第弍章 7「クロと学園祭」

7「クロと学園祭」


 放課後、クロが学校を後にしようとすると、こんな言葉が付きつけられる。


「ねえ、クロ君。今日の学祭準備、覚えてる?」


 沈黙した。

 そして、クロは考える。

 義妹思いの17歳のお兄さんはその場で数秒間真剣に考えた。

 思い出を、記憶を、脳みそを、貪るように掻きむしってひねり出そうとして、あがいた答えはこうだった。


「え、学祭だっけ?」


 唖然である。

 むしろ、クロのお姉さんのゆりでさえ、固まるように苦笑いを浮かべていた。


「え、え?」


 一つの言葉に教室中が止まりだす。

 むしろそれを目の前で聞いていた清楚系委員長は怒りを隠せなかった。


「ねえ、クロ君」


「ん」


「ちょっと、こっち」


 そのまま首根っこを掴まれて退場、教室の前扉から消えていく。今回ばかりは何も言えないゆりはそのまま作業を続けていた。


 昨日の帰り、この清楚系委員長は皆の前でこう言ったのだ。


『今日の学祭準備はなしで、明日から本番の日までずっとあるからね。忘れないように』


 これを言ったときにはクロはクラスにいたのだ。

 それも清楚系委員長は見ていた。彼女自身の目で見たのだ。彼が禁忌を犯していたその姿を、だ。その瞬間、彼は机に突っ伏して寝ていた。さらには、帰りの挨拶が終わればすぐに帰って行ったのだ


 なんだと思うか?


 学際準備をサボる行動、現世に生きる真面目な高校生としては禁忌である。これが高校三年生ならまだ、仕方ない。勉強に生き、勉強で終わるその一年の人生。ましては浪人生になればもっと続くことだってあるだろう。


 ただ、彼のおかれている状況は違う。


 彼は、皆から見えている側面から見れば、ただの無口な高校二年生なのである。


「あの、月詠」


「なぁに?」


「いや、何で怒っているの?」



「それも、いや………分からないの?」


 予想以上に低くて、ドスの効いた黒一色の声だった。委員長たる所以か、彼女自身の思いがあるのか、学祭を控える者にしか分からない学生たる思いの塊である。


「いや、そこまで、怒らなくてもいいのかなと」


「あんな態度をとって、そんなこと言えるのかな、君は?」


「いや、別に」


「そうだよね、分かってるじゃないの?」


 現在進行形で、子猫のように引きずられる黒猫さんは首をかしげて言う。


「え、態度って何?」


「っ!?」


 まずそこから? という言葉が大きすぎて逆に口から言葉にできなかった。


「俺そんなに悪いことしたっけ? 身に覚えが……」


「クロ君、正気なの?」


「いやあ、だって、ね……まあ今日が学祭準備なのは覚えてなかったのは悪いと思うけど、そんなことしたっけな?」


「もう、いいわ」


 折れたのは黒猫の方ではなく、その猫の首元を掴む親猫の方だった。


 首にかかる全体重がストンっと一気に地面へ叩きつけられる――寸前で両腕を地に着けてギリギリ、間一髪でぶつけることはなかった。


「え、なんだよ月詠?」


「いや、もういいわ」


 呆れながらに吐き捨てる彼女、クロから見ても異質なものだった。さっきまで自分に怒りを表している委員長が急に態度を変えたのだ。怒りが一瞬にして消えていくその様には理由をつけられなかった。


「ちょ、待てよ」


「っキィ⁉」


 モノマネ、もう古すぎる。じゃなくて、ウザかった。怒っている時にそのモノマネはさすがに怒りを彷彿させるだろう。


「ねえ、やっぱり」


 今度は先ほどよりも固く、そして強く、首元をガッチリ掴まれて、おままごとならぬねこまごとが再開した。


「いや、なんでだよー、ちょ、マテヨー


「クロ君、いい加減にしないとさすがの私も怒っちゃうよ」


「え、その、ごめん」


 ようやく状況を理解できたのか、親猫に掴まれた黒猫は沈黙した。




 30分後、二人が戻ってくる。


すっきりした顔の清楚系委員長の月詠咲と、無表情で俯く無神クロ。


「あ、クロ君……」


「ゆり」


 小さな言葉が漏れる。その姿を見て悟ったゆりは優しく、笑ってこう言った。


「ちゃあんと、お話は聞こうね?」


 それは、最も信頼を寄せる人間に裏切られた瞬間であった。



 一時間、もはや地獄の労働時間。


 いくら、ゆりと一緒に作業ができるとは言っても、学校祭への興味など微塵もないクロにとってはただの苦痛の時間だった。さらに、先ほどの委員長からのありがたきお言葉。もう最強に最高な仕打ちの連続である。


「クロ君、元気ないね」


「……わかるだろ」


 もちろんゆりだって分かっている。でも、言いたいところはそのことについての励ましでも注意でもなく、違う視点からの一言である。


「いや、なんでクロ君ってそんなに、非協力的なの?」


「え?」


 どちらからしても言いたくもなく、聞きたくもないフレーズだった。


 確かに、非協力的ではある。それに、彼自身、暗殺者という秘密がある。これを守り通さないといけないし、昨日だって、幸とのデートの後は会議のために「PARALLEL」に向かっている。仕事との両立を彼なりに頑張って行っている。いやいやではあったけど、約束はしっかり守りたいクロは小さな義妹との約束でさえ守るのだ。


 あの日、ゆりが、自分の帰りを心配して泣き寄ってきた日。自分でも彼女の行為が何を意味するか、正直理解ができていたわけではなかった。でも、よく分からなくても、複雑な気持ちの中、優しく包み込んであげていた。分からなくても、ちゃんとしようと思うその気持ちは、十数年に亘るゆりとの共同生活で養えたものなのだろう。


 しかし、今回は違った。


 というより、人生の中で、彼女の前で。


 クロ自身、自分では分かった気でいたのかもしれない。自分は良いことをしていると、ちゃんとしているのだと、自分で判断していたのかもしれない。


「え、ってクロ君いつも何も言わずにどこか行っちゃうじゃん」


 そうだった。


「え、でも」


「まあ、クロ君って結構ぬけてるとこあるけどさ……でも、クラスで頑張る時くらいはさ、協力して頑張ろうよ、だって、君には、思いやりがあるしょ……?」


 思わず黙っていた。


「そういうところもね」


 だんまりの彼に彼女は言ったのだ、私は信じているよ、と。


 十数年ともにして、異変が露出するのはおかしいことではない。夫婦がお互いのことを知るように、ゆりもクロのことを知っていくのだ。


 何かを隠すクロに対する気持ちを抑えて、彼女はそう言ったのだった。





 学校祭まで残り三日。


 豊平東高校の学校祭、通称「豊(ほう)東祭(とうさい)」は例年9月に行われる、生徒には待ちきれない楽しい三日間お祭り騒ぎの行事である。


 全学年が入り乱れる開会式に、クラス発表ではお化け屋敷に縁日、屋台などを出して売り上げを競ったりもするのだ。またその他にも、二日目にはクラス対抗リレーや部活動での出し物など、三日目はバンドライブに後夜祭と企画がたくさんあり、学校以外の人も入って遊べるお祭りなのだ。


 そんなお祭りが残り数日で始まる中、クロのクラスではハプニングが起こっていた。



 昨日には到着するはずの食品が届いていないのである。



 クロのクラスではパフェを提供する屋台を開く予定でいたが、一番重要ともいえる生クリームが届いていないのだ。これがなければパフェの花になるものがない。主役を飾るわき役的な存在である。


「ねえ、やばくない?」


「ほんと、なんで来てないのよ!」


「やべえってこれ、俺たち何を出すことになるんだよ!?」



 クラスには混乱の波が広がっていた。ここまでの歩みは順調だったはずなのだ。それももちろん、屋台の外側を囲う段ボールの装飾や、調理班の練習も十分なものであった。そこでのハプニング、たとえ小さなハプニングでも、このクラスにとっては大きな混乱を招くこともある。


「まて、みんな!」


 そこで響いたのは、その女の声であった。


「一旦落ち着け! 私たちの準備はもうほとんど終わっているはずだ! たまたま今日に生クリームが届いていないだけ、ここで絶望するのはあまりにも早すぎるとは思わないか! 私はそう思う! ここはできることだけやっていこうと思うのだが、いいか? みんな‼」


 まるで戦場にいる弱気な兵士たちでも鼓舞するかのような口調で言う女戦士はやはり、このクラスをまとめる委員長であった。黒髪をなびかせて、真面目の象徴である眼鏡をかけて。かっこよさとはこういうことなのだろう。


「そうだ、今決めよう! 調理班の6人は生クリームが来たらすぐに教えてくれ、確認ができ次第保管用の冷蔵庫まで運ぶように! その他の手の余った班員は、会場設営に、そして看板つくりや、ポスターつくりに専念してほしい、分かったか! 野郎ども‼」


 もはやキャラ崩壊ではあるが、その威勢のよさに触発された男子が数名、


「そうだな、分かったぜ!」

「おう、委員長のなすがままに‼‼」

「委員長こそ、我がリーダーよ!」


 キャラ崩壊などそっちのけで、今度は逆の効果。いい感じの波がクラスを包み込んでいった。早い、あまりにも早く、我らが清楚系委員長月詠咲はこんな人間であったかのか、と考えてしまう結果が生まれていくのだった。

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