酒浸りの女
ひょもと
酒浸りの女
「もう死んでやる」
郊外の閑静な一角にあるファミレスにおいて、物騒な発言が叫ばれたのは、午後十一時を過ぎたころだったと記憶している。ちょうど、ホールの締め作業がひと段落していたために、ホール担当の三宅さんが「あとお客さん三人だから」と冷蔵庫に寄り掛かっていたからよく覚えていた。
死んでやる、という声は店中に響き渡った。
店内に流れるBGMをかき消さんばかりの叫びであり、他の席のお客さんたちも目を向いて声の主を見ていた。
三宅さんと俺も下らない話を切り上げて、ちょっとホールの方を覗いてみた。
キッチンでハンバーグを焼いていた俺は、どこの誰が声を上げたのか見当がつかなかったが、今日のディナーからずっとホールに出ていた三宅さんは目星がついているらしく、俺に耳打ちしてきた。
「ほら、あの角の席の女の人。ずうっと、ワイン飲んでるんだよねえ。ここファミレスなのに」
道路に面した角の席には、四人掛けを独り占めする妙年の女性の姿があった。髪を振り乱す女性は、酒の飲み過ぎか顔がむくんでいた。しかし、それよりも目を見張ったのは、テーブルの上に乱雑に置かれた空のワイングラスの山である。
ある程度は、三宅さんが片付けているだろうから、それでもなおテーブルにワイングラスが大量に置かれているということは、妙年の女性がどれほど深酒しているか窺えると言うもの。
明らかに飲み過ぎだ。よしんば彼女が名だたる酒豪であったとしても、ファミレスで飲む量ではない。
三宅さんは言う。
「ああやだやだ。あれで吐かれでもしたらたまんないよ。掃除する身にもなってほしいんだけど。ここファミレスだよ」
三宅さんは先ほどから後始末の懸念ばかりを示していたが、事態はここにきてさらに深刻さを増したようだ。
死んでやるなどと、仮に冗談であったとしても穏やかではない。さらに、妙年の女性がファミレスで酒を浴びるように飲んだあとに一人きりで言うのならば、増して不穏だった。なんだか、死んでやるという陳腐な脅し文句が、妙に現実味を帯びていた。
店内に流れる「パッヘルベルのカノン」もいい味を出していた。
俺と三宅さんは、そうっと妙年の女性の動向を窺っていたが、店内に残っていた他二人の客の動きは速かった。妙な事態に巻き込まれまいと、早々に荷物をまとめると我先にと会計に殺到した。三宅さんは、二人の会計に追われることになった。
レジスターへと行く間際に、三宅さんは言った。
「月島君、ようく見張っといてね」
俺は、はあなどという曖昧な返事をしてコック帽を触った。
妙年の女性は、手元のワイングラスをくいっと傾けて赤ワインを飲み干すと、机に突っ伏して動かなくなった。机に倒れ込む拍子に、いくつかのワイングラスが反対側の座席の上に落下したようだった。割れた音がしないから、床には落としていないのだろう。
店内入り口の前でカタカタとレジを打つ音と、三宅さんの声が聞こえる以外には、「カノン」が染み渡るような音量で聞こえてくるだけだった。
寝たのだろうか。
そう思っていると、「カノン」の隙間を縫うようにして、すすり泣く声が聞こえた。
「死んで、死んでやるうぅ」
物騒だった。鬼気迫る感じがあった。
「み、三宅さん。ちょっと、早く戻ってきてください」
声を掛けてみたが、客の一人が財布から小銭を出すのに手間取っていた。三宅さんはまだレジスターの前を離れられないようだった。
冷汗が額を伝う。
嫌な予感がした。
すると、妙年の女性が徐に立ち上がった。よほど酔いが回っているのか、立ち上がることさえやっとの様子だ。女性の体はメトロノーム並にリズムを刻んでいた。
いったい何をするのかと目を凝らしていると、女性は、自身のハンドバックの中に手を突っ込み黒い帯のようなものを取り出した。
長さからして、おそらくチョーカーの類だろう。
彼女はそれを握りしめて一度眼前に掲げ、憎々し気に見つめた。そののち、勢いよく黒いチョーカーを首に巻き付けた。
それが、チョーカーというアクセサリ本来の使い道であるから何ら不思議はない。
しかし、
「あ、あれ? ちょっと、ちょっと! 三宅さん。早く!」
俺は違和感を覚えて三宅さんを呼んだが、客の一人が会計をぴったりそろえようとしているらしく、レジスターの前で鞄をひっくり返していた。三宅さんは俺の方へ顔を向けない。
まさか、いやそんな訳はない。
そう思う。
だって、チョーカーは首に巻き付ける装飾品であるし、長さはほとんどぴったし過不足なく首に巻き付く程度しかないのだ。だから、いくらなんでもそれは。
妙年の女性の顔が、見る見るうちに膨れ上がっていった。
「お客さん、それサイズあってませんから!」
俺は厨房から飛び出し、チョーカーで自分の首を絞め上げる妙年の女性に飛びついた。彼女は、倒れる拍子にチョーカーを手放した。黒いチョーカーはひらひらとしばらく宙を舞ったあとワイングラスの山の上に落下した。
椅子の上に倒れた女性は、中々起き上がらなかった。酔いが回っているのだろう。俺は、兎も角もその場を離れて三宅さんを呼びに戻った。
三宅さんは、ようやく会計を終えてレジスターを締めていた。
「三宅さん。ほら、こっちです」
「どうしたの? 月島くんが大きな声出すなんて、珍しいけど」
「そんな悠長なことを言っている場合ではないですよ。ほら、チョーカー自殺未遂です」
三宅さんは、眉間にしわを寄せて首を曲げた。
「は?」
「まあ、何を言っているのか分からないでしょうけど、ほらこっちです」
三宅さんの手を引いて現場へ戻ると、そこにはいびきを掻いて寝入る妙年の女性の姿があった。床には、割れたワイングラスの破片が散らばっていた。
三宅さんはため息をつきながら、割れたワイングラスの欠片を一つ摘み上げた。
「これ、誰が片付けると思ってんだか」
「まあ、俺も手伝いますよ」
そうして、俺たちはひどい有様のボックス席を片づけ始めた。
一通り片づけが済んだあと、三宅さんは女性の体を起こして椅子に座らせて無遠慮に頬を軽く叩いた。
「ほら、起きてください朝ですよ。ていうか、早く帰ってください」
気さくで気遣いのできる三宅さんが、仮にもお客様に対してこのような態度に出ることは珍しい。しかし、散乱したワイングラスの片付けなどの苦労を鑑みれば、少しやんちゃしても許される気もした。
俺は何も言わずに二人の動向を見守った。
三宅さんの声に応えるようにして、妙年の女性は徐に目を開けた。しかし、意識はまだ混濁しているらしく、唸り声を上げるだけだった。その様子に何を悟ったのか、三宅さんは女性から一寸距離を取ると、厳しい目つきで俺に言った。
「水。早く、水!」
不審火を慌てて消そうとするような鬼気迫る表情だった。俺は言われた通りに、厨房へ戻り、急いで一杯の水を持ってきた。
三宅さんは、女性に何やら声を掛けていた。そして、俺が戻ってきていることに気が付くと、顎で女性の右側を指した。
「トイレまで運ぶから、そっち側持ってもらって良い?」
嫌だった。
しかし、俺以上に三宅さんが嫌そうな顔をしていたから断るわけにもいくまい。
どうにかして二人で女性をトイレまで運ぶと、彼女はそこですぐさま嘔吐した。他人の戻したものなど見たくもないが、便器にぶちまけられた彼女の嘔吐物はほとんどアルコールであるらしく、固形物が見られなかった。
「うおっぷ。あ、後よろしく」
三宅さんは、口を抑えながらトイレから退散した。
「え、ええ。ちょっと待ってくださいよ。こ、こういうのは同性がやるもんじゃないんですか! お、俺には無理です!」
三宅さんの返事はなかった。代わりに便器に顔を突っ込んだ女性がこの世のモノとも思えない音を出して嘔吐を繰り返していた。
女性が一通り吐き終わったあと、俺はトレイの掃除用具入れに押し込まれていたゴム手袋を装着してから、トイレットペーパーを使って女性の顔についた吐しゃ物を拭った。最悪の気分であることは言うまでもない。たかだか九百円ちょっとの時給でこれほどの業務を強いるとは、案外ファミレスもブラック企業ではないか。
怒り心頭であった俺は、すでに女性を女性とも思わず尚且つお客様だという事も忘れて、妙年の女性の両脇に手を突っ込んで立たせると、そのまま半ば引きずるようにしてトイレの外へ出した。
これでひと段落したと思いたいところではあったが、問題はむしろこれからだった。
トレイから戻った女性に水を飲ませると、女性は少しずつ意識を取り戻していった。これでようやく、この悪夢の深夜帯勤務から解放されるかと思ったのも束の間、女性は叫んだ。
「死んでやるう」
これでは堂々巡りだと思った俺と三宅さんは店長、あるいは警察に連絡することを真剣に検討し始めた。しかし、その辺りでさらに意識がはっきりしてきたのか、女性が俺に抱き付いて縋った。
「警察だけは、止めてええ」
「なら、帰ってくださいよ。というか、そ、そ、その状態で抱き付くな!」
「あによう。私はお客様よ、そんな言い方って、ないんじゃないの」
俺は必死になって女性を引き離そうとしたが、女性は意外に腕力があって、腰元をしっかりホールドされてしまい、中々剥がれなかった。
「ひどいい、つらいい、もう死んでやるう」
女性が嗚咽を漏らして泣き出したところで、三宅さんが動いた。
それまで、我関せずというように、女性から一定の距離を保って近づかなかった三宅さんであったが、突如女性に歩み寄った。そうかと思えば、右腕を高く振り上げて、制止、そののち振り下ろして女性の頬をビンタした。
「いい加減になさい。あなた、いい大人が何迷惑かけてるのよ」
きわめて正論であったが、事態はさらに混迷を極めそうな気がして俺は気が遠くなっていった。深夜帯の勤務は、店内の締め作業を並行してやらねばならず、キッチン周りの締め作業はまだまだ半ばなのだ。ああどうしよう。今日、帰れるかなあ。
そんなことをぼんやり考えていると、三宅さんが言った。
「まず、落ち着いて、どうして死にたくなったのか月島君に話してみて。たぶん何とかしてくれるから」
「え!」
「え?」
俺の声と女性の声が重なった。三宅さんは続ける。
「大丈夫、キッチンの締め作業はやっとくから。こっちは、お願いね」
三宅さんは、俺の了解を待たずに厨房の中へと消えていった。
なんて強引な人なんだと思ったついでに、以前三宅さんが言っていたことを思い出した。
私、汚いのと虫だけはだめなの――。
「はあ」
ため息を付いた後に、女性を見下ろすとちょうど目が合った。少しは落ち着いたのか、涙も止まっているようだった。俺は言った。
「取りあえず、離れてもらってもいい?」
女性は素直にうなずくと、椅子に座り直した。
俺は少し迷ったが、女性の前の席に腰かけた。
女性は、水を一杯飲み、食い入るように俺の顔を見つめた。
そして、何度も逡巡する様子を見せた後でようやく女性は切り出した。
「私は、高崎芽衣です」
高崎芽衣、三十三歳独身の行員。
この近くのマンションに一人暮らしをしており、今もそこではペットの玉五郎(金魚)が彼女の帰りを待っているのだということを、彼女は淡々とした口調で語った。
そののち、今日は二年連れ添った彼氏とのデートがあり、予定ではディナーを済ませてから高崎の家にて甘い夜を過ごすはずだったのだという。しかし、その予定は根底からくるってしまった。
「別れるって、言われたのようう」
高崎は泣いた。俺は掛ける言葉もなく、茫然と窓の外を見ていた。
すでに時刻は一時に迫ろうとしている。このファミレスは郊外にあるため、すでにあたりを走る車は見られなかった。
高崎は、件の元カレと結婚を考えていたのだという。今年で三十四になる高崎は、将来的に結婚し子供を産み家庭に入ることを望んでいたらしいのだ。そこにつけて、元カレは、高収入のイケメンであり実に優良物件であったという話であった。
しかし、その元カレは、高崎に厳しい現実を突きつけた。
「別れるって、そう言うのようう」
それはもう聞いた。
高崎はもう一度大きな声で泣き叫んだ。
俺は尚もかける言葉を見つけられずに、結局ため息をつくだけだった。
将来の計画が今日一日ですべてご破算になってしまった高崎は、現実と自分と元カレと職場とマンションと何もかもすべてに絶望しきって死ぬことを決意したのだという事だった。
よし、今日の午前零時にマンションの屋上から飛び降りてやろう、と強い決意をした高崎は、最後の晩餐として近所のファミレスを選んだ。そこで少しばかりアルコールを愉しむことにしたらしい。
しかし、酒を飲むと感情が高ぶってしまい、そうしているうちに飲酒に歯止めが利かなくなって気が付けば泥酔状態に陥り、泣いて喚いて叫ぶしかなかったそうだ。
俺はここまで話を聞いてようやく、感想を述べることが出来た。
「そうなんですか」
以上だった。それ以外の気の利いたコメントはとんと思いつかず、あ今通った車アウディじゃね? こんなとこにも金持ちがいるんだなあ、と思っていた。
「あの、すみません。ちょっと席を外しますね。お水おいとくんで、よかったら飲んでいてください。すぐ戻るので、すみません」
そう言って俺は席を立ち、厨房へと入っていった。
三宅さんは、シンクに水を張ってまな板を漂泊していた。キッチンの締め作業は順調に進んでいるようだった。本来その仕事は俺のすべきことであるから、礼を言うべきなのかもしれないが、複雑な心境だった。
「あの、三宅さん」
「ああ、月島君。どうしたの?」
「どうしたのじゃありませんよ!」
「まあまあ、ごめんなさいって。助かったって思ってるからさ、うん。笑って許して」
三宅さんは、からからと笑った。
「それで、どうにかなりそうなの?」
「さあ、知りませんよ。けど、死のうとしていた理由はだいたいわかりました。世の中に絶望したなんて言ってましたけど、要するに痴情のもつれってやつですかね。男に振られたんですよ。その腹いせに暴れていると言ったところでしょうかね」
「あらまー、月島君て随分ざっくり話すのね」
「どう言う意味ですか?」
三宅さんは首を振って、笑った。
「けど、それなら解決方法があるんじゃない? ねえ、そうでしょう」
俺は頭をひねった。傷心の女性を慰める方法と言えば、話を聞いて同意する、酒に付き合う、適当な言葉で励ます、などであろうか。
しかし、三宅さんは首を振った。
「違くて。月島君が新しい彼氏になればいいんじゃないの?」
「いやですよ。何言ってるんですか。まだ三宅さんと付き合ったほうがましです」
「それ、どう言う意味?」
「いえ、今のは失言でしたね」
兎も角も、三宅さんは二度と高崎の前に立つことはないと断言した。自分は一切この件に関わらないから、あとはお前が解決せよという事だった。
三宅さんは、文句は受け付けないと言い、俺に解決できないのならば警察を呼んで対処するまでだと冷酷なことを言ってのけた。
血も涙もないのか。
「だってえ。汚いのと虫はだめなの」
「ああ、はい」
正直な気持ちとして、警察を呼んで解決してもよかった。警察に任せれば、迷惑防止条例違反などとして連行された高崎は、社会的な制裁を受けて反省するだろう。それは、法秩序の域届いたこの国において正しい問題解決の在り方だ。
とか何とか思わなくもない。
「まあ、いいですよ。も少し、説得にあたってみます」
厨房から出て行く俺を、三宅さんは手を振って見送った。
ボックス席の高崎は、下を向いて死んだように固まっていた。その姿からは哀愁がにじみ出ている。赤の他人さえ同情せざるを得ない様相だった。
しかし、俺は高崎に同情を覚えたから警察を呼ばないで解決しようと思ったわけではない。単に、自分の中に芽生えた二、三点の疑問を解決したかったのだ。
俺は、高崎の前の席に座った。
「すみません。お待たせしました」
「いえ」
高崎は顔を上げずに言った。
「とても辛い思いをなさっていることはよく分かりました。その、差し出がましいとは思うんですが、よろしければ二つ教えていただきたいのです」
高崎は何も言わない。俺は続けた。
「一つは、その、彼氏さんにはどうして別れようと言われたのでしょうか?」
高崎は、机をたたいて立ち上がった。俺は反射的に跳び上がって驚いた。
「そんなの知らないわよ! 知るわけがないじゃない」
俺を見る高崎の瞳が怒りに燃えていた。今にも飛び掛かって来そうだ。俺は目を合わせずに続けた。
「では、質問を変えます。何と言って、別れを切り出されたんですか?」
「それは」
高崎はしばらく制止して動かなくなった。
彼女の虚ろな視線の先には山積みになったワイングラスがある。湾曲したガラスに反射するのは、自身の歪んだ顔であろう。
俺はしばらくしてから続けた。
「あと、もう一点だけ聞かせてください。彼氏に振られたということは、結婚への焦り、優良物件を逃したということ以外に、何か意味を持つのでしょうか?」
「どう言う意味?」
高崎が顔を上げた。目を細めて、俺を見ている。たまらず視線を外し、窓の外を見た。
「振られたことによる影響とでも言いましょうか。振られたから、どうなるのかということです。そして、その影響というものが、あなたが死ななければならないという結論を導くのかということです」
窓ガラスには、じっと俺を見つめる高崎が写っていた。その表情は、やはり恐ろしく俺には直視できない。今にも大変な事件を起こしようだった。
「もっと端的に言って、あなたは元カレを愛していたのですか?」
俺がそう言うと、高崎は突然両手で髪を掻き回した。叫び声をあげ、地団太を踏む。
いつの間にか、「パッヘルベルのカノン」が鳴り止んでいた。
おそらく三宅さんが早々と停止してしまったのだろう。
高崎は、ようやく落ち着きを取り戻した。
「愛なんて、必要ないわよ。あんたには、分からない。結婚していない三十路過ぎの女がどんな目で見られるか! 愛なんて! 愛なんてえええ」
高崎は叫びながら、俺の胸ぐらをつかみ、無理やり立ち上がらせた。何という腕力であろうかと感心するのも束の間、高崎は、俺を自身の眼の前まで引き寄せた。すぐ近くに高崎の顔がある。俺は酷い酒の匂いに思わず失神しかけた。そして、高崎の鬼の形相に心の底から震えた。
「だったら、尚更死ぬ必要はないじゃないですか!」
たまりかねて、俺は鼻をつまんだ。
「好きな相手に振られた、もう生きてはいけないというのはなんとなく分かります。けど、たいして好きでもない男に振られたから死のうというのは、短絡的にすぎます! だいたい、結婚出来ないなら死ぬというのは、おかしな話です。結婚しないでも真っ当で楽しい人生を歩んでいる人は大勢います。大勢に流されて、結婚か死かなどという選択肢を自らに課すのは、間違っていますよ!」
高崎は、俺の胸ぐらをつかんでいた手を離すと、はたと尻餅を付く様に椅子の上に落下した。目が泳いでいる。その表情からは、化け物を思わせる先ほどの恐ろしさは感じられない。
高崎の眼から、一筋の涙が伝った。
「生きてください。独身として生涯を立派に全うしてください! それが、あなたにとっての幸せです!」
すでに俺自身何を言っているのか、分からなかったが、まあいいのだ。
これでいいのだ。たぶん解決だ。
厨房の方を見ると、三宅さんがにやにやしながら腕組みしていた。そんな暇があるのならば、ここに来て最後の一押しをしてくれと言いたかったが、高らかに高崎は犯罪者であると宣言していたことからも、姿を現さないのは瞭然だった。
高崎は、小さく嗚咽を漏らして泣いていた。
きっと落ち着いたら店から出て行ってくれるだろうという雰囲気が感じられた。
俺は安堵に胸をなでおろした。
しかし、その時だった。
勢いよく、店の扉が開いた。すでにラストオーダーの時刻は過ぎているから、新規の客は入店できない。そのことを告げに、三宅さんが店内入り口へ歩いて行ったが、その客は三宅さんを押しのけ、こちらにずんずん近づいてきた。
そして、叫ぶ。
「めええい」
お前は羊か、と言う前に高崎が顔を上げて、その男の方を見た。高崎の顔は見る間に驚きに染まっていった。顔見知りであるのか。
ここにきて新しい登場人物など求めていないのだから、高崎の兄であることを願う俺は、呆然と窓の外をみた。
するとそこには、先ほど道路を走っていたアウディが駐車してあった。
冷汗が流れ、いやな予感が心臓を鷲掴みにした。
「や、八木さん、どうして!」
高崎が叫ぶ。ヤギだったか。
「おお、芽衣。ごめんよ。ぼくが間違っていた。許しておくれ」
「八木さん、私は」
話しから察すると、この八木なる人物こそが件の高崎の元カレなのだろう。その元カレが、颯爽と駆けつけたことからして、二人は円満に復縁し晴れてめでたく話は終わるのだろう。
これで店が閉められる。
胸をなでおろす俺に、高崎が叫んだ。
「私、気が付いたの! あなたのことは、全然愛していなかったって! 結婚がすべてじゃないって! だから、だから! もう消えて!」
その瞬間に、店内は凍り付いた。
俺は驚き目を見張り八木は体を硬直させて高崎が口をつぐんだ。
そして、店内に「ドビュッシーのゴリウォーグのケークウォーク」が愉快に流れ始めた。
誰がこんな悪趣味をしたのかと尋ねることはあるまい。
俺は厨房の奥に視線を向けて、ため息をついた。
そして、音楽に合わせて言い争いを始める二人の腕を引っ張って無理やり店の外に追い出し、店長にメールを打った。
時給、あげてください。
酒浸りの女 ひょもと @hyomoto
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