第94話 懐古の朝

 翌朝、久しぶりに迎えた実家での目覚めに無意味な感動を抱きながら、ベッドを抜け出した。

 閉められたカーテンを開けば、いつものようにちょうとんが覗く。寝起き直後の目に差し込む光は眩く、外の景色は半開きでしか見られないが、しかしとても気分がいい。

 目蓋を擦りながら覗く窓の外では、父さんと兄さんが剣を振っていた。勿論練習用の木剣だが、こうして稽古している姿を見るのも久方ぶりである。屋外で練習しているのは、室内だと騒がしいからだ。

 窓を開ければ、早朝の涼やかな空気が流れ込んできた。夜闇に冷えた外の空気が肌を撫でるたび、意識が冴え渡っていく感覚が全身に広がる。爽やかに晴れ渡る空がとても過ごしやすい。

 軽く伸びをし、全身をほぐす。今日から制作するのは竈。作業量は絶対的に多い。肉体労働にはとことん否定的であるが、やらねばならない時もある。

 微かな逡巡を持ちながら、俺は剣の稽古に乱入すべく、外の庭へと歩を進めた。


     ——————————


 朝から男三人で剣の試合を行って汗まみれになってから、俺たちは朝風呂を満喫する。風呂から上がってダイニングルームへと足を運ぶと、既に朝食が用意され、母さんとセフィアさんが優雅なひと時を過ごしていた。クレアはクッキーに夢中になっている。サクサクとクッキーを頬張る姿は、完全に齧歯類のそれだ。


「おはよう。朝から元気ね、三人とも」

「運動は大事だろう。それに、家督を譲ってからというもの、特に暇だからな。剣でも振っていたいもんだ」


 母さんの言葉に、父さんが意気揚々と答える。とても生き生きとして、自由な老後生活を楽しんでいる様子だ。嗜むのはゲートボールではなく剣というアグレッシブな人だが。

 席につくと、メイド達が朝食を持ってきてくれた。トーストに目玉焼き、グリーンサラダと健康的なバランスである。

 飲み物に出されたのはコーヒー。分かっている。実によく分かっている。

 というかコーヒーを差し出したのはエリンだった。俺の専属だったメイドだ。俺の好みを覚えていてくれたのだろうか。小さく「ありがとな」と口にすると、彼女はニコリと微笑んだ。

 兄さんは、先の稽古の話で母さん達と盛り上がっていた。

 というのも。


「今日はアルーゼから一本取れたんだ!」


 ……とまあ、この通り。

 魔法による身体強化など一切なしでの木剣での練習試合にて、うっかり一本取られたのだ。上手くフェイントをかけられ、胴に一撃入れられてしまった。

 兄さんはまるで武勇伝のように興奮した面持ちで話しているが、俺からすれば負けたことをずっと暴露されているわけなので、面白くはない。だがまあ、兄さんの溌剌とした表情を見ると、その自慢話を遮ることも憚られてしまう。

 家族というのは難儀なもので、どうも自分よりも一歩ほど尊重してしまう。しかしそれも、兄さんが少年のように反応するからなのかもしれない。

 と、無言でトーストを頬張っていると、母さんが面白そうにこちらを見つめてくる。


「……何だよ」

「別に? ただあなたでも、そんなことがあるのね、と思っただけよ」


 幼少期に、強さにこぎつけて訓練をサボった過去があるからか、とても満足そうに微笑んでいる。

 さらに言うのなら、母さんは俺を面白い玩具のように見る節がある。いや、玩具というよりは展示品とでも呼んだ方が適切か。見ている分には飽きない、といった具合だ。

 なのでこちらも、負け惜しみと理解しつつも反論せずにはいられなかった。


「別に。魔法を使っていなかったらただの人間なんだから、ミスだって当然犯すだろ。それに、取られたといっても一本だしな」

「王国最強、個としての最高戦力とまで呼ばれるあなたがねえ?」


 心底面白そうに顔を綻ばせながら、母さんは追い打ちをかける。強さに定評のあるものは、一戦の負けも許されないという、一つの自然である。

 だが当然、そんなことはありえない。一度も負けたことがない人間なんているはずがないからな。

 俺だって、小さい頃何度か父さんに扱かれた。静音と透明化の結界を用いての特訓だったが、それは父さんの息抜きがてらの時間だったからであった。

 旅に出た直後も、アウローン樹海には大苦戦を強いられた。出てくる生物の悉くが埒外に強く、何度か死線も潜っている。

 人は失敗を重ねて成長していくものだ。当然のように失敗を強いられる。散々に苦渋と辛酸を舐めさせられるのが人生である。

 ——というのは持論だが、母さんに反論するにはあまりに虚しかった。敗北の肯定ほど自身を否定する行動は無いだろう。


「……どうせ、どこまで行っても人は人だし。それに、ただの研究者に強さを求められてもね」

「強さを求めてるのはアルーゼ自身でしょう?」


 ……駄目だ、今回は勝てない。

 何を言っても、母さんの中には俺が負けたという面白い話しか残っていないのだろう。

 もう自由に言っていてくれ、と口にし、後は知らん顔で過ごそうかと不機嫌になりかけた時、母さんが両の手を叩いて見せた。

 途端に静かになるダイニングルーム。訓練されているのか、洗練されているのか。


「まあ、そろそろやめにしましょう。勝負なら、勝った人がいるなら負けた人もいるのよ? 負けた話ばかりを延々と続けられたら面白くないでしょう?」


 兄さんが「拙い」という表情を一瞬で浮かべた。

 うちの家族には、何人たりとも破ることを許されぬ金剛の掟が存在する。


 曰く、「母の機嫌を損なうな」。


 母さんの一言一言が、うちの家族の中では最上位の警戒対象となっている。

 母さんの説教ほど恐ろしいものはない。一切の反抗を許さぬ絶対の気迫を見に纏う般若はんにゃなど、絶対に相対したくない。

 この場にいない姉妹たちも遵守する、不動の掟である。

 兄さんの顔面が蒼白になったのを横目に、俺はことの端末を見送ることにした。


「クレオ、もう少しマシな事で喜びなさい。一本取れたと言っても、数十回の稽古の中でのことでしかないでしょう?」

「うぐ……それを言われると何もいえなくなる……」


 兄さんの頭が項垂れる。たった数度の言葉で、あっさりと母さんが勝利する様には、もはや遠い目を浮かべるしかない。

 父さんは終始無言を貫き傍観態勢。何なら一番賢明な判断ではあるが、こんな姿の父を見てしまうと、情けなさがひしひしと湧き上がってくる。その背中のあまりの狭さに、虚しさと哀愁を覚えた。

 結果的に、実際にその場にいなかった母さんが完全勝利を収めた形となる。あまり納得のいかない結果だが、これに食い下がるのはさらに愚行である。

 しかし、そんな懐かしい家庭内権力に郷愁を覚えながらも、朝の時間は着々と過ぎて行ってしまう。

 シーン、と静まり返った食卓に、メイド長のフランが紅茶を携えてやってくると、カップに注いで俺たちの前に差し出した。朝食後のちょっとしたティータイム。

 だが、ことこの場において、彼女が差し出した紅茶はハーブティーだった。仄かに香る甘い匂い。鎮静作用のあるハーブティーを出したのは、「静かにしろ」という彼女の無言の意の表れであった。

 察しのいい我が家族は、ハーブの香りも相まってか、無言で啜り始める。そこまで紅茶が好きではない俺は、口が火傷する覚悟で一気に飲み干し、カシャン、と受け皿に置いて立ち上がる。


「んじゃ、ご馳走様」


 フランがにこやかに「お粗末様でした」と口にするのを横目に、俺は素早く食堂を後にした。


 当然、口内は火傷した。

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