突端

「回れ、敵は東回廊だ!」

「「「おうッ!」」」


 駆け回る帝国海兵の声と装具の響きが要塞内に木霊こだましている。東回廊と呼ばれる長い渡り廊下の端で、わたしは動けなくなっていた。急激な虚脱感と耐えがたい全身の痛み。魔導狂化の反動は声も出せないほどに肉体をさいなんでいた。


 ――死ぬのか、こんなところで。


 でもまあ、それでもいいと、わたしは笑う。命より大事な魔王様は、手のなかにあるのだから。


「そんな、わけに……いく、かッ!」


 途切れそうになる意識を必死で繋ぎ止める。奴らに捕えられたら、また引き離される。贄だか繭だか知らないが、おかしな企みに利用されるのは許せない。そんな目に遭うくらいなら……


 ふたりで、海に飛び込もう。

 暗闇のなかに一陣の光が差す。道が開けた。敵兵は階下に向かう道を塞いでいる筈だ。上層に繋がる道は少なくとも下より警備は薄い。非常用の昇降口らしい梯子を見つけた。軋む鉄桁をつかんで登ると、その下を海兵の一団が駆け抜けて行く。


「いないぞ、どこへ……!」

「4層の階段脇で死体が」

「間を抜かれた可能性がある、3層にも人員を回せ!」


 未発見だった死体は登ってきたときに仕留めた海兵だろうが、目眩めくらましの役には立ったようだ。最上部まで登って鉄の扉を押し開ける。

 隙間から風が吹き込み、潮の匂いがした。


「おお……」


 まだ明けきらぬ夜空に星が瞬き、厚く垂れ込めた雲が流れてゆくのが見える。

 荒れていた風も止み、静かな朝が近いことを告げている。

 だが、わたしたちがそれを目にすることはきっと、ない。


 跳ね上げ扉を静かに閉じて、わたしは周囲を見渡す。

 海上要塞の最上層。魔王城の前庭ほどもある広く平らな石造りのそこにひと気はなく、四隅には接近する艦船に対しての攻撃用であろう各種砲台が据え置かれていた。

 厳重に防水布を掛けられたそれは弩砲バリスタ投石器カタパルトといった(一般にいう)攻城兵器で、どれも魔王城の虚心兵ゴーレムほどもある巨大さだった。

 上級魔族が攻撃魔法を使う魔王領軍では発展しなかった類の技術だが、こうしてみるとそれなりの有効性があるのは理解出来る。


「兵個人の能力だけでは、戦力差を埋められない時代か。そんなときが来ることを見越していたのは魔王様くらいだったな」


 その炯眼けいがんが皮肉にも、魔王領軍内に不協和音を生むきっかけになったのだ。

 離反した叛乱軍は新魔王陛下と工廠長の生み出す新しい技術と戦術に駆逐されつつあるが、わたしには彼らを暗愚と罵ることは出来ない。魔王を裏切ったことはともかくとして、先見の明がないことについてはわたしも変わりはしないのだから。


「さて、行きましょうか陛下」


 海上要塞最上層には、大洋に面した西側に大きく張り出した台座があり、その突端には40フート(約12m)ほどもある頑丈そうな鉄製のやぐらが建っていた。

 わたしは垂直の梯子に手を掛け、頭上の物見台を目指して登り始める。あの高みはきっと、最期の舞台には相応しいものになる。

 半分ほども登ったとき、眼下で下層階に繋がる扉が蹴り開けられ、帝国海兵たちが乗り込んでくるのが見えた。

 どうでもいい。いくら増援を送ってこようが、いまさら彼らには、わたしたちを止められない。


“……セヴィ、リャ”


 声が聞こえた。

 くぐもってひび割れ、裏返ったように甲高くひずんで聞き取り難いが、わたしがその声を聞き間違うことなどあり得ない。

 耳ではなく頭に直接響くようなそれは、恐らく陛下の納められた容器から伝わってきているのだろう。


「陛下、お目覚めですか。待ち切れずお迎えに上がりました」

“……余計な、ことを”

「はい?」

“誰が、そんなことを、命じた”

「独断です。お叱りなら、後ほど存分にお聞きいたしましょう」

“わからんのか、などないのだ! すぐに俺を下ろして逃げろ、お前ひとりなら出来る筈だ!”

「申し訳ありませんが、いまのわたしには出来ません。する気もないです」

“命令、だ!”

「聞けませんね。わたしは、陛下の指揮権から外された人間ですか、らッ!」


 精一杯の皮肉を込めて、わたしは応える。思わず小さく笑い声を上げると、腹筋が軋んで梯子から手を滑らせそうになった。


“元々、来るべきではなかったのだ。俺の部下たちがどうなったか知らんのか!”

「彼らは、幸せにやっていますよ。少なくとも、いずれそうなる筈です」

“……?”

「ふたりきりの旅路に無粋な話はお止めください。彼らには彼らの、わたしたちには、わたしたちの生き様があるのです」


 物見台に出て、わたしは息を呑んだ。

 日の出前の静けさを彩る、どよめきに似た遠い海鳴り。背後の水平線から淡く広がり始めている光。海面は黒に近い濃紺から春の空のような明るい青まで無数の色彩に分かれ、合間に白波が飛沫を上げてきらめいている。

 眼下に満ちているものは、この日を生きる命が動き出す瞬間を切り取ったような光景。それはまさしく、絶景だった。

 眼下でうごめく帝国海兵さえいなければ、いつまでも眺めていたいほどの美しい景色。


 東側の陸地で煙っているのは、昨夜の砲撃で焼き払われた貧民窟スラムか。

 遠目で眺める限り被害は思っていた程ではなく、焼けているのは露店が並んでいた海側の職業区画だけだ。荒天の夜であれば、ひと気もほとんどなかったはず。路上には荷物を抱えた色とりどりの人影――少なくとも帝国軍の兵士ではない――が走り回り、早くも修復作業が始まっているように見える。


「良かった」


 呟いたわたしの足元に、いしゆみの矢が突き立つ。怒号とともに短剣を咥えた海兵の集団が上がってくる。櫓を切り倒そうとでもいうのか、戦斧を振り上げた男たちの姿まである。


「砲艦が戻ったぞ!」


 海兵たちの声に見下ろすと、彼らは陸地寄りの海面を指していた。

 島影から、何かが現れた。小さな山ほどもある船。あれが帝国海軍の戦艦とやらか。見慣れぬ井桁に群がった男たちが布を張り直すと風を孕んで膨らみ、船は急速に回頭してこちらに向かって来た。

 船体側面から突き出しているのは要塞最上層ここに据えられているような投石器や弩砲だろう。それでこちらを叩くつもりなのだろうか。船が向かってくる理由も、それを見て湧き立つ心情も不明だった。

 たったひとりの侵入者のために、友軍要塞に攻撃を加えるとは思えないが。


 間近まで迫ってきた海兵を梯子の上から蹴り落とす。踵を垂直に叩き付けたことで、吹き飛んだ男は下の仲間を巻き込んで30尺(約9m)下の床面に叩き付けられる。血飛沫と悲鳴が上がり、怒りと憎しみの叫びが響き渡る。


“何を考えている、このままだと間違いなく死ぬぞ”


 吐き捨てるような警句さえ、いまは堪らなく愛おしい。


「死んでいたのですよ。あなたを失ってから、ずっと」


 息を呑んだような気配とともに、陛下の声が途絶える。羞恥と憤懣をぜにして、押し殺したような沈黙。


「すべてが灰色に見えていた日々も、これでもう終わりました。あなたが傍にいるのなら、他の望みなど、何ひとつありません」


“……この、馬鹿が。本当に、救い難い……”


 優しさの滲んだ、陛下の声。わたしは微笑みながら、物見台の手すりに手を掛ける。

「さあ陛下、参りましょう。夢にまで見た永遠の地ヴァルハレアへの旅路、お供させていただきます」

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