2.

 爺さんは、病的な健康マニアだった。

 健康法マニア、と表現するのが正確か。

 テレビや雑誌でネタを仕入れ、次々に怪しげな健康法を試していた。


 ぶら下がりがいいと聞けば、年金をはたいて高い器具を買う。

 片足立ちが有効だと流行すると、日がな一日、片足で過ごそうとチャレンジした。

 特に執着したのが、食に関する健康法だ。

 キャベツ、バナナ、トマト、玄米。これを食べたら医者いらず、そう聞いた途端、爺さんはひたすら同じ食材を食べ続けた。


 本当に健康長寿を目指していたのか、甚だ疑わしい。

 何かを食べない・・・・健康法には興味を示さなかったし、一つの健康法は一ヶ月もしないうちに飽きてしまう。

 毎度、大量に食材を買い込むものだから、余った野菜や果物は他の家族で必死に食べ切った。

 俺がバナナを好きじゃないのは、このためだ。もっとも、これくらいではトラウマになりやしないが。


 俺が中学生になった頃、爺さんは少し痴呆を発症して、珍妙な言動が増えた。

 祖母は先に亡くなっていたので、両親と俺で爺さんの奇行を監視しないといけない。

 真夜中に裸で立ち呆けたり、水道を全開で出しっぱなしにしたり。実害が出ることも多々あったので、なかなかに面倒臭い。

 そんな頭になっても、爺さんの健康法への執着は止まなかった。


 “冷し中華でビタミン完璧”に、“一日五食で寿命は五年延びる”。“チョコレートパワーで元気倍増”とか、よく探してくるもんだと思う。

 中学三年の冬、爺さんが仕入れてきたのは、ミルク健康法だった。


 いつの間にか三か所と契約した爺さんのせいで、家族皆でも飲み干せない牛乳が届く。

 さすがにすぐ契約を取り消して回ったが、その隙に爺さんは別の店へ電話していたらしい。

 翌日には、きっちり同量の牛乳が配送されてきた。


 爺さんだって元より腹が弱いし、年寄りが大量の牛乳を飲むのは不可能だろう。

 コップ一杯で苦しくなり、二杯目を悔しそうに睨む顔をよく覚えている。

 最低でも五杯は飲まないと効果が無い、だったか。

 爺さんの呟きがどこまで本当かは知らないが、少なくともチャレンジは幾度も繰り返された。


 朝起きて一杯、昼にまた一杯、午後にはムキになって二杯。

 途中で牛乳を盛大に噴き出してしまい、母が雑巾を片手に駆け回った。

 すえた牛乳臭が、家の中に立ち込める。

 普通でも臭いんだ、アレ。何度も床へこぼすものだから、消臭剤くらいでは追いつかなかったよ。


 牛乳騒動の三日目、両親にきつく諭された爺さんは、牛乳を飲むのを諦めた。

 朝から夕方まで牛乳に手を出さなかったと聞いて、学校から帰ってきた俺も胸を撫で下ろす。

 遠戚の法事に出るため、両親は泊まりがけで出掛ける予定だった。

 つまり、翌の土曜は、夕方まで俺と爺さんの二人しか家にいない。

 トラブルが起きるんじゃないかとヒヤヒヤしていたから、牛乳掃除が無くなっただけでも嬉しかった。


 晩飯、入浴、受験勉強を終えて就寝と、何事も無い夜が更ける。

 ああ、助かった――その安堵は、数時間後に打ち消された。

 真夜中、深夜三時くらいだったかな。階下から異音が聞こえてくる。

 ゴトンと冷蔵庫のドアを締める音、そして足を引きずって歩く気配。爺さんで間違いなかろう。


 火や水道が心配で、母さんはしょっちゅう起こされていたみたいだ。爺さんが強引に寝室まで引っ張っられていく騒ぎも、日常茶飯事だった。

 だけどこの夜は、誰も様子を窺いには行かない。俺しかいないのだから。


 たまたま疲れていたから。或いは、一晩くらいなら大した事態にはならないと楽観したからか。

 何れにせよ、睡眠を優先した俺は、また耳を塞ぐように布団へ潜った。

 牛乳で汚していたら、拭けばいいだけ。深夜に爺さんの相手なんかしたくない。


 目が覚めた時、俺はまだ異様な音が続いているのに気づいた。

 小虫こむしの如く、不安が背中を這い上る。


 スウェットの上下に着替えて、俺は階段へと向かった。

 段を下りる毎に、音は次第に大きくなる。

 てっきりキッチンからしたと思った物音は、そこから奥へ続く廊下から発していた。

 おそらく壁を叩く音に、小さく水が撥ねるビチャビチャとした響きが混じる。

 まさかまた洗面所の水を溢れさせたのかと、足を早めた。


 おうっ、と叫んだか。爺さんの声に違いない。

 上気して少し甲高く聞こえたが、爺さんは独り廊下で唸っている。

 それにこの強烈な匂いは――。

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