Episode FOURTY-FIVE 《何度だって、何度だって》


 10 何度だって、何度だって。


 気づけば——いや、何度目だ?


「……あ、ああ」


 数えることはもうやめた。

 あの瞬間が脳裏をよぎる。彼女の、家族の頭が飛ぶ瞬間。万と及ぶ世界で一番の景色がそれだった。今までの意気込みも、それまでの努力も。彼女の言葉でさえも、一ミリも思い出せない。考えることを放棄して、考えることを捨てて、彼はまた虚空を進んでいた。


 抱きついた感触も今や知らない。


 口調も姿も、そして何もかも思い出せない。


 彼がまた、彼女たちを殺した。


 痛みなんて、悲しみなんて、辛さだって。何も、何もかも感じていない。


 感じることも放棄していた。


 そして、彼女たちがいなくなった。


 また目を覚まして、いなくなって、また起き上がって壊されて。真夜中の裏路地を走っていた。


「っ」

「クロ君!」

「お兄ちゃん!」


 後ろには二人、そしてその奥には真っ黒なコートに身を包めた暗殺者が徐々に迫ってくる。


 前を行くクロは曲がりくねった右腕を後方に向けて、引き金を引いた。


 雨に濡れた9mmの鉛弾は粘性抵抗を受けて徐々に右側に反れてゆく。それをすんなりと交わし、暗殺者は圧倒的な速度で三人の元へ迫っていく。連続にして撃ち込んだ弾丸もぐにゃりと曲げられて、何をしても暗殺者との距離は遠くはならなった。


「いい加減にっ」


 余裕などなかった、銃撃を繰り返してもいなくならないその男はたったの一言で、彼らの歩みを止めてしまう。


「なあ、これ。何回目なんだ?」


 走りながらも暗殺者は言った。その台詞に彼の脚は硬直していく。その不思議さに疑問も、質問も、その何もかもが停止する。

 


 一体、なんでこいつが知っている?



「知ってるぞ、お前の心境。俺はこんな人間に成り上がったのか?」


 彼はつまり、僕だった。正真正銘、あの頃の性格を残したままの声色で当時の僕の言葉だった。


「今なんて言った?」

「お前、いや俺か。こんなに話をするのは久しぶりだな、それにゆりも元気そうで何よりだ」

「く、ろくん?」

「お、にぃ……なんで、おにいちゃんが、ふたり⁉」


 二人の髪は滴り、服装はぐちゃぐちゃになっている。びりびりに破けた足元に、ただれた皮膚はめくれあがっていた。


「なぜだ、俺はなんでここにいる?」

「考える通りだよ」

「傑作だな、お前の任務は知っているのか?」


 知っている。なんて言いたいことだ。

 しかし、もはや彼はそんなことさえも覚えてはいなかった。


「なあ、なぜ、お前は、いや僕は、ゆりと幸を殺すんだ? 答えてくれよ、もう、間違えた僕が間違える前の僕にこれを聞きたかったんだよ、もう……嫌なんだよ‼‼ 僕は、何度も何度もやってしまっていたんだ、殺すなんてもう嫌だ、こんなつらいの、もう嫌なんだ! 怖い、怖い、怖い。感覚がない? 違う、そうじゃないっ怖くて怖くて目を逸らしてただけだ! 嫌なだけだったんだ、どうせ、どうせ、また同じ結果なんだろう? でも次があるから頑張ろうって思ってきたけど、もう無理だ、いい加減、もう辛い! やめてもいいのか、どうなんだ? お前が、僕がやめてくれれば終わるんだ、そうだ、だからやめてくr


「黙れ、俺」


「な?」

「自分勝手が過ぎるな、その言い方。俺はそんなにも腰抜けだったのか?」

「こ、しぬけ?」

「ああ、そうだよ。お前は一度たりとも殺した人間のことを考えたことはないのか、基本中の基本、罪を持たない人間を無感情で殺して生きてきたのか?」


 訂正しよう。彼は、何も昔の自分ではなかった。考え方も、よく見れば顔立ちも違っていた。まず、その証拠に彼はこう言った。


「お前は何度、家族を殺したんだ?」


 家族を殺した? 一体、どこで誰がそんなことをしたのかが分からない。自分が殺めたのはたった一回。最初の世界である。それでも、目の前に立っている自分はこう述べた。


「なん、ど?」

「ああ、お前は何度、ゆりと幸を殺したんだ?」


 曲がっていないその表情に彼はまっすぐ立つことも出来なかった。


「ねえ……クロ君? いったいどういう、こと?」


 ゆりの唇はあの瞬間のように震えていた。思い出したくもない最初の世界が脳裏をよぎり、


「お兄ちゃんって、なに? ふたり、もいる。殺した? 家族を殺したって、なに? お兄ちゃん、お兄ちゃん、どういうことっ⁉」


 それに合わせて、幸の言葉も疑問の嵐だった。


「ほら、君は、分かっていない……」

「……は?」


 無意識にもほどがあった。指摘の意味が理解できない。


「クロくんっ、クロくん! なに、いったいなに⁉」


 だが、その時、クロは不思議にも気が付いた。

 あの日記、最後の一ページのあの言葉。



 これを見た瞬間から、何か違和感を感じ取っていたのは確かだった。他の世界の私。それは一体どういことなのか? そして、今隣にいる彼女は自分の正体について知っているはずなのに、この世界のゆりは状況を理解していない。

 そこに、矛盾が生じている。


「いったいなに、か? 俺は知っているはずだ、ゆりが正体に感づいているということに」

「っな⁉」

「でも、なぜか、たどり着いた世界の彼女は——そのことを知らない」


 見透かされていた。手のひらを合わせて手をつなぐように繊細に、そして何よりも鮮明に。彼は自分の、自分を、手に取るように分かっていた。


「だ、から、なんだ」

「っくく、言っていることが分からないのか?」

「くろくん……?」

「お兄ちゃん……?」



 思いを爆ぜた刹那、彼の目の前で結ばれた解答。

 それに気づいた瞬間、彼は絶望の淵に立つこととなる。



「あ、ああ、あああ、なんだ、どういうことだ、なぜなぜ、なぜ、なんで、いや違う、違う絶対に違う、違う違う違う違う違う違う違う‼‼‼‼」


 一歩進むとぐちゃりと音がした。


「ゆ、ゆり、あ、ああ、だめ、ちがうんだ、そうじゃないんだ、なんが、なにが、違う、ちが」


 二歩進むと乾いた音が聞こえた。


「ああ、ぁ、もう、痛い、いやあだ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……違う、嫌だ」


 三歩進むと鋭い音が聞こえた。


「ああ、あああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ‼‼‼‼‼‼‼」


 四歩目からは何も聞こえなくて、一つだけ見えてしまった。

 目の前に広がる彼女の、無神ゆりの死体の山。血しぶきが吹き荒れて、臓物が飛び散って、ぐちゃぐちゃに曲がった彼女たちがその世界で、積み上げられていた。


「……お前は、一万回も家族を殺したんだよ」

「うるさい」

「ここは、過去でも何でもないんだよ」

「だまれ」

「ここは、平行パラレル世界ワールドだ」


 常識のことだ。これがタイムマシンのパラドックス。タイムマシンが叶わない理由である。歴史的名作映画と同じようになるはずがない、過去に戻ったとて起きてしまったことがなきものになるはずがない。彼はルートAを進んできたつもりで、ルートBの世界に来ていたのだ。


 だからこそ、つまり、それが故に。


 彼は、無神クロという一人の暗殺者は、一万六十三人の家族、無神ゆりを犠牲にしたということだった。



 理解した瞬間、彼は壊れた。内側から、感情の器が砕け、暴走が始まった。

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