5分がぼちぼち厳しいミステリ

最高のカレー

最高のカレー

 水曜日の午後三時、駅前のカレー屋には客が入っていなかった。

 さほど賑やかでもない郊外のこと、平日はこんなものであろう。

 カランとドアベルを鳴らして入ってきた唯一の客へ、朗らかな挨拶が掛けられる。


「いらっしゃいませ」

「おう、野菜カレーを一つ」


 客は迷わず注文を伝えると、カウンターの中央席に腰掛けた。

 地味なスーツに身を包んだ、胸板の厚い男である。口許に皺が増えた年頃だが、日に焼けた顔は浅黒い。

 カレー専門店へ訪れるのはこんな厳つい男も多く、店員の注意を引くようなことはない。

 手際よく始まった準備を、客は黙って見守った。


 野菜カレー、正確には“京野菜たっぷりのヘルシーカレー”は、この店の定番メニューとして人気を博している。

 タウン誌にも取り上げられ、ネットでの評判も上々だ。具材は野菜だけながら、こってりと重層的な味わいが楽しめるのだとか。


 さして待たされもせず、客の前に湯気の立つ皿が差し出された。

 一般的なカレーに比べて、ほんのりと緑がかった色合いで、大胆にぶつ切りされたナスやニンジンがルーから覗く。

 脂質を抑え、カロリーも低い。健康を気遣う人へという売り文句が、壁の貼り紙に躍っていた。

 一口、二口と食べ進んだ客は、満足げに店員へと顔をあげる。


「何度食っても美味いな。野菜だけとは思えん」

「ありがとうございます、常連さんでしたか。お見逸みそれしてすみません」

「来たのは昨日が初めてだ。カレーは好きなんだが、この店は知らなかったよ」


 客覚えに自信があった店員は、その答えを聞いて少し安心した表情を浮かべた。

 彼は店の主任ではあるものの、オーナーでも店長でもない。昨日は非番で、店長とバイトの学生が客の相手をしたはずだ。


 連日来てくれた男へサービスしようと、トッピングの高菜へ伸ばした手は、意外な客の言葉で引っ込められる。


笠原かさはら征一郎せいいちろうさん、だね?」

「……私をご存じなんですか?」


 怪訝そうに見返す笠原の顔は、突き出された手帳に光る記章を見てさらにしかめられた。


「刑事さんですか。私に何か用が?」

「そう構えんでくれ。世間話に付き合ってほしいだけだ」


 県警の刑事は、伊沢いざわと名乗る。

 聞き込み帰りにカレーが食べたくなったんだと、手帳を仕舞いつつ笑ってみせた。


「三日前、街の外れの豪邸で篠之井しのい秋蔵しゅうぞうという男が亡くなった。知ってるかね?」

「ええ、まあ。お得意様ですから。まさか殺人事件だったと?」

「いやいや、脳梗塞による病死だ。事件性はなかったよ」


 篠之井秋蔵は、所謂フィクサーと呼ばれる類いの人種である。

 表の政治家たちと裏社会を繋ぐ大物として、随分と長い間、暗躍してきたという。

 ここ十年は屋敷に引きこもり、表立って出歩くことは稀だった。

 元来、自ら運転して日本各地を飛び回っていたのだが、事故を起こしてからは免許も返納している。


 一線を退いても重鎮ぶりは変わらず、要人は次々と彼の屋敷へ訪れた。

 そんな屋敷が、一般市民と同じ造りのはずはない。

 土塀の回りを警備員が二十四時間巡邏し、塀の内側には高圧電流の流れる防護柵まで設けてあった。

 もちろん、赤外線感知器や監視カメラといったセキュリティ装置も万全だ。


 そんな億万の富豪であり、社会を密かに牛耳る篠之井と、しがない刑事の伊沢には一つだけ似たところがある。

 どちらも大のカレー好きであった。


「週に四回は、ここのカレーを篠之井の家へ届けたそうだな?」

「平日のランチです。出前はしてないのですが、長年の上得意ということで特別に」

「で、もっぱら頼んだのは、この野菜カレーだったと」


 体調の思わしくない篠之井に、脂質の多い食事は厳禁だ。この店の健康カレーは、彼にとって救世主のようなものだった。

 金持ちが選ぶだけあって、確かに美味い――そう言いながら、また刑事はしばらくカレーを頬張る。


 彼が屋敷内に立ち入ったのは、篠之井が家で急死したからだ。

 若い頃の不摂生が祟ったのか、篠ノ井は五十を過ぎた頃から不整脈を患っていた。

 脳梗塞で亡くなったことに不審な点は無い。自宅で死んだ場合は一応の検分をする、伊沢が求められたのはそれだけの仕事である。


 ただ、大人物である以上、いつもより丁寧に調べはした。

 遺体に外傷は無し。

 毒物や特殊な薬剤の検出も無し。

 侵入者の形跡も存在せず、生前の様子は普段と何も変わりなかった。

 病死の確定を以って、翌朝には警察の仕事が終了する。


「だけどな、篠之井を恨む人間は多い。正直に言えば、俺だって複雑な思いがある」

「刑事さんにも?」

「ああ。もう十年以上前のことだ。篠之井は人を二人轢き殺した」


 穏やかでない話に、笠原は硬い面持ちで続く言葉を待った。

 ある雨がきつい朝のことだ。篠之井は交差点の直前で急ハンドルを切り、歩道へと突っ込んでしまう。

 犠牲者の出た痛ましい事故を受け、篠之井も半日ほど身柄を拘束された。

 しかし、彼が不自由をかこったのはそれだけで、翌日からは自宅へと戻る。

 過失致死傷害罪に問われる事案にも拘わらず、篠之井は罰金刑のみで済まされた。

 自動車は何者かに工作されていた、それが結論であり、事件は未解決のまま捜査を打ち切られる。


 当時これを担当した伊沢は、幾度も不条理な通達に首を捻った。

 自動車が精査されるより先に、事故原因は工作に因るものと方針が決まる。篠之井への取り調べは生温く、捜査は僅か二ヶ月で打ち切られた。

 どう考えても、篠之井の手が裏から回ったとしか考えられない。

 とすれば、逆に有罪を自供しているようなものではないか。


 事故の原因はスリップ、並びにその後の篠之井による操作ミスだと、伊沢は今も信じている。

 この因縁があるからこそ、篠之井の死には何かあるのではと、彼は慎重に調査を進めた。

 穏やかに自然死されてたまるか――そんな黒い恨みが、彼の本音だろうか。


 だからと言って、誰の証言からも犯罪性を匂わせるものは存在しなかったが、たった一つ、世話係の家政婦が述べた言葉に引っ掛かりを覚えた。

 昼食を終えた篠之井の元へ、彼女は常用薬を持って赴く。

 その際、篠之井は野菜カレーに珍しく感想を言った。微妙に味が変わって、より美味くなった、と。


「下手したら四桁以上の回数、食べたカレーだ。勘違いじゃないとすれば、原因は何だろう」

「さあ……。いつも同じ味になるよう心掛けていますからね」

「感想はもう一つある。少し臭いがきつかった、とな」


 カウンターを挟み、二人の男はお互いの顔色をうかがった。

 見つめ合ったのは、ほんの一瞬だけ。

「冷めますよ」と促され、伊沢は再びカレーをつつき始める。

 結構なスピードで完食した彼は、グラスの水をあおってから手を合わせた。


「いやあ、大満足だ。ところで、ここからは独り言なんだが」


 カウンターを拭く笠原は、刑事へ顔を向けずに、耳だけ傾ける。


 篠之井の病気は、血栓が体中に生じるものだった。放置すれば、心筋梗塞や脳血栓の原因となる。

 そのため彼は抗凝固剤、ワーファリンを日頃から服用していた。

 血液が固まるのを防ぐ目的の薬であり、肝臓が血液凝固因子を作るのが阻害される。

 逆に凝固因子を篠之井へ投与すれば、症状は徐々に悪化するだろう。


「凝固因子ってのは、ビタミンKらしいな。茶葉とか青野菜に多いそうだ」


 そして、と伊沢はもう一つ、ビタミンKを強烈に含む食品を挙げた。


「納豆ってのはビタミンKが豊富なだけでなく、腹の中で増やすんだって聞いた。血栓症の天敵ってわけだ」

「うちの野菜カレーには入っていません」

「普段ならな」


 昨日、店に訪れた伊沢は、店長から野菜カレーのことを質問する。

 考案したのは笠原という主任で、熱心に働く男だと褒めそやしていた。


 その名を、伊沢は忘れてなどいない。

 篠之井の車に撥ね飛ばされたのは、笠原という名字の母子だった。


「この店に来て、何年になるんだ?」

「ちょうど七年ですかね」


 笠原の前職は化学教師だったと、伊沢は記憶を手繰る。

 教師を辞め、篠之井を調べるのに一年くらいだろうか。料理人として修業し、この店で雇ってくれと頼み込んだのが七年前。

 厳重に守られた屋敷を突破するのに、七年もの間、笠原はカレーを作り続けた。


 いつの間にか手を止めた笠原は、伊沢を見据えて問う。


「カレーを作るのは、罪になりますか?」

「……まさか。勘定を頼む」


 支払いを済ませて、ドアノブに手を掛けた伊沢は、今一度店内へ振り返った。


「ごちそうさま。本当に美味かったよ」

「ありがとうございます」


 去り行く背に、笠原はもう一言だけ付け加える。


「やっと納得のいくカレーが作れました」


 そう告げる彼がどんな顔をしていたのか、伊沢には見なくても分かる気がした。

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