第3話 水妖 ④

 二台のSUVは三十メートルほど後退し、道幅の広いそこで向きを変えた。

 一号車を先頭として、二台は大北方渓谷の東端から県道に出ると、山寄りの県道を南下した。

「どうしてショゴスは大北方川を遡ったんでしょうか?」

 四号車の後部座席で、瑠奈は前部座席の二人に尋ねた。

「なぜ二口女があそこに現れたのか、それと同様に謎ということね」

 答えたのはハンドルを握る恵美だった。

「ごめんなさい。変なことを訊いちゃって」

 現状を考慮すれば、それを答えられないのは当然である。自分の不甲斐なさにうなだれた瑠奈は、右隣で寝ている泰輝に視線を移した。今回は傍観していただけだが、よほど興奮したのだろうか。いずれにしても、この小さな姿を取っている間の泰輝は、体力の消耗が激しいのだ。

「いいのよ。瑠奈さんにはこちらから頼んでついてきてもらったんだし。わからなかったら訊きたくもなるわ」

 いつになく感情的な口調で、恵美は言った。神宮司邸を出発する前に、恵美は大場に向かって、瑠奈と泰輝を同行させることに異議を申し立てていた。今の恵美の言葉は、大場に対する反駁だったのかもしれない。

 尋ねたいことはまだあったが、剣呑な空気をさらに濃くするのも気が進まず、瑠奈は押し黙った。

「ショゴスか」口を開いたのは助手席の小野田だった。「本部での研修で概要を聞いただけだが、数十億年前の南極で知的生命体によって作られた生物だったよな?」

 言うまでもなくその問いは恵美に向けられたものだ。

「はい」恵美は答えた。「しかしショゴスたちは、自らの創造主に反逆しました」

「そして現在では、例のやつらに使役されている」

 小野田が言葉を繫ぐと、恵美は「そうです」と言って頷くが、何かに気づいたように顔を上げた。

「ということは……」

「その辺の事情をおれはまだ把握していないが、ショゴスが自分の意思で来たわけではない、という可能性もあるわけだ」

 そう口にしてから、小野田はわずかに顔を後ろに向けた。

「気にしないでください。わたし、すぐに忘れますから」

 瑠奈が言い繕うと、恵美は肩をすくめた。

「瑠奈さんこそ気にしなくていいのよ。あなたはすでに邪神やその眷属についてある程度の知識を有しているもの。ただね、こういうのをあまり深く知りすぎると、精神が参っちゃうことが多いの」

「蒼依もそういった一人、ということですね」

 素直に、そういうことなのだと思っただけだ。当てつけるつもりではなかったが、流れとしては不適切な言葉だったに違いない。瑠奈は自分の不甲斐なさを再認識した。

「確かに蒼依さんもその一人よ。でも……いえ、だからこそ、あなたまで心の病にかかってはいけないわけ」

 瑠奈の憂慮に反して恵美は平然としていた。

「はい」瑠奈は首肯した。「友達として、わたしは蒼依を支えていくつもりです。これからも、ずっと」

「それでも邪神やその眷属についてもっと詳しく知りたいのなら」恵美は続けた。「神宮司会長……あなたのお母さんに尋ねるといいわ。会長はわたしなんかより多くのことを知っている。それに、母親として適切な言葉を選ぶだろうし、知っても差し支えのない範囲で聞かせてくれるはずよ。むしろ、さっきの状況は大場隊長から分駐所で待機している会長に伝わっているはずだから、あなたが尋ねれば、黙秘はできないと思う」

「そうかもしれません」

 あえて「尋ねてみる」とは明言しなかった。ショゴスやショゴスの創造主、ショゴスを使役している例のやつらとやらについても、瑠奈は概略を知っているだけであり、それらの生態や歴史については何も知らないに等しい。だが、特機隊隊員でもなければ輝世会成員でもない自分だからこそ、知っても意味のないことと思えてしまうのだ。それよりも今は、蒼依の力になることに専念すべきだろう。

 瑠奈はうつむき、目を閉じた。

 特機隊から求められたことはすべて全うしたのだ。

 帰宅するまでは、自分だけの時間の中にいたかった。


 梨夢は夕食の準備を手伝おうとしたが、彩愛は「部屋で休んでいて」と告げてそれを断った。

 午後六時が過ぎたばかりだった。得体の知れない何かの気配はいつの間にか消え失せていた。気分が落ち着いてきたこともあり、机に向かって数学Ⅰの勉強の準備を整えた。今のうちから大学入試に備えておかなければならないのは、梨夢に限ったことではない。怪異に翻弄されようとも、社会の理は穏便に取り計らってはくれないのだ。

 問題集を開こうとした梨夢は、ふと違和感を覚えた。表紙の文字がぼやけて見える。

 眼鏡を外して机の上に置き、片手で左右の目頭を押さえた。そしてその事実に気づく。

「何これ?」

 眼鏡を外しているのに、問題集の表紙の文字がはっきりと見えるのだ。

 梨夢は眼鏡を外したまま、部屋の中を見回した。テレビ、タンス、ドレッサー、ベッド、壁のカレンダーの数字や文字――どれもが眼鏡をかけているときよりもよく見えるくらいだ。試しに眼鏡をかけてみるが、やはりその状態ではすべてのもがぼやけてしまう。梨夢の視力は裸眼で左右とも0・3である。考えられない事態だった。

 眼鏡を机の上に置いた梨夢は、部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。

「おばさん」

 キッチンに入るなり、梨夢は彩愛に声をかけた。

 彩愛は調理台に向かってまな板の上の野菜を切っていたが、その手を止めて振り向いた。

「どうしたの?」

「わたし、裸眼でも目がよく見えるの。眼鏡をかけると、かえってぼやけるの。これって、視力が回復したっていうこと?」

 裸眼でもよく見えているとはいえ、あの不可思議な感覚と鑑みれば、決して喜べない。

「視力が回復した? 急に?」

 包丁を置いた彩愛が、懐疑の表情を浮かべた。

「だって、ほら」梨夢は訴える。「わたし、眼鏡をかけていないよ。おばさんの顔もまな板の上の野菜も、ちゃんと見える。コンタクトなんてつけていないからね」

「梨夢がコンタクトを使わないのは知っているけど、視力が急に回復するなんて……」

 彩愛は驚愕の表情のまま、その場に立ち尽くした。そんな彼女の表情が裸眼で見えてしまうのだ。

 自分の中で何が起こっているのか、それがわからず、梨夢は暗黒の海にほうり込まれたような気がしてならなかった。


 本宅の車寄せに真紀と蒼依が立っていた。一号車はそこをゆっくりと素通りするが、四号車は停車し、瑠奈と泰輝を下ろしてから裏のガレージへと向かう。

「お帰りなさい」真紀が笑顔で瑠奈と泰輝を出迎えた。「二人とも無事でよかった」

 泰輝が一歩、前に出た。

「おばちゃん、蒼依ちゃん、ただいま」

 車を降りる直前に目を覚ましたのだが、すっきりとした表情だ。

「お帰りなさい」と安堵を浮かべて泰輝を見た蒼依が、瑠奈に視線を移す。「本当に無事でよかったよ。心配していたんだから――」

 不意に涙を浮かべた蒼依が、瑠奈に抱きついた。

「もう大丈夫だよ。みんな無事だった。何も問題はない」

 言って蒼依の髪をなでながら、瑠奈は真紀に目で合図した。頷いた真紀は、泰輝の手を取って先に本宅の玄関へと入る。

「一緒に別宅へ行こう」

 瑠奈はそう伝えると、蒼依の両肩を軽く叩いた。

「うん」

 頷いた蒼依が瑠奈から体を離した。

 二人は手を取り合い、第一別宅へと向かって歩き出した。


 第一別宅の応接室で、瑠奈と蒼依は向かい合わせにソファに着いていた。恵美は分駐所で報告会があるため、しばらくは顔を見せないだろう。瑠奈は不安そうな蒼依を一人にしておけず、恵美が来るまでの間はここにとどまるつもりだった。

 瑠奈が事件のあらましを伝える中で二口女の名前を口にすると、蒼依はほんの一瞬だが、顔をこわばらせた。二口女は山野辺士郎事件に深く関わった幼生であり、蒼依にも記憶にある怪物であるはずだ。蒼依が動揺するのも無理はないが、瑠奈はあえてその名を口にした。今回の事件で二口女が現れた件を明らかにしなくても、蒼依がのちになって知る可能性はある。蒼依の精神状態を考慮すれば、下手な隠し立ては避けるべきだろう。それは恵美からのアドバイスでもあった。

「つまり、そのショゴスっていう怪物を食べちゃった二口女は、瑠奈やたいくんや特機隊には目もくれずに、どこかへ飛んでいっちゃったんだね?」

 話を終えた瑠奈に、蒼依は尋ねた。神妙な趣には違いないが、動揺は最小限で済んだようだ。

「そうなの。どこへ行ったのかは、泰輝でもわからないみたい」

 蒼依の表情を見て安堵しつつ、瑠奈は答えた。

「それでも、ショゴスがやってきた理由や、二口女がショゴスを迎え撃った理由はわからない」

 自分に言い聞かせるような蒼依のその言葉に、瑠奈は首を傾げる。

「迎え撃った?」

「幼生でないショゴスが……というか、無貌教の味方ではない怪物が神津山市に入ってきたから、二口女は迎撃したんじゃないの?」

 意外だった。蒼依がそんな憶測を立てられること自体もそうだが、的外れな意見に思えないのも、瑠奈の意表を突いた。

「でも」蒼依は続けた。「神津山市の市境には結界が張られているんだったね。ショゴスは平気だったのかな?」

「神津山市の結界は、縄文時代に中国からやってきた一族が自分たちの魔術が効力を発揮しやすくするために作ったものだから、蕃神や幼生にとっては多少の障壁にはなっても結果的に出入りは容易みたいだよ。そもそもショゴスという存在には多少の障壁にさえならないのかもしれない」

 瑠奈が説くと蒼依は頷いた。

「なら、ショゴスが神津山市に現れてもおかしくはないんだね。問題は、どうして神津山市にやってきたのか」

「そう、それだよ。特機隊でも理由はまだつかめていないらしいの」

「ショゴスって、自分の意思で動いているの?」

 唐突な問いを受けて、瑠奈は言葉に詰まった。

「えっと……」小野田と恵美の会話を思い出し、瑠奈は言う。「ショゴスはね、恐竜時代よりも前の太古の南極で、外宇宙からやってきた知的生命体によって作られた生物なんだけれど、自分を作ったその知的生命体に反逆したの。そして今では、水棲種族に使役されている」

 それは小野田と恵美の会話というより、真紀から聞いた話だった。とはいえ、「わたし、すぐに忘れますから」と帰路の車中で言った言葉を思い出し、多少の罪悪感を覚える。

「水棲種族って、たとえば、半漁人みたいな?」

 わずかに身を乗り出した蒼依を見て、瑠奈は危惧を覚える。

「まあ、そんな感じだね」

 答えたものの、こんな話題はもう終わりにしたかった。

「その水棲種族も、邪神にかかわっているんでしょう?」

 瑠奈の思いに反し、蒼依は目を輝かせていた。

「そうらしいよ。でも水棲種族がかかわっている邪神は、無貌教が崇拝している神とも、山野辺士郎事件で高三土山に現れた女神めしんとも違うみたい。確か、太平洋のどこだったか、海の底で何億年も眠っているんだとか」

「海の底で、何億年も……」

 復唱しつつ、蒼依は眉を寄せた。

「概要を聞いただけだから、わたしにわかることはこれくらい」

 瑠奈は事実を告げた。

「そう」

 話の展開を期待していたのか、蒼依は肩を落としたようだった。

「とにかく、ショゴスが神津山市に現れた理由は、特機隊にもわからないことなの。そしてそれを調べるのが特機隊の仕事。わたしたちが気を揉んでも仕方がないよ」

 話題を変えるべく、瑠奈は話を締めくくった。

「でも、気にはなるよね?」

 そう切り返され、瑠奈は啞然とした。

「気になるよ。だから帰りの車の中で、ショゴスが現れた理由を尾崎さんや小野田さんに訊いたんだよ。わたし、知っていることは、今、蒼依に話した。何も隠していない。わたしは蒼依と情報を共有しているんだよ。それは、わかってほしい」

「わかっているよ」と言って、蒼依はうつむいた。「でも、わたしたちは闇の世界に足を踏み入れてしまった。それなのに知らないふりをしているなんて、苦しいだけだよ」

 だから特機隊に入りたい――そんな蒼依の本心を瑠奈はすでに打ち明けられてはいるが、受け入れることなど、到底不可能だ。

「わたしだって蒼依と同じ立場だよ。逆に、蒼依はわたしやわたしのお母さん、藤堂さんとも同じ立場であるわけ。蒼依は独りぼっちなんかじゃないよ」

 蒼依を勇気づけるつもりで言った。しかし、顔を上げた蒼依は、不服の色を呈している。

「瑠奈はここの人じゃん。でもあたしは、いずれはここを出ていくの。社会人となって自立して、もしかしたら結婚するかもしれない――」

「それはもう聞いた」瑠奈は蒼依の言葉を遮った。「わたし、まだ言っていなかったけれど、隊長の大場さんだって結婚しているんだよ。奥さんや子供が東京の自宅にいるの。大場さんの家族は大場さんが幼生と戦っていることなんて知らない。大場さんが家族に伝えられるのは、警察の特殊部隊で働いている、ということだけ。大場さんだけじゃないよ。ほかにも家族を持っている隊員はいくらでもいる。未婚の人だって恋人はいるかもしれないけれど、その恋人にだって何も言えない」

 正鵠を射たかもしれない。蒼依は返す言葉を見失っているようだ。

「それにわたしだって、ここを出るつもりでいるんだよ」

 これは真紀だけに打ち明けたことだ。蒼依に伝えるのは初めてである。

「え……」

 蒼依の表情が固まった。

「わたしだって自立したいの。結婚は考えていないけれど、特機隊や輝世会とはまったく関係のない仕事をしたい。普通の世界で生きていきたい」

 結婚は考えていない――というより、瑠奈にとって恋愛の対象は、空閑隼人だけなのだ。彼以外の男と結婚するならば、一生を独身で過ごしたほうがよいくらいである。

「じゃあ」蒼依は信じられないとばかりに小さく首を横に振った。「この家の将来はどうなるの? たいくんはどうなるの?」

「この家のことは、まだわからない。泰輝は……もうその兆候が出ているんだけれど、人間としてではなく、幼生として生きていくと思う。いずれ、そう遠くないうちに、人間の姿を取らなくなる」

「たいくんもこの家を出ていくっていうこと?」

「この家の敷地は泰輝の結界内でもあるわけだから、人間の姿を取らなくなっても、この敷地内のどこかを根城にするかもしれない。もしくは、人里離れた山の奥深くに身を隠すかもしれない。いずれにしても、わたしがここで暮らそうとここを出ていこうと、泰輝は将来的に、獣の姿のまま人間と共存していく」

「そんな……」

 そうこぼした蒼依は、遠い目をした。

「とにかく」瑠奈は言った。「わたしも闇の世界に足を踏み入れた者として、それを隠して生きていくつもりなの。でも孤独じゃないよ。蒼依やお母さん、藤堂さんがいる。みんなわたしと同じ立場……同じ仲間なんだし」

「瑠奈は……そういう道を歩んで苦しくならないの?」

 瑠奈から目を逸らして蒼依は尋ねた。

「うん」

 答えたが、蒼依の気持ちを察してもいるつもりだった。少なくとも今の蒼依には、そんな未来が苦しく思えてならないのだ。強要はできない――それをわかっているからこそ、瑠奈はそれ以上の言葉を紡げなかった。

 目を逸らしたままの蒼依も、押し黙ってしまった。

「あの……何か楽しい話をしようよ」

 無駄だと承知しつつ訴えてみたが、案の定、蒼依は首を横に振った。

 とはいえ、恵美が報告会から上がってくるまでは、ここを離れるわけにはいかない。

「テレビでも点けようか?」

 尋ねた瑠奈は、答えを聞かずにテーブルの上のリモコンを取り、スイッチを入れた。報道番組は避け、バラエティー番組に合わせた。お笑い芸人のトークでスタジオが盛り上がっている。だからといってこの暗い空気が払拭されるわけではない。間が持てば、それでよいのだ。


 今日も朝から晴れだ。泰輝は瑠奈が起床する前に外出したらしい。昨日に引き続き泰輝の朝の世話から解放された瑠奈は、真紀との朝食を終えると、歯磨きと洗顔を済ませて前庭へと出た。気温は上がりつつあるが、今ならまだすがすがしさを体感することができる。

 瑠奈は池の手前で足を止め、大きく伸びをした。そして両手を下ろしたところで、東の端に立つグレースーツの姿に気づく。見れば、小野田だった。小野田もこちらの視線に気づいたらしく、センサーグラスをかけたまま、にっと笑みを浮かべた。さすがに同じ笑みは浮かべられず、瑠奈は会釈で挨拶を返した。

 もう一つの気配があった。視線をわずかに左にずらすと、第一別宅の玄関前に蒼依の姿があった。玄関から出たばかりらしく、彼女は後ろ手にドアを閉じていた。

 朝日のまぶしさに目を細めつつ、瑠奈は正面を蒼依に向けた。

 一方の蒼依は、やはり小野田に気づいたらしく、彼に向かって会釈をした。グレースーツの男が笑顔で頷くと、蒼依は瑠奈に顔を向け、意を決したように足を踏み出した。

 胸の鼓動が早まった。目まいさえ感じてしまう。はたして数分後には笑っていられるだろうか――そんな思いが脳裏を駆け巡った。

 蒼依が瑠奈の前で足を止めた。

 センサーグラス越しの小野田の視線が気になってしまう。

「おはよう」

 先に口を開いたのは蒼依だった。

「おはよう」

 瑠奈も言った。

「瑠奈が外に出てくるのを、部屋から見たの」

 目を逸らさずに蒼依はそう告げた。

「うん」

 返事を返した瑠奈は、蒼依の次の言葉を待った。

「ゆうべはごめんなさい。いくら病気とはいえ、あたしの態度、とても悪かった」

 その素直な言葉に、瑠奈は訝しんだくらいだ。

「でも」蒼依は続けた。「特機隊に入りたいっていう気持ち、まだ捨てたわけじゃないからね」

 やはり裏があった――と瑠奈が思う間もなく、蒼依は笑顔を浮かべた。

「自分の人生だもん。やっぱり自分で決めなくちゃね。瑠奈だって自立したいわけだし」

 そして蒼依は、右手の人差し指を立てると、その指先を瑠奈の鼻の頭に押し当てた。瑠奈はのけ反って蒼依の指先から逃れようとするが、押し当てられた指はそれを許さなかった。

「瑠奈だって無茶をしている。自ら儀式を受け入れて、たいくんを産んだじゃん。そのあとだって、危険な現場に何度も足を運んだ。たぶん、これからも瑠奈はそうする」

 してやったりとばかりの蒼依が、白い歯を見せた。

「わ、わたしは……」

 言葉に詰まった瑠奈は、体勢を整えると、やっとの思いで右手を動かし、蒼依の人差し指をとらえようとした。しかしそれより早く、蒼依は人差し指を瑠奈の鼻の頭から離してしまう。

「つまり、おあいこっていうわけ」

「でも特機隊の任務は、わたしなんかの出しゃばりより、もっと危険なんだよ」

 瑠奈は言い募ったが、蒼依に動じる気配はなかった。

「どっちも同じくらい危険だよ」そして蒼依は、真顔になった。「あたし、勉強も頑張るけど、治療も頑張る。でもね、頑張って治療して病気が治っても、心の弱さは直らないと思う。瑠奈のような強い人にはなれない。強くはなれないけど、弱いなりに前向きに生きたいの」

「それが、特機隊隊員になるっていうこと?」

「そういうこと」と蒼依は認めたが、瑠奈は意見する。

「でも、なれる、とは限らないよ。警察官になるのだって試験はあるし、精神科の通院歴のこともあるし、特機隊隊員になるのだって適性検査に通らないといけない」

「承知しているよ。だめだったときは、そのときに考える。……ほら、もう前向きになっているでしょう?」

「前向きっていうか……」

 一時的に症状が落ち着いているだけなのだろう。あれほど思い詰めていたのだから、そのあとでとことん悩んだはずである。それがあっての主張に違いない。だが、瑠奈は腑に落ちなかった。

「あれから尾崎さんと何か話したの?」

 瑠奈が重ねて問うと、蒼依は頷いた。

「あたしが特機隊入隊を希望していることを、また……ちょっとね」

「で、尾崎さんはなんて言ったの?」

「少しは折れてくれたみたいだったよ。いくつもの関門を突破して特機隊に入隊できたら、そのときに初めて認めてくれるって。それからね、精神科の通院歴に関しては、尾崎さんが口添えしてくれるって」

 やはりそれが蒼依にとっての機転となったのだ。

「そう……」

 瑠奈は落胆を隠せなかった。恵美が蒼依の考えに肯定的になってしまっては、もう歯止めは効かなくなるだろう。だが一方で、蒼依に対して瑠奈が抱く憂慮も無意味なものに思えるのだった。蒼依の言うように、一般の家庭に入った蒼依が本当に幸せになれのか、と。

「わかった」瑠奈は言った。「というか、まだ納得はできないし、もう少し時間をかけて考えたいんだけれど、とにかく、わたしの価値観で蒼依を縛りつけることは、もうしないよ。蒼依……わたしのほうこそ、蒼依の気持ちを第一に考えなくて、ごめんね」

 もしかすると、これまでの意固地な自分が蒼依の病をさらに悪化させてしまったかもしれない。瑠奈は自分が柔軟さを忘れていたことを認め、そして反省した。

 再び笑顔を見せた蒼依が、首を横に振った。

「そんなこと、もういいよ。それよりあたしね、瑠奈が言ったこと、信じることにしたんだ」

「わたしが言ったこと?」

 そう問い返した瑠奈を蒼依は見つめる。

「独りぼっちじゃない、っていうことだよ」

 それは何よりの報告だった。瑠奈は思わず笑顔をこぼしてしまう。

「うん」

 力強く頷いた瑠奈は、横目で小野田を一顧した。

 二人の会話は届いていないはずだが、何が微笑ましかったのか、小野田は口元に笑みを浮かべていた。それがどうしてか、瑠奈にはうれしかった。

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