シベリアとアジフライ

大竹久和

プロローグ


プロローグ



 兵舎の壁沿いに並んだ固い木製の寝台の上で、俺は不意に眼を覚ました。薄っぺらい毛布に包まれた半身を起こして周囲を見渡せば、カンテラの灯が落とされた舎内は暗く、同じ作業大隊に所属する二百名ばかりの捕虜達のいびきと歯軋りの音だけが耳に届く。同じ寝台の右隣では矢三郎が、左隣では飯塚一等兵が互いの身を寄せ合いながらすうすうと静かな寝息を立てており、どうやら起きているのは俺一人だけだと思われた。

「今、何時だ?」

 大口を開けてあくびを漏らしながらそう呟いたものの、腕時計は小隊長以上の将校にしか与えられていないので、正確な現在の時刻は分からない。内地に居た頃に父が買い与えてくれた俺の腕時計は、二年前に満州で捕虜になったばかりの頃にソ連赤軍の兵士に奪い取られたままで、再びこの手に戻って来る可能性はほぼ皆無だろう。

「よっと」

 そのまま寝直しても良かったのだが、なんとなく外の空気が吸いたくなった俺は、のそのそと寝台から這い出した。そして熟睡している他の捕虜達を起こさないように細心の注意を払いつつ軍靴を履くと、左右に連なる寝台に挟まれた通路をゆっくりと歩く。兵舎の中央では、ロシア語で『ペチカ』と呼ばれる暖炉の中で火が焚かれ、ぱちぱちと言う薪が爆ぜる音が心地良い。

 俺は出入り口の扉を開けて、兵舎の外に足を踏み出した。戸外は暗く静かで、見上げた夜空には満天の月と星が仄白く輝いている。そして、どうやら夜更け前に雪が降ったらしく、収容所ラーゲリの営庭にはうっすらと雪化粧が施されていた。

「寒いな……」

 ぶるっと背筋を震わせながらそう呟くと、俺は真っ白な息を吐き出す。外套シューバ防寒帽ウシャンカを身につけずに出て来てしまったので、帝国陸軍から支給された九八式軍衣だけでは肌寒く、秋から冬へと移ろい行く季節の無情さが痩せ細った身に沁みた。内地に居た頃とは比べものにならぬほど、この地の冬は長く厳しい。

「こんな時間じゃ、誰も起きてないよな……」

 そう独り言ちた俺は特に意味も無く、降り積もった雪を踏み締めながら、営庭の中央までとぼとぼと歩み出た。広く暗い営庭にぽつんと一人ぼっちで立っていると、より一層寒さと寂しさが身に沁みる。そしてぐるりと周囲を見遣り、日本軍とドイツ軍の捕虜達が寝起きする兵舎やソ連赤軍の官舎、倉庫に馬の厩舎、それに食堂や病室などの各種の施設の様子を確認しつつ、肩から提げた雑嚢の中から煙草入れとマッチ箱を取り出した。ちなみに丸太小屋の様な構造の兵舎は『ゼムリャンカ』と呼ばれる半地下住居で、冬は寒くて夏は湿気が酷く、雨が降ると風邪をひく者が続出する。そんな状況にもかかわらず、何故ソ連赤軍は建屋の下半分が地下に埋められたゼムリャンカで捕虜達を寝起きさせるのか、その真意は日本人である俺にはよく分からない。

 煙草入れから吸いさしのマホルカ煙草を取り出し、それを口に咥えると、マッチを擦って先端に火を点けた。そのまま息を吸うと、マホルカ煙草特有の臭くてえぐい味が口の中一杯に広がる。内地で吸っていた日本製の煙草とは、まるで違う味だ。

「ふう」

 俺は紫煙をくゆらせながら、広く暗い営庭の中央で、再び周囲を見遣る。ソ連赤軍の将校達が暮らす官舎の隣には屋根つきの車庫が設けられ、そこには資材や人員の運搬用のトラックと並んで、何故か重戦車が一輌だけ駐留していた。また収容所ラーゲリの敷地の四隅には投光器が設置された望楼が聳え立ち、日本軍やドイツ軍の捕虜が脱走しないように、ソ連赤軍の警戒兵カンボーイが常に監視している。勿論、高さ四m余りの板塀と二重の有刺鉄線で囲まれた収容所ラーゲリからの脱走行為を実行に移す者は少なく、この二年間で、片手で数えるほどしか存在しなかった。そしてそれらの実行者の中でも、無事に故郷まで脱走しおおせた者は、俺の知る限り一人もいない。

「今年もまた、ここシベリアの大地に冬将軍が到来した。果たして今年は、どれほどの戦友が死ぬ事になるのだろうか」

 まるで詩でも詠むかのようにそう呟いた俺は、夜空を見上げながらマホルカ煙草の紫煙をくゆらせ続ける。

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