第4話 いざない ①

 午前十一時まであと十五分という時間ではあるが、正午から第一別宅裏での立哨に就かなくてはならないため、小野田は一人、分駐所の食堂で昼食を取っていた。メインのサンドイッチに加えてミルクセーキとバナナ、というメニューである。無論、本宅で家政婦たちが作ったものだ。

 長めのテーブルをコの字に囲む椅子は十五脚だ。そんなスペースを占領してサンドイッチを頬張ってい自分を、小野田は哀れに思ってしまう。同じ時間帯で前庭での立哨に就くのは松崎だが、彼は管制室でセキュリティシステムの監視中であり、そこで昼食を取っている。

 ノックと同時にドアが開いた。特機隊ならではの、この部屋に入るときの習慣だ。

 入ってきたのは三上と佐川だった。二十九歳の三上と二十七歳の佐川は年が近いせいか息が合うらしく、コンビを組まされることが多いという。二人ともグレースーツではなく、三上はポロシャツとジーンズ、佐川はTシャツにジーンズ、という姿だった。それぞれがキャンバス地のトートバッグを提げている。トートバッグは小野田の横に置いてあるものと同じだ。今日の昼食のために用意されたランチバッグである。

「なんだ、二人とも休暇か?」

 尋ねてみたものの、二人以上の隊員が同時に休暇を取るなど、この第六小隊の規模ではありえないはずだ。

「いえ」答えたのは佐川だった。「四日前に現れた幼生の件で、今から昼食を取って、坂萩まで行ってきます」

「四日前といえば、あのムカデもどきか。六日前が三体一組の幼生で、三日前が二口女とショゴスだったな」

 回顧を口にした小野田の向かいに三上と佐川は腰を下ろした。

「ここのところ、集中していますね」

 そう返しつつ、三上が自分のトートバッグから中身を取り出した。

「おれがここに赴任する三日前には、一つ目小僧だったよな?」

 小野田が尋ねると三上と佐川が顔を見合わせ、互いに失笑した。

「あの件は」三上が言った。「おれたち二人の担当でした」

「そういえば」と口を開いた佐川も、自分のメニューをテーブルの上に広げる。「小野田さんはムカデもどきが潜んでいた辺りで瑠奈ちゃんたちに会ったんでしたね?」

「ああ、そうだよ」

 頷きながら、小野田はサンドイッチを頬張った。

「見鬼の瑠奈ちゃんでも幼生が出現するまでは何も感じなかったのは、能力的に無理なんでしょうけど、だからこそ、そこに瑠奈ちゃんと蒼依ちゃんが居合わせたのは、偶然としか言いようがないですね」

 佐川の言葉に彼の隣の三上が「うんうん」と相づちを打った。

 ミルクセーキの入ったペットボトルの蓋を開けかけた小野田は、ふと、その手を止める。

「偶然……ね」

「どうしました?」

 尋ねた佐川が、サンドイッチにかぶりついた。

「ああ、いや、なんでもない」言葉を濁した小野田は、話題を変える。「ところで、二人のその格好はカムフラージュのためか?」

 佐川は笑いながら頷く。

「まさしく。一般人の目を避けるというよりは、無貌教に気取られないためですね」

「でも」三上が言った。「神津山の都市伝説に、ダークスーツにサングラスの怪しいやつら、なんて加えられそうな気配もあるんですよ」

 そして三上は苦笑するが、小野田は眉を寄せた。

「それはまずいだろう。一般人に警戒されてしまうじゃないか」

「今のところは問題ないです」苦笑したまま三上は返した。「警察の特殊部隊で通っているみたいですし」

「失踪事件を捜査している特殊部隊、なんだそうです」

 佐川が付け加えた。

「いい傾向とは思えないが」

 同意しかねる旨を伝えたつもりだが、三上と佐川は笑顔のまま食事に没頭し始めていた。

 所詮はその程度の憂慮なのだ。問題があれば、上層部か輝世会が打開策を打ち出すはずである。現場が悩む必要はない。

 それよりも小野田は、もう一つの件が気になっていた。

「偶然……ね」

 うまそうにサンドイッチを頬張る二人に聞こえないように、もう一度だけ独りごちた。


 海鮮料理店で海鮮丼を平らげた瑠奈と蒼依は、店を出てすぐに小名浜漁港沿いの県道の歩道を南へと向かった。きらきらと日差しを反射する凪いだ海面を見たいがために、向かって左側、港側の歩道を歩いた。このまま進めば十分ほどで次の目的地である大型ショッピングセンターにたどり着けるだろう。

 二人ともTシャツにミニスカートだった。銘柄は異なるものの、双方ともショルダーバッグである。瑠奈に至っては泰輝の着替えを持たないぶん、久しぶりに快適な心持ちでの外出となった。とはいえ、快晴で日差しが強いのだから、この暑さからは逃れられない。

「帽子を持ってくればよかったね」

 眉を寄せつつ、蒼依がため息をついた。

「ショッピングセンターで買おうか?」

 瑠奈が提案すると、蒼依は笑顔を見せた。

「そうしよう。楽しみが一つ増えた」

 漁港の近くだからだろうか、生魚のにおいがわずかながら届いていた。とはいえ、バニラのにおいは感じられない。海鮮料理店に入る前に泰輝の体臭を嗅いだのは確かだが、今頃は海に潜って魚を捕っているのかもしれない。ここまでの行程でそこここに泰輝の気配があったが、瑠奈と蒼依が二人だけの時間を楽しんでいるのを知ってか、彼が直接的に関与してくることはなかった。

 やがて二人は橋を渡り、漁港の区画から離れた。そこから先は商工業港の広大な区画であり、県道の左手には観光物産館や水族館、右手には目的の大型ショッピングセンターがある。気づけば、いつの間にか生魚のにおいから解放されていた。

 学生にとっては長い夏休みのうちの一日にすぎないが、社会人にとってはただ暑いだけの平日だ。子供を含む若者たちの姿はちらほらと窺えるが、全体的な人出は少ないほうだろう。

 そろそろ右側の歩道に移ろう――と瑠奈が考えたちょうどそのとき、目の前の交差点で進行方向の信号が赤に変わった。

「渡っちゃおう」

 蒼依はそうせかすが、瑠奈は異臭を感じ、足を止めた。

「どうしたの?」

 並んで足を止めた蒼依は尋ねつつも、やはり異臭に気づいたらしく、顔をしかめた。

 漁港の近くに漂っていた生魚のにおいに似ていなくもないが、生魚のにおいというより、生臭いにおいだった。少なくとも、食欲を増進させる薫香などではない。

 気配を感じ、瑠奈は振り向いた。蒼依もそれに倣う。

 二人の背後に立ってたのは、ランニングウェアの人物だった。中肉中背の男である。ランニングウェアはトップが半袖でボトムが七分丈であり、黒タイツを着用していた。ランニングキャップを深くかぶっているために顔の様子が把握しづらいが、えらが張っているのと厚い唇だけは確認できた。異臭の根源はこの人物であるらしい。

「神宮司瑠奈さんと、空閑蒼依さんだよね?」

 神経を逆なでするくぐもった声だった。

 唐突に名前を出されたのとその異臭の強烈さもあって、瑠奈は蒼依とともにあとずさった。

「神宮司瑠奈さんと、空閑蒼依さんだよね?」

 繰り返し尋ねた男が、一歩、前に出た。

「いったい、なんなんです?」

 のけ反りつつ、瑠奈は問い返した。相手の素性を尋ねたというより、この現状の意味を尋ねたつもりだった。

「神宮司瑠奈と空閑蒼依か、って訊いているんだよ」

 ついには呼び捨てになった。しかも声にはいら立ちが含まれている。

 不意に、その男の左右に二人組の男が立った。どちらもTシャツにジーンズという二人は、瑠奈の見知った顔である。その二人が近くにいたことに、瑠奈と同様、蒼依もランニングウェア男も気づかなかったようだ。

「木島さん、仁賀さん」

 声に出した瑠奈は、ようやく、地に足が着いた感じを得た。

 特機隊の二人、木島と仁賀は、左右からランニングウェア男に体を密着させた。二人ともボディバッグを背中にたすきがけしている。

「特機隊がついていたのかよ」

 うつむいたまま、ランニングウェア男がほざいた。

「おとなしくしておけよ」

 ランニングウェア男の左につく仁賀が囁き、虜囚の左腕に自分の右腕を組みつけた。

「こんな人目につくところで、騒動を起こしたいのか?」

 異臭を放ちつつ、男が問うた。

「目立つとやばいのは、貴様も同じだろう」

 そう突き返した木島が、ランニングウェア男の右腕に自分の左腕を組みつける。

 三人のやり取りを耳にして、瑠奈は改めて周囲を見回した。

 歩道や広い駐車場には、まばらに人の姿が窺えた。混雑こそしていないが、車の通りもそれなりにある。この場での大げさな立ち回りが人目を引くのは明らかだ。

「二人とも、おれたちから離れるな」

 木島が二人の少女に言いつけた。

「でも……」

 買い物が済んでいことを訴えたかったが、瑠奈は口をつぐんだ。異臭を放つ男は、二人の少女を瑠奈と蒼依と知って近づいてきたのだ。この日の享楽はここまでだろう。蒼依もそれを承知したのか、瑠奈に向かって軽く頷いた。

 特機隊の二人がその態勢のままランニングウェア男とともに、二人の少女が渡ろうとしていた道の向こう側とは反対のほうへと歩き出した。瑠奈と蒼依はその三人の後ろにつく。

 尋ねたいことはあった。何ゆえに自分たちは特機隊に見張られていたのか。このランニングウェア男は何者なのか。しかし、瑠奈は口を開かなかった。いずれわかることだ。まだ油断してはならない。

 東へと向かうその道の右側には観光物産館があるが、一行はその正面付近で、反対の左側へと折れ、路地へと入った。

 人目につきにくい状況であることを把握した瑠奈は、蒼依よりも少し前に出て、ランニングウェア男の後ろ姿を凝視した。キャップをかぶっているが毛髪は薄いようだ。猫背ぎみであるのも相まって五十代以上に見える。とはいえ、単に老けて見えるだけなのかもしれない。

 一行はさらに右に折れ、倉庫と倉庫との間の狭い通路に入り、そこでようやく立ち止まった。

 仁賀が自分のボディバッグからペンライトのようなものをあいているほうの手で抜き取った。

「ふっ」とランニングウェア男のくぐもった声が漏れたが、それよりも響いたのは、彼がコンクリートの地面に倒れる音だった。

 うつ伏せに倒れている男を、木島と仁賀が見下ろした。瑠奈も蒼依とともに、声も出せずにその男を見下ろす。男は一瞬、全身をびくっと震わせるが、すぐに微動だにしなくなった。

 仁賀が手にしているペンライトふうのものはパラライザーだった。彼がそれをボディバッグに戻すと、木島がしゃがんで男のランニングキャップを取った。男を挟んで木島の反対側に片膝をついた仁賀が、その男を横に転がして仰向けにする。

「インスマスづらか。やはり深きものだったな」

 つぶやいた木島が、ランニングキャップを傍らに置いた。

 仰向けの男はほぼ禿頭だった。それよりも瑠奈の目を引いたのは、見開いた大きな双眼である。左右にやや離れがちのそれは、まぶたがないようにも窺えた。まるで魚類の目のようだ。

「インスマス? 深きもの?」蒼依が眉を寄せた。「この人って、ショゴスっていう怪物を使役する半漁人だったりするの?」

 とたんに仁賀が瑠奈を見た。

「ごめんなさい。尾崎さんの許可は得ました」

 瑠奈が釈明すると、木島が仁賀に向かって口を開いた。

「大場隊長も認めている。問題はない」

「そうでしたか」

 納得した様子の仁賀は「処理班に連絡します」と木島に告げて立ち上がると、ボディバッグからスマートフォンを取り出した。そして通路の奥に進み、スマートフォンに向かって小声で話し始める。

「特機隊や輝世会では」木島は瑠奈と蒼依とを交互に見やった。「こいつのようにまだ人間に近い個体を、ナリカケ、と呼んでいる。なりかけの深きもの、という意味だ」

「人間が半漁人に変わっちゃう、っていうことですか?」

 蒼依のその問いに、瑠奈が代わって答える。

「そう。半漁人……深きものの血を受け継いだ人間は、成長するとともにインスマス面と呼ばれる魚っぽい顔になっていき、やがて完全な水棲種族の姿へと変貌してしまう」

「深きものとかナリカケって、たくさんいるの?」

「うん。世界中に潜んでいる」

 瑠奈の応えを受けて、蒼依は驚愕の色を浮かべた。

「じゃあ、ショゴスもたくさんいるの?」

「たぶん」

 その辺の事情を把握していない瑠奈は、助言を求めるべく木島に視線を流した。

「つまり、無貌教以外にも恐ろしいやつらがいくらでも存在する、ということだ」

 言って立ち上がった木島の元に、スマートフォンをボディバッグに収めながら仁賀が戻ってきた。

「あとに十分程度で到着するそうです。おれは見張っています」

「頼む」と木島が頷くと、仁賀は倉庫の角まで戻り、そこから通りの様子を窺った。

「処理班が来るんですよね? そんなに早く?」

 尋ねた瑠奈に向かって、木島は肩をすくめる。

「いわき市内にも彼らの分駐所がある。その場所ばかりは、言えないがね」

 思えば、神津山市内にあるはずの処理班分駐所の場所も、瑠奈は知らなかった。

「でも処理班って、輝世会ではなくて特機隊なんでしょう?」

 蒼依が木島に向かって問うた。

「そうさ。後方支援的な立ち位置だけど、輝世会とは違う」

「おばさん……神宮司会長でも処理班のことはよくはわからないみたいだし」

「つまり、君たちに話せることは限られている、ということだ」

「はい」

 悄然と答えた蒼依は、木島と仰向けの男から目を逸らしてうつむいた。おそらくは特機隊の内情を知りたかったのだろう。

 瑠奈は蒼依を横目で一顧し、インスマス面の男を見下ろした。この生臭さが蒼依を手の届かないどこかへ連れ去ってしまうような気がしてならなかった。


 狭い通路を塞ぐようにして一台の白いミニバンが停車したのは、それから十五分ほど経過したときだった。降りてきたのは、運転手を含め、五人の男だった。全員が灰白色の作業帽と作業着を身に着けている。瑠奈が初めて見るユニホームカラーだが、目立たぬように昼夜で色を替えている、という話は恵美から聞いたことがあった。

 五人の処理班のうち二人は仁賀に代わって見張りに立ち、あとの三人がランニングウェア男の脱力しきった体をミニバン内に運び入れた。

 木島と処理班のリーダーらしき男が何やら小声で一分ほど話し合い、そして処理班員たちがぞろぞろとミニバンに乗り込んだ。リーダーらしき男が最後尾の席に乗り込んだところで、ミニバンは走り出す。

 走り去るミニバンを見送る木島と仁賀の背後で、蒼依が瑠奈に肩を寄せた。

「今日はもう帰るようなのかな? この人たちと一緒に」

 蒼依は瑠奈の耳元で囁いた。

「そうだよ」と言って木島が振り向いた。

 尋ねた蒼依だけでなく、瑠奈までもが背筋を伸ばして固まった。

 遅れて振り向いた仁賀が、木島を横目で見て苦笑する。

「申し訳ないが、残りの予定は諦めてくれ」木島は瑠奈と蒼依を見たまま言う。「会長は、君たちがたまには羽を伸ばせるように、と配慮したようだが、おれたちは君たちの安全を確保しなければならない。神津山市内でも決して安全とは言えないのに、まして茨城県の外だろう。それでも、君たちに何かあれば特機隊がすぐに駆けつけなければならない。だからおれたちは君たち二人を警護していたんだ。泰輝くんにすべてを任せるわけにはいかないんだよ。現に泰輝くんはどこかへ遊びに行ってしまった」

「あたしたちが狙われる理由って、なんですか?」

 蒼依が木島に向かって尋ねた。

「相手が無貌教なら、君たちを人質に取って召喚球しょうかんきゅうを要求してくるだろうが、さっきのあいつはナリカケだ。何が目的なのかは、今のところ、わからない。もっとも、召喚球が目的ではないとは言えなくもないがな」

 答えた木島が、肩をすくめてため息をついた。

 山野辺士郎事件で無貌教に奪われた召喚球は、事件の終焉とともに特機隊によって確保された。以後は、それまでどおりに神宮司邸の地下で厳重に保管されている。

「高三土山の祭壇石は撤去されました。無貌教でもナリカケでも、召喚球を手に入れても儀式をおこなえないはずです」

 瑠奈は訴えた。

「楽観視すぎだな」木島は言った。「祭壇石は高三土山にあったものだけじゃない。それに召喚球は、別の使い道があるかもしれない。そんな懸念があるからこそ、神宮司家で管理しているんじゃないか。それに、君たちが狙われる理由として考えられることが、もう一つある」

「わたしたちが見鬼だから?」

 応じたのは蒼依だった。

「そう。しかも女性の見鬼だ。兵士としての幼生を産むことができる。その生態を欲するやつらは無貌教だけではないはずだ」

 木島の言葉は屈辱的だった。打ちのめされた気分を抑えて瑠奈は問い返す。

「じゃあ、わたしたちは自由に出かけることもできない、ということですか?」

「特機隊の警護あれば、今日みたいに出かけられるさ」

 木島は諭すが、瑠奈は首を横に振る。

「そうじゃなくて……」

 警護を不要として好きなときに好きなところへ出かけたい――それはもちろんだが、誰の助けもなしに自立するという夢を現実のものにしたいのだ。このままでは、四六時中警護される生涯を送ることになりかねない。三週間ほど前、瑠奈の将来の夢を聞いた真紀は複雑な表情で認めてはくれたが、こういった懸念を抱いていたのかもしれない。

 ふと、バニラのにおいが漂った。

 蒼依と特機隊の二人が周囲を見回すが、瑠奈はうつむき、唇を嚙み締めた。

「たいくん、また近くに来たみたいだね」

 蒼依のその言葉を受けて、瑠奈は目だけを狭い通路にさまよわせるが、泰輝の姿をとらえることはできなかった。

「瑠奈、大丈夫?」

 蒼依が小声で尋ねた。

「うん」と曖昧に頷いて、瑠奈は口を閉じた。

「近くの駐車場に車を止めてある」木島が言った。「さあ、行こう。泰輝くんは勝手についてくるだろう」

 通りのほうへときびすを返した二人の特機隊に続いて、瑠奈と蒼依は歩き出した。


 仁賀の運転する二号車は一時間ほどで神宮司邸に到着した。車から降りて蒼依と別れた瑠奈は、すぐに真紀を本宅の応接室に呼び出し、数時間前の事件を伝えたうえで、以後も邪教徒に脅かされ続けるのか、そして特機隊に警護され続けるのか、それを問いただした。

「自立して泰輝という大きな守りから距離を置くのであれば、特機隊に守ってもらうことになるかもしれないわね」

 本宅の応接室で瑠奈と向かい合わせにソファにかけている真紀が、そう告げた。真紀は全洋物産株式会社の水戸支社での会議から戻ったばかりらしく、スカートスーツ姿だった。

「お母さんはその可能性を考慮していたんだね?」

 まだ自室に戻っていない瑠奈は、ショルダーバッグを膝の上に載せていた。そのベルトを思わず両手で握りしめてしまう。

「そうね」と真紀は静かな声で答えた。

「一人暮らしをしているところを陰で警護されるなんて、守られるというより、監視されているっていう感じがする。つまりわたしは、起きていても寝ていても、ずっと見張られていることになるんだよ」

 気づけば口調が険しくなっていた。警護つきでは、行動が自由にできても精神は束縛されたようなものだ。

「今のわたしたちはすでに特機隊に警護されているでしょう」真紀は言った。「今日だって、わたしは仕事の行き帰りに特機隊の車で送ってもらったわ。運転してくれた池谷さんが、支社の駐車場でずっと待機していてくれた。それに今年からは、お盆のお墓参りはうちのだけじゃなくて空閑さんのところも行くけれど、そのどちらも特機隊の警護つきになるはずよ」

 空閑家の墓には蒼依の父である行人いくとも埋葬されているが、行方不明扱いの隼人はそこにいない。蒼依と真紀が話し合って決めたことではあるが、隼人へのそんな扱いは、瑠奈だけでなく、その対処を提案した蒼依本人の心にも暗い影を落としていた。

「あなたやわたしが安全に生活できるのも、特機隊のおかげなのよ」

 そう付け加えて、真紀は瑠奈を見つめた。

「それはわかるよ。わかるけれど……」

 言いさして、瑠奈はうなだれた。本当の自由はいつになったら得られるのか――それを尋ねたかったが、口にできなかった。

「会議が終わった直後の大場さんからの電話には驚いたわ。相手は無貌教の信者ではなかったけれど、今後もこういった事態はあると思うの。だからこそ特機隊との情報の共有は、可能な範囲でこれからも続く。特機隊とは切っても切れない関係、ということよ」

 真紀は目を細めて言った。

 納得はいかないが、瑠奈はとりあえず頷いた。

「うん……」

「あとね」真紀は続けた。「明日、蒼依ちゃんの診察の日だけれど、先生にはうちに来てもらうことにするわ」

「往診っていうこと?」

「そうよ。こんなことがあったばかりだもの、外出は控えてほしいの。蒼依ちゃんだけでなく。あなたもよ」

 有無を言わせない表情で告げられ、瑠奈は眉を寄せた。

「将来のことだけでうんざりなのに、すでに自由がないなんて」

「絶対に外出してはいけない、というわけではないのよ。あなたたちの外出にも特機隊の警護をつければいいと思うの」

「だから……」

 それでは自由でないのも同然だ。いくら話しも、平行線をたどるだけだろう。瑠奈は辞去を訴えて立ち上がった。そしてドアノブに手をかけたところでふと思い出し、遅れて立ち上がった真紀に、顔を向ける。

「泰輝は?」

「ちょっと前に帰ってきたわ。自分でパジャマに着替えて、今は寝ている」

「そう」

 都合がよいのは事実だ。今のこの心境で泰輝を相手にするのは無理である。蒼依との談笑さえ不可能だ。もっとも、帰路は瑠奈と同様に寡黙だった蒼依も、意気消沈したに違いない。彼女のほうもしばらくは一人にしておいたほうがよいだろう。


 八月に入って最初の金曜日。その朝、彩愛は「残業になる」と言って出勤した。盆休みを前にして追い込みに入っているらしい。

 彩愛が出かけてまだ十分と経過していない。今日一日をいかに過ごすか、梨夢は考えあぐんだ。夏休みに入って以来、彩愛に近場のドライブに連れ出してもらった以外は、外出らしい外出をしていない。同級生に出くわすのを避けたいのは事実だが、夏休みで浮かれている小中高生らを見かけること自体が疎ましいのだ。

 ここ数日は時間さえあれば勉強にいそしんでいた。地方の大学としてはレベルの高い神津山大学に合格して同級生たちの鼻を明かしたいのである。そんなもくろみはあるものの、実のところ、神津山大学は徒歩で通える距離にあり、それが一番の志望理由ではあった。

 とはいえ、この日の梨夢は妙に落ち着かず、学習意欲が湧かなかった。近場のドライブに出かけたときに受けたあの衝撃ほどではないが、得体の知れない何かを感じるのだ。その気配は西のほうに感じられた。ただ西のほう――というだけで、具体的な位置は定かでない。

 不安を助長する要因はほかにもあった。ドライブに出かけた日以来、視力が良好のままなのだ。当然、眼鏡はかけておらず、コンタクトレンズも使っていない。一時的な回復ではないようだが、原因がわからないのだから、早いうちに眼科で看てもらうべきだろう。

 鬱屈を紛らすために、梨夢は一階のリビングに入り、ソファに腰を下ろしてテレビを点けた。テレビ通販の番組を見入っているうちに、いつの間にか、得体の知れない何かの気配が弱くなっていた。

 気づけば午前十時を回っていた。

 鎮まりかけていた感覚が、不意に高まった。先ほどよりもはっきりとした感覚だ。意思を持つ何かが自分自身の存在を誇示している。それは梨夢にとって決して心地よいものではないが、無視することはとてもできない。同級生に出くわそうとも、どうあってもそれを確かめたい――そんな思いで心中が満たされた。

 テレビを消した梨夢は、自室に戻ると部屋着からTシャツにジーンズという組み合わせに着替えた。スマートフォンや財布などを小さなリュックに詰め込み、それを肩に提げて玄関を出た。

 通りへと出た梨夢は、最寄りのバス停留所に立った。車の往来はそれなりに多いが、人通りはなかった。停留所に立つ者に至っては、梨夢だけである。

 時刻表を見ると、西の山間部、小能このう地区へと向かうバスが間もなく差しかかることがわかった。梨夢は小能という土地に行ったことがない。また、得体の知れない何かの居場所が小能だとは断定できないのも事実だ。気配の源がどれほどの距離を隔てているのかは不明だが、バスで移動すれば、仮にその気配の発生源が近距離であったとしても、途中下車すればよいだけである。

 三分と待たずに坂萩駅方面から一台のバスがやってきた。方向幕には「小能」とある。

 停車したバスに、梨夢は迷わず乗車した。

 乗客数は座席数の半分もなかった。

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