ホロウナイト

ペキニーズ

第1話

 子供の頃の僕は、それはそれは騒がしい子供だった。けれど同時に気の弱い子供でもあった。

 大人になった今でも鮮明に覚えているのだけど、僕は幼稚園の教室で、給食を食べていた。同じ班の子供と、机をひっつけ合わせて食べていた。当時、クラスの中心人物的な扱いだった僕である。友人たちとぺちゃくちゃ楽しく喋っていると、給食を食べるのが遅くなって、規定の時間をオーバーしてしまった。それを見て、若くて可愛らしい先生が、優しくこう言う。

「勇気くん、はやくご飯食べなきゃだめでしょ」

 それは、先生なら当然するべき注意である。叱ったのでもなく、感情的に怒ったのでもない。ただの優しい注意。けれど僕はそれを聞いて、大号泣してしまったのである。胸の辺りが苦しくなって、意識せずとも目が潤む。嗚咽をもらして、僕は泣いた。そのあとのことは覚えていない。けれど、たぶん先生や友人たちが必死に慰めてくれたんだと思う。

 他にも、小学校のとき、授業中に手を挙げて、自信満々に言った答えが間違っていたときにも泣いたし、親に怒られると気が狂ったかのように嗚咽した。僕は他人の怒りという感情にひどく弱かったのだった。

 このようにして、泣くたびに僕は外交的な人間から内省的な人間になっていった。仲の良かった友人とは疎遠になり、それまでとはまた違う人種の友人たちと付き合うようになった。

 けれども、そんな人間関係の変遷の中でも、ひとりだけ、子供の頃から仲のいい女の子がいた。それがユウキだった。ユウキと仲良くなったきっかけは、良く覚えている。僕の名前が勇気で、彼女の名前もユウキだったから、それで話が弾み、いつのまにか僕たちは友達になっていたのだった。

 ユウキとは高校で付き合うようになった。今では同じ大学に通う同輩でもあった。

 


 大学のレポートを書いていてふと時計を見ると、時刻はすでに3時を回っていた。伸びをしながら、あーだる、と心の中で唱える。本当ならベッドでのたうちまわりながら叫び出したいほど面倒なレポートだった。なにしろ、かれこれ4時間ほどもこのレポートにかかずらっているのに、まだ終わらない。にもかかわらず、提出期限は明日までときた。

 なんだか、投げやりな気分になってきた。椅子を蹴飛ばすように立ち上がって、上着を羽織った。ポケットにライターと煙草を突っ込み、一人暮らしの部屋を出た。数分歩くと、昼間は子どもたちの遊び場になっている公園に着く。深夜も深夜だからか、人影はない。僕は公園に2台あるブランコのうちの1台に座り、煙草に火をつけた。深く吸って、吐き出す。夜の公園にふわりと紫煙が立ち昇っていく。つらつらとレポートのことを考える。

 これからまた家に戻り、明日の昼までに睡眠時間を削ってあれを仕上げなければならないのは非常に面倒だ。僕は、もうどうにでもなれ、という気持ちになっていた。よし決めた。残りの部分は適当にコピーアンドペーストで埋めてしまおう。どうせ他の学生たちもそんなに真剣にレポートなんて書いてないだろう。大学生なんて、どいつもこいつも阿呆なのである。そうと決めれば、気分はいくぶん楽になった。重荷がなくなった。実際にはどこか遠くにうっちゃっただけなのではあるけれど。

 霧散していく煙をなんとなくぼーっと眺めていると、視界の隅でなにかが動いた。

 がさがさ、と紙の擦れるような音がして、そちらを見ると、小汚い男が公園のベンチで横になっていた。泥にまみれた新聞紙を体にかけている。そんなものでは、この寒空のしたで暖は取れないだろう。実際、男の体は小刻みに震えていて、見ていて痛ましかった。僕は嫌なものを見てしまったと思い、ブランコを立とうとした。けれど、寝返りをうった男と、ばっちりと目があってしまい、その場を去る機会を逸してしまう。

 男の瞳は、夜のしただということを差し引いても、暗い闇のような色をしていた。その目の奥から窺えるのはひどい絶望だけだった。僕はその瞳から目をそらすことができなかった。悪いものに魅入られてしまったように、あるいはどこか自分に通じるものをそこに見出してしまったがために、僕は動くことができなくなってしまった。

 男がのっそりと立ち上がった。ふらふらとした足取りで、こちらまでやってくる。僕のすぐそばまでやってきたかと思うと、隣のブランコに音もなく腰掛けた。そのあいだも、男は白い息を吐きながら寒そうに震えていた。

「兄ちゃん」

 ぼそぼそと、呟くように言った。初め、あまりにも生気がなく、張りのない声だったため、僕はそれを聞き取るのにも難儀した。

「それ、一本もらえんか」

 それ、と言って指すのは、僕の太腿に置いてある煙草のことだった。突然のことで少し混乱していたけれど、

「ああ、はい。どうぞ」

 と一本、煙草を渡した。男はそれに礼を言うでもなく、ズボンのポケットからライターを取り出して火をつけた。

 ひとしきり、味わうようにして煙草を堪能したあと、彼の震えは少しだけマシになっていた。

「あんた、学生だろ」

「え」

 低く抑揚のない声で言う。

「勉強はちゃんとしといたほうがいいぜ」

 うなだれるようにして話す。男はけして僕と目を合わそうとはしなかった。虚空を目が泳いでいる。けれど、言うことは親戚の叔父のようなお節介な内容である。

「よく言うだろ。若いうちに苦労しとけってな」

「はあ」

「あと、女なんて信用しないほうがいい。ありゃ糞だからよ」

 言うことの割には、口調には熱も何もない。ただ淡々と、低く話す。僕はこの小汚い男を測りかねていた。

「まあ、こんな汚えジジイの言うことなんざ、真に受けることでもないけどな……」

 そういって、ほとんどが灰になった煙草を惜しむようにまた吸う。

「ええっと……あなたは、こんなところで何をしてたんですか?」

 言いながら、馬鹿な質問をしてしまったと後悔する。何をしてた? そんなもの見ればわかる。寝てたのだ。なぜ外で寝てたのか? 家がないからだ。こんなことは考えればすぐにわかる。ひどく失礼な質問をしてしまった。

 僕がすぐに謝ろうとすると、男は無精髭の生えた口許を歪ませた。それが笑ったのだとは、初めわからなかった。

「何してたんですか、か。まったく、まったくもって何してるんだろうな。俺は」

 笑ったのは一瞬で、次の瞬間にはまた男の纏う空気は陰鬱なものに戻っていた。

「なあ、兄ちゃん」

「は、はい?」

「もう一本、くれないか」

 僕は案外と厚かましいこの男に、ケースに入っていた最後の一本を渡した。


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