ひと夏の恋

ひと夏の恋

 虎目石タイガーアイはまったシルバーのリングを放り投げると、月光を反射して一瞬、きらりと光る。

 涙みたいだと思った。

 もう、そんなものは枯れ果ててしまったけども。



 セミが鳴き始めた初夏、彼と出会った。

 引っ込み思案な私が、思い切って申し込んだオープンカフェの短期バイト先。そこのフロアチーフとして、私に仕事を教えてくれたのが彼だ。


 歳は五つ上、背は高く、休憩時間は難しい顔をして忙しそうにスマホをいじっていた。

 田舎から出て大学に入ったばかりの私には、洗練された都会の男性に見えて当たり前だろう。

 恋心を抱くのもまた、最初から既定路線だったと思う。


 そんな私の心は彼にもお見通しで、他のスタッフよりも優しく接してくれた。

 彼にもっと近づきたくて、私は小さな嘘をつく。本当は中古の軽があるのに、免許も車も持っていないって。

 だけど、そのおかげで行き帰りを車で送ってくれるようになった。


 オフ日に食事へ誘われた時は舞い上がって喜び、精一杯のおめかしをして出掛ける。

 それをデートと読んでいいか分からなかったけれど、彼が私の好意に応えてくれたのだと喜んだ。


 その後、二度目のドライブ中、ビルの上から飛び降りる覚悟で告白したところ、彼は笑って私の頭を撫でる。

 好きだと誰かに言うのも、そう言われるのも、この時が生まれて初めての経験だった。


 全てが初めての夏。

 二人で海にも行ったし、ライトが星空の如く輝く夜景も見た。

 朝霧の中を車で送られ、その昼にはまたバイト先で顔を合わす。

 照れ臭く顔をほてらせるハメになったものの、同時に幸せで頭が溶けそうだった。


 今夜、私は湖に来た。

 ここも思い出の場所だ。

 湖畔のロッジに泊まったのは、ほんの一週間前のこと。


 湖を見下ろす崖上まで来て、暗い水面を黙って見つめ、彼との夏を思い返した。

 あんなに幸せだったのに。誰よりも信じていたのに。


 きっかけは、ほんのわずかなトゲに過ぎない。

 私のメッセージに反応しない夜があったから。彼の身体から、微かに知らない匂いが漂ったからだった。


 彼が熟睡したのを待って、彼のスマホに指を当ててロックを外す。

 芽生えかけていた何かが、その小さな端末の中で花開いた。


 知らない名前が二つ、同じバイトの仲間が一つ。親しげにメッセージをやり取りし、店が終わったあとで会う約束を交わす女たち。

 この夏、彼はほとんどの時間を私に費やしてくれたみたいだ。でも、女たちとの付き合いはもっと古くから続いている。


 寝ている彼の傍らで、必死に会話のログを読み漁った。

 昔の話ならいくらでも我慢出来る。私と知り合ってからも連絡を取り合うのは、限りなく黒に近いグレーかな。

 夏が終われば、また遊ぼう――その約束を見つけた時、私はスマホを握り潰しかねない勢いで電源を切った。


 今手にしているのは、私のスマホだ。

 この中では、私と彼の二人しか登場しない。

 甘い会話に、並んで撮った何枚もの画像。どれも大切な宝物だったけれど、全てを忘れるために手放すことにした。


 スマホを握った手を振りかぶり、湖へ向けて放り投げる。

 虫の声に混じって、小さくポチャンと水音が耳に届いた。

 この崖は湖に迫り出しているから、真下でもそれなりの水深があるだろう。スマホは湖底へ沈み、二度と顧みられることはない。


 彼から貰った金メッキのネックレスを、首から外す。

 これも湖へ。


 ひと夏の思い出は、全てここに置いて帰ろう。

 プリントアウトした写真は軽いので、フォトフレームに収めたまま、ブーメランよろしく投げ飛ばす。


 彼のスマホも、一緒に湖の底へ沈んでしまえ。

 ゴム手袋とノコギリはロープで結わえて、まとめて捨てる。


 今でも愛おしい気持ちは変わらない。

 彼への想いは、本物だったから。


 十のビニール袋に一つ一つに別れを告げながら、私は彼を湖へ投げ入れていった。

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