おんがえし

01.

 トラックに轢かれて死ぬなんて、バナナの皮で転ぶのと同じこと。

 漫画のネタにはなっても、そうそう自分の身に起きることじゃない。

 第一、事故には十分に気をつけていたからな。


 出勤途中の交差点で、俺は大人しく青信号を待っていた。

 赤が黄色に変わり、車が停車線で止まる。

 さて、駅へ急ぐかと書類鞄を持ち直した時、足元を明るい茶色が駆け抜けた。


 横着な猫だと思ったのと同時に、二トントラックの接近に気づく。

 片側二車線の国道では、手前の自動車が止まったからといって安心するには早い。

 奥のレーンを走るトラックは、スピードを緩める気配も無く、交差点へ突っ込もうとしていた。


 たかが猫、と大半の人は呆れるだろうな。俺も自分の判断に疑問はある。

 だけど、咄嗟に飛び出した俺は、全力で猫へ駆け寄った。

 茶毛の塊を抱え上げて、幅跳びよろしく地を蹴る。

 見事、ロングジャンプで危機を脱し――はしなかった。


 タイヤが軋む悲鳴が真横から接近し、次の瞬間、俺は猫を抱いたまま宙を飛ぶ。


 トラックの衝撃ってのは凄いもんなんだなあ、とか。

 猫は無事かなあ、とか。

 意外に思考は回るもんだ。


 視界もぐるんぐるんと回転した挙げ句、目の前が真っ暗になった。





 意識が戻ると、天使がいた。

 陳腐と言いたければ言え。


 白衣が似合う、愛らしい大きな目をした女の子だ。

 マスクで顔が半分隠れていたけれど、その瞳から視線を外せなかった。


「喋るのはつらいですか?」


 彼女の眉が不安げに寄る。

 俺はベッドに横たわり、左腕には点滴の針が刺さっていた。


「あの……俺は……」

「頭を強く打って、丸一日寝てたんです。脛骨にヒビが入ってますので、左足はあまり動かさないように」


 言われて見れば、確かに足がギプスで固められており、腕も包帯だらけだ。

 事故後に病院へ担ぎ込まれ、丸一日寝ていたらしい。

 幸い、足以外は擦り傷と打ち身のみ。脳派に異常が検出されなければ、一週間で退院出来るとか。


「午後にCTスキャンを撮ります。しばらく安静にしておいてください」

「はい……」


 計器をチェックした彼女は、担当医を呼びに部屋を出て行く。

 直後やって来た外科の先生の口ぶりだと、さほど心配することはなさそうだった。


 俺が寝ている間に、母が何回か病室を覗いたと知らされる。目覚める少し前、日用品を届けて帰ったとか。

 心配していたから連絡した方がよいと言われ、実家へ無事を伝えた。

 よかった、よかったと繰り返され、何とも居心地が悪い。自業自得だろうけどね。

 会社には既に母が報告してくれたが、自分でも電話を入れる。


 まあ、保険の手続きやら、事故時の聴取やら、面倒臭い一週間だった。

 とは言え病室からは動けず、暇を持て余しもする。


 脳検査では完璧に正常値を叩き出したので、杖をついてトイレに行くことを許可された。

 これは本当に助かる。

 いや、尿瓶を使えと言われれば使うけどさ。

 それを回収するのは、あの天使なんだよ。天使にそんなもん触らせられんだろうよ。


 天使の名前は笹本ささもとさん、下の名前もとお願いしたら、美緒みおだと告げられる。

 学生時代は女性と縁遠く、自分が一目惚れするなんて想像もしていなかった。

 看護士が病室に来るのは当たり前で、その度に少しでも長く話そうと話題を振る。


 彼女はどんな話にも楽しそうに応え、時には自分のことも教えてくれた。

 看護学校でのエピソードや、好きな食べ物。

 休日の過ごし方に、行ってみたい場所。

 患者と看護士の会話として、普通よりずっと親しげだと感じたのは俺の勘違いじゃないだろう。


 好意を持ってくれている、そう信じたい。

 水族館が好きだという俺の言葉に、彼女も大きく頷いた。


「魚を見てると、なんか気持ちいいよね」

「そうそう。俺は食べるのも好きだけど」

「もうっ、雰囲気無いわねえ。私も魚料理は大好きだけど」


 もっと好きなのは、ふふっと微笑む彼女かな。

 個室だからだろうか、美緒さんは友達みたいにくだけて喋る。

 やっぱり脈ありだよねえ。

 押すしかあるまい。


 後々振り返ると、ずいぶん焦っていたんだと反省する。

 たかが一週間で舞い上がられたら、相手も戸惑うってもんだ。


 でもこの時は、退院したら二度と会えないかもしれないと、それだけが頭の中を占めていた。

 他に考えることなんて無かったしね。


「こ、今度の日曜日、水族館に行きましょるっ!」


 盛大に噛んで、ケラケラ笑われた。

 足がちゃんと治ったらねって。

 一ヶ月は我慢するよう諭されたけれど、デートの誘いは受けてくれる。

 彼女の白衣が、その笑顔が、一際輝いて見えた。

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