ブチとニョロ
01. 出会い
誰もいない草っぱらだった。
最後に雨が降ったのは、もうずいぶん前のことだ。
青かった草は記憶にしか残っておらず、そこら中でしなびた葉が地面にへたりこんでいた。
タンポポだかオオバコだか、もはや種別も定かでない葉に鼻を近づけて、仔犬が臭いを確かめる。
苦みを思い出して口元を歪め、それでも
クシャ、と乾いた口触りは予想通り。
それでもしつこく噛み続けていると、ほんの少しばかりの青い汁が舌の上に広がる。
「まずい……」
喉を潤すには、こんな苦行にも耐えなくてはいけない。
広大な荒れ野に、食べられそうな物は見当たらないのだから。
我慢して葉を飲み込み、仔犬はまたトボトボと歩き出す。
三日ほど前の昼、仔犬の母が動けなくなった。
その身にくっつき、鼻先で腹を押し、何度も話しかけて母親が再び立ち上がるのを待ったのだが。
仔犬の意に反して、母犬は
吠えたところで、母が目を覚ますことはない。
丸一日、わずかな期待に縋ってみたものの、母の身体は硬く、冷たくなる一方だった。
秋を控えたこの季節、日中はともかく夜はもう肌寒い。
自分を温めてくれた親を亡くし、仔犬は自立を強要される。
そのまま立ち止まっていたのでは、やがて自分も飢え、地に伏せることになるだろう。
生きようとする本能が母への未練に辛うじて上回り、独り知らぬ野へ旅立った。
枯れかけた葉と、たまに見つける虫が仔犬の命を繋ぐ。
繋ぎはしても、それがどこまで続くのやら。
幼い彼も、自然の摂理は理解していた。
飲めなければ動けない。
食べなければ、やがて――死ぬ。
母は死んだのかと、その最期の姿が頭に浮かぶ。
鼻がひくつき、お腹が締まるような思いに驚き、足を動かすことだけに集中した。
どうしてこんな目に遭うのだろう――仔犬は自身に問うが、答えなどあるはずもなく。
もう少し知恵がつけば、“理不尽”だと嘆いたかもしれない。
代わり映えのしない野原が、夕陽を浴びて赤みを増す。
夜は休み、寝るものだと母に教えられた。
空から飛来するフクロウが、あるいは暗闇に紛れて襲う山猫が現れるとか。
そんなもの、仔犬は見たことがないのだけれど。
隠れる場所も無い平地のこと、寝床を探しもせず
ぺたんと顎を地につけて、風が毛を撫でるのに任す。
土と草、嗅げるのはそれだけ。
木の実やネズミがどんな臭いをさせていたのか、忘れてしまいそうだ。
「……おなか空いたなあ」
もうちょっと葉っぱをむしり食べようかと考えたとき、泥の気配が鼻を突いた。
泥――。
――濡れた土。水だ!
首を回して確認し、方向を見定める。
感覚を研ぎ澄ませた仔犬は、臭いの元へと駆け出した。
鼻が利くのは母譲り、長所ではあるけれど、今は痛し
かなり遠くの水を察知したようで、全力疾走でもゴールが遠い。
自然と口が開き、はあはあと息が荒くなる。
日が沈むまでにたどり着きたい、そう願った仔犬の努力は、ギリギリで実を結んだ。
水が近い証拠だろう。いくらか元気な茂みを、勢い任せに走り抜ける。
草わらが途切れた先に、待ち望んだ池があった。
水溜まりよりは少し大きい、しかし、魚が棲むには底の浅いちっぽけな小池。
薄暗くなってしまって水の中はよく見えないが、何だか黒く濁っているようだ。
「でも、水だ」
顔を水面に近寄せて、でろんと舌を伸ばす。
カサついた舌に触れた水は、土っぽくとも美味しかった。
最初は怖ず怖ずと、次第にビチャビチャ音を立てて久々の水を貪る。
生き返るような心地を堪能していたせいで、水面を泳ぎ来る影を見落としていた。
横手から近づき、顔の真ん前まで来た
「トカゲ!?」
「失礼なヤツだ。あんな半端もんと一緒にするな」
頭だけならトカゲそっくりでも、そこに手足は無い。
ニョロニョロと曲がりくねった相手を、仔犬は低く唸って威嚇する。
身体のサイズは小さく、噛み付けば簡単にやっつけられると値踏みした。なんなら餌にしてやろうと。
だが、いつぞや教えられた母の言葉が頭の中に甦る。
「たしか……ヘビだ」
「なんだよ、見るのは初めてか? 唸るのはやめろ。俺様は小さくても――」
「毒がある」
「そうだ。分かってんじゃねえか」
一撃で倒せればいいが、万一噛まれたら毒を注入される。
だから餌にしようとせずに、無視しろと母は言った。
「食べる気は無い。あっち行って」
「お前が後から来たんだろ。どっか行け」
「水を独り占めするつもり?」
「デカい奴が飲んだら、すぐに干上がっちまうからな」
そんな言い分を、仔犬が聞く謂われも余裕も無い。
先より気合いを込めて唸ると、蛇も顎を開けて牙を剥いた。
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