がり、恵美の元へと走った。

「大丈夫か?」

 尋ねた小野田に恵美は顔を向けた。彼女の口が引きつっている。

「ご自分のことを心配してください!」

 恵美の怒りは本物らしい。

 反駁はあるものの、小野田はそれをこらえる。

「とにかく、距離を取ろう」

 小野田が訴えると、怒りの収まらない様子ではあるが、恵美は頷いた。

 二人が雑木林に向かって走り出したのと、肉食恐竜もどきが起き上がるのは同時だった。

 小野田は背後を気にしながら走るが、怪物はこちらを無視してその正面を藪に向けた。

 雑木林の手前で立ち止まった二人は、藪のほうを振り向いた。

 肉食恐竜もどきが後ずさりながら、藪に向かって図太い咆哮を上げた。

「あれは、泰輝くん?」

 藪のほうを見たまま恵美が訝しげな声を漏らした。

 小野田は藪の奥に目を向けた。センサーグラスに「L・F・P」と表示されている。

「純血種の雌」恵美は続けた。「泰輝くんじゃない」

「二口女か?」

 断定はできないが、純血の雌の幼生で既知の存在といえば、それしか思いつかなかった。

 藪の奥から三本の触手が伸び上がり、大きな弧を描いた。その先端が肉食恐竜もどきをめがけて突き進んだ。

 肉食恐竜もどきは後ろ足で後方に跳ね、触手の一発目と二発目を躱すが、三発目を右足に受けてしまう。触手の先端は右足の太ももを貫いていた。見れば、それぞれの触手の先端は泰輝の尾と同様に鏃状となっている。しかも触手そのものは、金色の体毛に覆われていた。

「二口女でもない」

 恵美はつぶやいた。

 三本の触手が引き戻された。

 傷口から紫色の体液を流しつつ、肉食恐竜もどきがもんどり打って仰向けに倒れた。

 引き戻された三本の触手は、藪の上で先端を上に向けてのたくっていた。その三本に加えて、新たに三本の触手が藪から伸び上がる。それらもやはり先端に鏃を備えており、金色の体毛に覆われていた。

 糞尿のにおいに甘い香りが混交した。この甘いにおいをどこかで嗅いだはずなのだが、小野田はそれを思い出せない。もっとも、「これは」と口走った恵美は、この甘いにおいの記憶を取り戻したようだ。

 仰向けに倒れていた肉食恐竜もどきがうつ伏せに体位を変え、ゆっくりと起き上がった。

 六本の触手が、それぞれの先端を同時に肉食恐竜もどきに向ける。

 すさまじい雷鳴とともに閃光が走った。

 鼓膜が受けた衝撃も甚だしいが、UVカットの施されていない対幼生モードのセンサーグラスでは、その光を減殺するには至らず、間に合うはずがないが、小野田は目を閉じて顔を背けた。

 二秒ほどが経ち、目を開けてみると、同様に無駄なあがきをしていたらしい恵美も、背けていた顔を幼生同士の戦場に向けたところだった。

 残像が薄らいでいった。五秒と経たずに、状況の把握が可能となる。

 恐竜もどきは横になっていた。微動だにしない。その頭部は触手の群れごと消失している。

 標的を殲滅した六本の触手が、それぞれの先端を二人に向けた。

 身動きがとれないまま、小野田は生唾を飲み込んだ。

 一切の言動を見せない恵美も、硬直しているらしい。

 ふと、六本の触手が藪の中に引き戻された。

 静寂が戻った。しかし小野田と恵美は、藪に正面を向けたまま身動きがとれない。

 糞尿のにおいが強くなった。横たわる巨軀からうっすらと湯気が立っている。

 藪の灌木が揺れた。その揺れの中から、赤い何かが現れた。

 小野田は目を凝らした。センサーグラスの表示からすると、それは触手の持ち主の一部らしい。六本の触手のごとくこちらも細長いが、色が赤ければ体毛に覆われているのでもなかった。それがのたくりながら草地を這いつつ、小野田と恵美に向かって伸びてくる。

 甘いにおいが強まった。

 両手で拳銃を構えた恵美が、細長い何かに銃口を向けた。すかさず、小野田は自分の右手を恵美の拳銃に載せ、それを押し下げた。

「小野田さん?」

「やめておけ。あの幼生はおれたちを攻撃しない」

 確信はなかった。しかしこちらから攻撃すれば、間違いなく自分たちは死を迎えることになる。

 赤くて細長い何かは、肉食恐竜もどきの触手と同等の太さだった。その何かが二人から三メートルほどの位置で、蛇のごとく鎌首をもたげた。そこで伸張は止まった。

 赤くて細長い何かの先端に、単眼がついていた。その瞳が二人を見ている。

「なんなんだこれは」

 思わず、小野田は声を漏らした。

「目がついていますが、シタじゃないでしょうか」

 恵美の小声を聞いて、小野田は眉を寄せる。

「シタ?」

「ベロの、舌です」

 言われてみれば、長さは別として、色といい、質感といい、中央にくぼみがある平べったい形状といい、まさしく舌である。

 不意に、異様な眼球が舌の中にめり込んでしまった。そして、眼球を取り込んだ開口部が横長の楕円形になる。その楕円形が上下に閉じたり開いたりを繰り返した。言葉を紡いでいるのだ。

「命拾いをしたね」

 かすれた声だった。女の声にも聞こえる。

 小野田も恵美も、黙して耳を傾けた。

「よく覚えておいて。これは余興よ。あなたたちにかなわない相手でも、このとおり、わたしならたやすく始末できる」

 舌の先端に生じた口が、にやりと笑みを浮かべた。

 辺りがにわかに暗くなった。広がりつつあった青空が、どす黒い雲によって覆われていく。

「帰って仲間に伝えなさい。人間ごときにこのわたしは斃せない、とね」

 言い募ると口は閉じ、舌の先に開口部は見えなくなった。そして薄闇の中で、長い舌がするすると引き戻されていく。

 天空に稲妻が走った。雷鳴が轟き、山々にこだまする。

 舌は藪の中に見えなくなった。

 小野田と恵美はまだ動けない。

 何かが藪の奥から空に飛び立った。雌の純血の幼生であることを示す表示がそれに重なっている。何本かの触手が後方に向かって本体から伸びているが、六本では済まない数らしい。可視状態ではあるものの、確認できたのはその程度だった。

 表示が消えた頃には、小野田の目も幼生の実体を見失っていた。

 黒雲がちぎれ始めた。虫食いのように天空のあちこちに晴れ間が現れる。

 甘いにおいはすでに消えており、一方の異臭は先ほどよりも強くなっていた。視線を下ろせば、肉食恐竜もどきの体はさらにしぼんでおり、湯気の量が増えている。

 不意に記憶が蘇り、小野田は言う。

「今の純血種のにおいは、一号車が爆発したあとに漂っていたにおいだ」

「はい。今のも、葛のにおいでした。一号車の爆発事件に今の純血の幼生がかかわっているかどうか断言はできませんが、その可能性のある存在から挑戦状を叩きつけられた、ということになりますね」

「そうだな。しかも、やつの言ったことは的を射ている。このままでは、おれたちはあいつにも巨大なハイブリッド幼生にも勝てない」

 言って小野田は、異臭の発生源に向かって歩き出した。

「どうするんです?」

 背後から問われ、小野田は歩きながら答える。

「銃を落としちまっただろう。捜さなきゃな」

「一人では無理でしょう」

 そう返した恵美が、小走りで小野田に追いついた。

「小野田さん! 尾崎!」

 不意に声をかけられ、小野田と恵美は立ち止まって振り向いた。

 雑木林を背にして、三上と佐川が立っていた。二人ともセンサーグラスをかけており、拳銃もそれぞれ右手に持っている。声は三上のものだった。

「そこに倒れているのは幼生じゃないですか。もちろん、仕留めたんですよね?」

 尋ねながらこちらへと歩き出した三上に、佐川も続く。

「得体の知れないやつに仕留めてもらったんだよ」

 小野田の答えに、歩いてくる二人が不思議そうな表情を浮かべた。

「ちょうどよかったですね」恵美が小野田を見た。「四人なら早く見つけられると思います」

「だな」

 言って小野田は、ようやく生きていることを実感した。

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