08.

 通勤客でごった返す夕方のホームで、彼は雑踏に逆らって歩く。


「すいません、通してください」


 濡れた線路を横目に階段を上がり、二階改札へと向かった。

 非接触タッチ式の改札機を見て、思わず口許が歪む。

 ICカードの認識部の隣に、さあ早く押せと赤いボタンが並んでいた。


 こんな早い段階にしてもう彼はこれを夢だと認識しており、高まる緊張に体が強張る。

 電車通勤をしていたのは三十歳前後の頃で、この夢は三十二歳のものだと確信があった。


 およそ考えうる最悪の記憶、妻を亡くした日だ。

 平穏に過ごしたいなら、掘り起こしていいものではない。


 七月二十四日、午後六時七分。天井から吊された案内掲示器が、彼の推測を裏付けた。

 昼から続いた雨のせいで不快指数は上がりきっており、蒸し器の中を藻掻くようだ。


 急ぐべきだという思いと、待ち構える惨劇への恐れがせめぎ合う。

 他人を蹴倒してでも進めばいいのに、足は鉛を括り付けられたみたいに重い。


 二階コンコースを出た彼は意を決し、人波を掻き分けて階段を駆け降りた。

 この日、彼の妻は傘を届けに駅へ出迎えに来る。

 そうしてくれと頼んだのは自分なのだが、以降、その愚かさを痛切にさいなむこととなった。


 サルメ事務局へ提出した書類には単に独身だと記し、配偶者がいた過去は捏造してでも伏せて通す。

 それが不合格の理由になりかねないと、自分でも理解していたからだ。


 大学で知り合った妻とは、勤めだしてすぐに結婚した。

 彼女は軽い脳障害に悩まされていたが、命に関わるほど重いものではない。

 出産を諦めるのは二人とも納得して、慎ましく二人で歳を重ねる予定だった。


 庸介に呼び出された妻は、駅前まで来て足をもつれさせ、人の流れから弾かれる。

 よくある立ち眩みに過ぎず、数分もじっとしていれば治まるものを、この時は悪意にまみれた不運がいくつも彼女を襲った。


 帰宅を急ぐ男が彼女の肩へぶつかったと、通行人の一人が証言する。

 支えを求めてよろめく彼女を、誰も助けなかったと聞いた。

 傘を落とした妻は、フラフラと車道へはみ出し、そこに若い学生が運転する乗用車が突っ込んでくる。

 跳ね飛ばされた妻が、意識を取り戻すことはなかった。


 階段の手摺にも、赤いボタンがあった。

 カフェの店頭看板に、立ち話に興じる女子高生の鞄に、フロアタイルのど真ん中にもボタンを見つける。見渡せばもっとあるのだろう。

 この夢は、ボタンで溢れていて当然だ。


 過去の彼は駅の売店で雑誌を買い、のんびりと歩いて待ち合わせた駅前へ向かった。

 妻が到着した時刻にちょうど一階に降り立ち、騒然とした人だかりに出食わす。


 赤嶺に成人後の夢を設定させれば、遅かれ早かれこの記憶に辿り着く。

 そう分かっていて尚、彼はここに来た。

 あんな光景を、もう一度見せられてたまるか――歯を食い縛って、庸介は妻の姿を探した。


 辛い記憶ばかりが呼び覚まされるのはおかしい。

 ジャーキングが引き金というなら、階段から落ちた過去を再演してもよさそうなもの。プールで足が攣ったこともあった。

 どうしてこうも、心をえぐる思いを重ねなければいけないのか。


 安易な診断は不愉快だが、原因は心的外傷トラウマだろう。

 妻を喪失した記憶が深く楔となって心に刺さり、全てはここに結び付けられてしまった――その彼の考察は正しい。


 記憶は後からいくらでも改竄が可能なものであり、年月を経て変容する。

 母の出棺は青空を背景に行われた覚えがあるし、靴を隠されたのも晴れていた。

 原点はここ、この雨の日が記憶を染め変えている。


 何度も悪夢を体験させられた庸介は、ようやく自己に向き合った。

 このままではいけない、妻の死に抗うべきだと。

 たとえ仮初めでも、庸介は彼女を救いたかった。そうすればきっと、過去を克服できる。


 視界のあちらこちらに映る赤いボタンを、彼は決然と無視した。

 サルメは自棄に溺れるための手段ではなく、贖罪を果たす機会だ。そうに違いないと自分に言い聞かせる。


 妻はまだ駅に着いていない。なら、彼女が駅に来る前に出迎えてしまおうと、彼は大通りへ身体を向ける。

 タクシー乗り場を少し過ぎた先、一般車両が次々と滑り込む駅前のロータリーが事故現場である。

 ここを通り過ぎ、横手から駅前通りへ曲がった。

 自宅マンションまでは一本道で、駅への横断歩道は一箇所だけ。そこで待ち受ければ見逃すはずはなかろう。


 温い雨に打たれ、白いシャツがベッタリと肌に貼り付く。

 通りを渡らずに、道路の反対側で待つ人を何度も見回した。妻の姿は、どこにもいない。


 信号が赤から青へ、青から黄色へと変わる。目立つ傘を持っていたから、彼が見落とすことはないはずなのに。

 強まる雨足が、シャワーも斯くやと庸介を叩いた。


「おかしい」


 厳重に封印した記憶を、それでも生涯忘れられないだろうこの夕を頭の奥から呼び起こす。

 ホームへ降りた時は、ここまで激しい雨ではなかった。

 土砂降りの音が耳へ届いたのは、買い物も済んで一階に至った時だ。

 雨に合わせるように、ロータリーの方から――。

 軋むブレーキパッドの悲鳴が、彼の鼓膜を刺す。


「おかしいだろっ!」


 事故現場へ振り返り、死に物狂いで走った庸介だが、もう事は済んだあと。

 脳裏に焼き付いた映像を、彼は別のアングルから再び見ることになった。


 投げ出された真っ赤な傘が、手遅れだと彼をわらう。

 集まる人だかりを押し退け、傘を越えた先に、妻は壊れた人形と化して転がっていた。


 アスファルトに広がる血痕は、傘よりもっと赤い。

 彼女は頭部に損傷を負い、ほぼ即死だった。

 傍らに膝を突き、妻に手を伸ばしかけて止める。

 アスファルトに擦り下ろされた顔を、人目に晒すこともなかろう。


「くっ……くぅ……」


 肺から空気を絞り出して言葉に変えようと努力するが、震えるばかりの身体は言うことを聞いてくれない。

 これは夢だ、ジャーキングが生んだ後付けだと心で唱え、血に染まる妻の耳へ口を寄せた。


「……許して……くれ」


 近くの派出所から駆けつけた警官が、何やら彼へ問い掛ける。

 どうでもいい。

 野次馬のざわめきも、微かに近づく救急車のサイレンも、どうだっていい。


 肩をつかむ手が、彼を妻から引き剥がそうと試みる。

 嫌だと抵抗したことで、却って頭がハッキリした。


 妻の右拳を取り、握り締められた指をゆっくり解す。

 人差し指から順に、中指を、そして薬指を伸ばした。

 一本一本を優しく、慈しむように。


 冷えた手の中には、小さなボタンがあった。

 ミニサイズの緊急ボタンを、妻の手ごと両の掌で包む。


「ありがとう」


 彼が力を籠めると、世界は黒く塗り替わった。

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