01. ダンゴムシを見よ

 吹崎ふきざき爽太郎そうたろうは、アパートの自室へ帰ってくるなり盛大な溜め息をつく。

 スーツを着たまま床にへたり込み、ぼうっとローテーブルの上に放置された皿を眺めた。

 朝食に使った食器を、シンクヘ運ぶことすらしていない。

 七月七日。

 汗を吸ったシャツが肌に張り付く。


 入社以来、毎日怒鳴られた。

 元来、大人しい性格で、親にも先生にもそこまで叱られたことはなかった。

 ミスが多いのは確かだが、その度に主任や課長から説教されてはたまらない。

 そんな爽太郎を面白がっているのか、同僚たちも彼の陰口で盛り上がっているらしい。

「無能」は仲間からも嫌われる――主任から告げられた情報なので、どこまで真実かは分からないが。


 もう何もかも投げ出したいと爽太郎は願う。

 七夕の短冊に書くなら、これか。


 お前みたいな奴はクビだ、と言われた。

 親は良くも悪くも放任主義で、勤め始めて以来、連絡されたことは無い。

 彼女はいないし、休日に会う友人もいない。


 なら投げ出せばいいじゃないか、そう踏ん切れないのが彼の中途半端な真面目さだった。

 虫籠に囚われたカブトムシを思う。

 食べたくもないスイカの切れ端で命を繋ぎ、ひと夏で事切れる黒い甲虫を。


 どうせなら、と想像を広げる。

 どうせ虫なら、気ままに土をむダンゴムシに爽太郎は憧れた。


「……ダンゴムシ?」


 妄想が床を這う。

 子供の頃、さんざっぱら暇潰しの相手にした灰色のチビ。

 しゃがむ彼の目の前を、ダンゴムシが悠然と横切っていく。


 左から右へ。

 右の膝頭の先を越えた辺りで動きを止めたダンゴムシは、ゆっくりと彼の方へ頭を向けた。


「大丈夫?」

「あ、ああ……」


 大丈夫なわけなかろう。ダンゴムシと会話が成立したら、いろいろと疑った方がいい。

 だとしても、喋る虫は極自然なことに思え、爽太郎は続く言葉を待った。


「キミには話し相手が必要だと思う」

「だから……現れた?」

「いやいや、ダンゴムシと喋るとかどうなのよ。人間の相手を探しなよ」

「ああ、うん。もっともだね」


 とは言え、そんな相手がいたら苦労はしない。

 自分には、話して聞かせる誰かなんてどこにもいないことを。見つかる気配も無いし、ずっと独りなんだと。

 爽太郎は小さな訪問者へ切々と訴える。


 触感をピクピク動かすのは相槌のつもりなのか。

 うん、それで? と促されるまま、彼は思いの丈をこれでもかと話し尽くした。

 親への反感と飢え。

 要領の良い同僚への嫉妬。

 もどかしい自身の無能さ。


 小一時間は話したところでやっと区切りがつき、爽太郎は無言でダンゴムシを見つめる。


「泣くほど溜め込んでたんだ」

「え? いや、泣いてなんか……いるか」


 ボロボロと涙を落とすほどではないが、彼の瞳は確かに潤んでいた。

 ダンゴムシの輪郭が滲んで見える。


「心を守った方がいいね」

「どうやって?」

「ボクたちはね、敵が来たらこうするんだ」


 ダンゴムシはその名の由来通り、くるっと身を丸めてみせる。

 これが防御形態であることは爽太郎もよく知っているが、だからどうだと首を傾げた。

 球体のまま、ダンゴムシは「早く」と急かす。


「早く何?」

「キミもやるんだ。丸まると安心するよ」

「あ、うん……」


 足を揃え直し、正座の姿勢から両膝を離して隙間を空けた。

 腰を思い切り曲げて、その空いたスペースへ頭を潜り込ませる。

 両腕は身体の脇にピタリと添わせて、人間ダンゴムシの完成だ。


「最初は窮屈かもしれないけれど、すぐ慣れるから」


 目を閉じて、耳を澄ます。

 ダンゴムシの声に加えて、自分が刻む鼓動がよく聞こえた。


 着替えとか食事とか、どうでもよくなってくる。

 今は休もう、それだけを考え、彼は内側・・の世界へと沈んでいく。


「おやすみ」


 ささやかれたダンゴムシの声が心地好い。

 この夜から、ダンゴムシと暮らす爽太郎の生活が始まった。

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