第伍章「任務と責務」
第伍章 1「君と僕」
第伍章「任務と責務」
1 君と僕
あの日の夜、今回の任務の報告を終えた後、彼は一通の電話を受け取った。
『お兄ちゃん‼‼ お姉ちゃんがっ‼』
相手は義妹の無神(むがみ)幸(さち)、悲痛の叫びの電話であった。
そんな義妹の叫びを聞いたクロは「PARALLEL」を後にし、全力で搬送先の第二札幌医療大学付属病院に向かった。自分自身、任務のことで頭がいっぱいであったため、学校へ残してきた彼女のことはあまり考えていなかった。もしかしたら、という絶望的な出来事がないように祈りつつ、彼は全力疾走で駆けていく。
病院に到着し、受付を済ませ、彼女がいる6階の病室へ。
表札にはしっかりと「無神ゆり」といった文字が書いてあり、胸が少しだけ痛くなる。一度、深呼吸し気を保とうとして、常に人を殺してきた彼にとっても家族は例外だった。自分と苦楽を共にしてきたゆりには未だ果たせていないお礼がある。ましては、自分の守るべき大切な人間の一人、地球と彼女がそこにあるなら、彼は迷うことなく後者を選ぶだろう。
コンコンコンっとノックを三回。
すると、どうぞという優しい声が聞こえ、ゆっくりと扉を開く。
「し!」
クロが病室に入るや否や、そこには人差し指を口元に近づけている彼女が微笑みながら座っていた。月夜に照らされ、影がベットの下へ伸びている。水色の入院服を着ていても美しさが際立っている。
そんな彼女の膝元にはうつぶせになり手を握りながら気持ちよさそうに寝ている幸がいた
彼女のぬくもりを感じ、ベットに伏せる彼女の顔はどこか気の抜けた猫の様な感じだった。かわいい。どうやら、電話で受け取った叫びはどこにも感じられないほどに消え去っている。元気そうな二人の姿に安心し、クロはゆっくりと声を掛けて。
「大丈夫?」
「うん」
ニコッとはにかんだ笑顔と、こっちに来てというジェスチャーを見せる。彼も応じて、手前の椅子に腰かけた。
「なんか、ごめんね」
「いやいや、俺もなんか、勝手に……」
「まあ、元気だったからよかったよ」
「どうしたの? 怪我とかしちゃった?」
「いやあ、なんかね。その、クロ君あの後飛び出しちゃったしょ? 私も追いかけようとしたんだけど、途中で急に苦しくなっちゃってね」
「あ、うん」
「いつの間にか救急車に乗っていて、運ばれちゃったの。心配かけてごめんね」
「いや、俺のせいで苦しませちゃったし、なんか……」
「いいの、私もなんかあったんじゃないかって心配したけど、クロ君のことだから、バイとかなんかでしょ? いつもありがとう、私たちのために働いてくれて」
「まあ、うん」
優しく微笑む彼女は天使のように、女神のように美しかった。いつも彼や幸を見守ってくれている母親のような存在。同い年なのに母性が溢れている。母親の顔も、父親の顔も知らないクロにとってはもの凄い心の支えになっている大切な人間である。
「あのさ、見て、月」
ふと窓の外を見上げて指さす彼女。
その対極には半月、上弦の月がこちらを向いていた。
「綺麗だね」
「うん、なんか懐かしいね」
「ん?」
「クロ君は覚えてないかもしれないけど、昔、二人で夜に洞爺湖行ったんだよ。そこでいっぱいお話して、真っ暗い星空見てさ、あの時のクロ君はまだ言葉覚えていなかったから、私がい一方的だったけどね」
うん、と頷くクロにはその記憶はなかった。何より言葉も彼女との思い出も、少しだけ塗り替えられていた。薄っすらとだけ覚えているのか、もしくは完璧に忘れているのか? そんな境目の記憶を撫でる彼女の言葉に自然とこくんと頭を下げる。
「その時見た空には劣るけど、この半月もとっても美しい」
「月がきれい」
「そうですね、死んでもいいくらい」
他愛もない掛け合いをして、目を合わせて笑い合う。
こんなにも美を感じさせてくれる人は他にはいない。優美に華麗に可憐な少女。もはや少女ではなく、姉のような、母親のような素晴らしい女性が無神ゆりなのだ。
「なんか、先生によれば、ただ気を失っただけっぽいからすぐ退院できるって。明日か、明後日くらいかな? ごめんね、明日学校ひとりで行ける?」
「なんだよ、行けるよ」
「ならよろしい、幸は学校がお休みらしいから明日も来てもらうね」
「うん、じゃあゆっくり寝てよ」
「了解! 退院出来たら電話するね!」
短い面接時間も終わり、彼女は幸の背中を揺らす。
「ん、ぅぅ、っと、ひゃにぃ?」
「もう帰る時間だよ」
「ひぇ……あ! お兄ちゃん‼」
どうにか目を覚ましたようで、ぱちぱちさせて一気に立ち上がった。
「私、寝てた! うう、お姉ちゃんと思っと話したかったぁ」
「明日また話せるでしょー」
「でもぉ!」
「はいはい、もう寝る時間なの、幸も早く寝るっ」
「むー」
「むーじゃないよー」
この家族の時間というものは、なぜ美しいのだろう? 彼は思った。
「じゃあクロ君、幸を頼むね」
「ああ」
「ちょっと」
すると、彼女亜が手招きをする。
それに応じて、クロもゆっくり近づいていくと、ガバッ‼‼‼
と、視界が急に真っ暗になっていた。顔に当たるふわふわのお餅のような感覚。どうやら胸に沈められているようだ。気持ちよさと同時にあらゆる高揚感さえ溢れているのが分かる。その大きな胸は彼女を象徴するかのようにそこに存在している。
「頑張ってね」
吐息交じりの彼女の声が耳に直接迷い込む。ゾクゾクとしたくすぐったさに気を保ちながら、横から壮絶な打撃が一発。
「がああ!」
「やだ! 幸も!」
「はいはい」
義妹のかまってちゃんには二人も苦労しているようだ。
幸も思いっきり胸に沈めて、囁いた後、嬉しそうな表情をしてクロの手を握る。
「じゃあ」
「ばいばい!」
「うん、また明日」
そう手を振り合ってその病室を後にした。
扉が閉まる直前に見せた、安堵と逡巡の表情。
その意味を彼はまだ知る由もなかった。
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