3.

 一階、階段を下りた先の廊下は、真っ白だった。

 ぶちまけた牛乳が床一面に膜を張り、廊下もキッチンも漏れなく白に塗り潰されている。

 こぼした、などと言うには、あまりに量が多い。


 靴下を脱いだ俺は、息を詰めて白い廊下へ足をつけた。

 冷たい牛乳が、足の裏を冷やす。

 それも不快だが、一歩、二歩と進むと、ぬるりと滑る感触がさらに神経を逆撫でた。


 足が滑ってコケそうになった体を、壁に手を突いて支える。

 その壁もまた牛乳まみれなことに、ここで思い知らされた。


 よく見れば、本来なら白い壁紙も酷い有り様だ。

 ベージュの斑点があちこちに付いて、気味の悪い紋様が生まれている。手形をしている斑点もあるから、これも爺さんの仕業であろう。

 牛乳よりくすんだ茶色に振れているのは、手が汚かったからなのか。


 こんな惨状を、一体どこから始末すればいい。心中で弱音を吐きながら、声のする元へと歩む。

 空の牛乳パックや瓶が無造作に転がっていて、危うく踏みそうになった。


 途中で洗面所に寄り、バスタオルを掴んで廊下へ戻る。

 予想はしていたが洗面所も白濁液で汚され、積んだタオルの半分は洗濯し直さないと使えまい。

 バスタオル一つで何が出来るという状況ではなくても、せめて助けになるものをと、強く握りしめた。


 突き当たりを右に折れれば、残るのは両親と爺さんの寝室だ。

 爺さんはその廊下の中程で、こちらを向いて仁王立ちしていた。


「おうっ! 淳司!」

「何やってんだよ!」

「おうっ、おうっ」


 爛々と輝く目を見開き、爺さんは奇声を上げる。

 何が楽しいのか、声に合わせてリズムを取るように壁を叩きもした。

 近寄ると、異臭のきつさに鼻が曲がる。

 もう牛乳ではなく、もっと別の何物かが廊下中を漂っており、その正体を考えるのを脳が拒否した。


 爺さんの足元には、固形の欠片かけらも見え、色も白に加えて黄色や赤も筋を描く。

 どこかで怪我もしたのか、爺さんの服も同様にいくつもの赤い点で彩られていた。


「健康じゃ! おっおっ、ほれ!」

「やめろよ、振り回すなよ!」


 爺さんは右手で牛乳パックを持ち、そちらにはまだ中身が入っているみたいだった。

 その手で壁を殴るものだから、近寄った俺の顔にまで牛乳のしぶきがかかる。


「お前も、ほれ! けん、けんこっ」


 急に真顔に戻った爺さんが、パックを逆向けて一気に牛乳をあおった。

 口から溢れた白液が、また爺さんの服を伝って廊下へしたたる。


 飲み尽くせば落ち着くのかと考えたのは、甘い期待に過ぎなかった。

 パックを投げ捨てた爺さんは、鼻息荒く俺を見据える。

 とても年寄りとは思えない動きで間合いを詰めると、ぶつかる寸前で急停止した。


 無言で対峙する一拍の後、爺さんの口が開く。

 口腔に蓄えていた牛乳が、俺の顔へ吐き出された。


「げえっ!」


 突き飛ばしたのは、反射的な行動だ。

 悪意も、もちろん殺意も、そこには存在しない。黙って吐瀉物を浴びれる者が、どれくらいいるというのか。


 ただ、中学生の力は、老人には堪えられないほどに強い。

 数歩バタバタと後退あとずさった爺さんは、後ろへともんどり打って倒れた。


 それからの一週間は呆然としたまま過ぎてしまい、自分の身に起きたことだという実感に乏しい。

 救急車を呼んだのは俺で、警察には病院から連絡が行った。親にも電話がされ、急遽帰宅したことになっている。


 どうにも記憶が曖昧だ。牛乳に広がる血溜まりと、痙攣する爺さんの指は鮮烈に覚えているのだが。

 後頭部の強打と、その際に負った裂傷からの大量出血が死因だとされる。痴呆による奇行、その末の事故と処理されて、俺の責は問われなかった。


 他人事みたいに感じていようが、俺の心には傷がついたらしい。

 ミルク状の液体に固形物が入ったホワイトシチューは、封じた記憶を蘇らせ、激しい嘔吐感に襲われる。

 トラウマというのは、こういった症状を言うのだろう。

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