ジャーキング/ダイビング
01.
朝早いというのに、五月にしては強烈な日差しが街を
目覚ましのセットを忘れていた彼は、いつもより三十分遅く起床する。
身体はスッキリしていても、時計を見た彼の心中は動揺で泡立った。
「なんで起こしてくれないんだよ!」
母親は「そんな日もある」と思ったらしく、責めたら逆に説教される始末だ。
夜遅くまで遊んでいるから――そう
今日は数学の臨時試験があり、そのための勉強で夜更かしすることになった。
他の教科は来週からなのに、教師側の勝手な都合で予定が変更される。これも大概な不運だし、それを母に伝えそびれたのもマズかった。
最近はやっと「母さん」と呼べるようになった庸介だが、若い義母へ事細かに学校生活を報告したくない。
寝坊も元を辿れば自業自得なのか。
アラームのセットを失敗するなんて、彼が高校になって初めてのことだ。
悪いことは重なるもの。これで打ち止めにしてくれと、どこぞで人を
ダッシュで改札を抜け、汗だくで電車に乗ったものの、途中駅で一時停車してしまう。
信号機の故障らしく、再び動き出したのは十五分後である。
目的駅では、それなりの人数が遅延証明を求めて並んでいた。
庸介は迷う。スッパリと試験を諦めて遅刻するか、意地でも急ぐのか。
再試験は、病欠者のためにも行われると聞く。
夏風邪が流行っている時期だから、おそらく実施されるはず。
但し、大抵は問題が難しくなる。デメリットが無ければ、故意に休む者が出るのだろう。
彼が大の苦手とする三角関数なのに、これ以上ややこしくされては堪らない。
「おいおい……!」
水道管の破裂など、誰が予想しようか。
高校へ至る直進道路は水が噴き出し、工事車両と虎縞のロープで閉鎖されていた。
迂回路の掲示を見て、庸介の顔が絶望に染まる。
高校が建つ丘を、ぐるりと反対側まで回って裏から登れと言うのだから。
「こら! 危ないから入るな!」
「すみません……」
強引にロープを跨ごうとしたところを、あえなく警備員に止められた。
足が濡れるくらい構わないのに、強行突破は許してもらえそうにない。
恨めしく道の先へ視線を送りつつ、彼は横手の路地へ向かった。
◇
散々と時間を取られた挙げ句、庸介が教室に駆け込んだのは九時十五分。
見事遅刻したとは言っても、まだ三十分は残っている。
「時間が足りない!」と焦るのは、自分の首を絞める行為だ。
それを彼も理解していながら、これでもかと自爆した。
血が頭に上り、脳で滞留してこれっぽっちも流れやしない。
問題用紙に汗が垂れ、イライラとハンカチを求めて尻ポケットに手を伸ばす。
忙しない今朝のこと、身嗜みを整える暇を削ったため、手は
増える黒染みが気になって、用紙に刷られた図形群からすぐに目が逸れた。
歯噛みする思いと汗を、捲くったシャツの袖口でぐりぐり拭う。
本来なら解ける問題も無回答のまま時間を浪費し、飛ばして先に進んだところで、また次の問題文を読んで固まった。
全部で十問、うち解答に行き着いたのが二問のみ。これでは追試一直線だろう。
「残り十分、名前の記入を忘れるなよ」
非情な教師の宣告を聞いて、絶望で今度こそ庸介の頭がフリーズする。
もうダメだと、唸りが漏れそうになった。
十分なんてゼロと一緒じゃないかと、心中で叫ぶ。
顔を上げた彼は、前に座る教師の方へ視線を向けた。
血流を送る鼓動が激しく、こめかみが揺れるゴム膜よろしく脈動する。
雨が降り注ぐようだ。
脳内を撹拌する土砂降りの雨が。
「痛い」
頭部を押さえるような違和感が広がり、教室内の光景が、黒板や並ぶ机の輪郭線が二重にブレた。
結構な声量たったと思うのに、彼の呟きには誰も反応せず、鉛筆を動かす音のみが耳をくすぐる。
庸介は教壇を凝視した。
正確には、教師が肘をついている教卓を。
拳大の赤く丸いボタン。
半球形のボタンは、キノコの傘を連想させる。または赤い雨傘か。
どうしてあんな物があるのか――疑問が渦巻いたのは一瞬で、彼は即座にその存在を受け入れた。
最初に彼がボタンを見たのは、流行りのアクション映画だったろうか。
モンスターに襲われる寸前、主人公がボタンを叩き押すと、逃げ込んだ部屋のドアが締まって九死に一生を得る。
スパイ映画なら爆弾をボタンで止めたし、ホラーアニメでも似たシーンがあった。
青や黒のこともあろうが、大抵は赤い。
ピンチを救う緊急ボタン。
閉めたい時はこれを。停止したい時も。
脱出したいならなおさら、これを。
いきなり答案用紙を持って立ち上がった庸介の様子に、教師は何事かと
「お前は遅刻しただろ。もう出来たのか?」
彼は無言で前へ進み出て、答案を両手で握り潰した。
丸めた紙屑を、どうでもいいとばかりに床へ投げ捨てる。
さらに二歩前へ、これで届く。
驚く教師が何か言う前に、庸介の手は教卓へ素早く伸びた。
その上に鎮座する赤いボタンへ目掛けて、全身全霊を篭めた一撃を食らわせる。
「やってられるかっ!」
口を開けた教師の間抜け顔は、彼の叫びと共に静止した。
世界が凍る。
楢浜庸介は、こんな世界を望んでいなかった。
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