漂流者
どんよりと暗く濁った水を掻き分けるように、セヴィーリャは深い眠りから浮かび上がる。
周囲に物音はなく、魔王領の海より濃い潮の香りと、湿った苔の匂いがしていた。ひんやりとしていながら、どこか穏やかな空気。瞬きをしても闇の深さはほとんど変わらない。
手足は動く。身を起してみても、どこにも痛みもない。
ここはどこなんだろうと、記憶を反芻する。
ああ、そうだ。案内役の人狼から海に突き落とされて、そして……
「だから、いったじゃないか」
穏やかな女性の声がして、暗闇のなか誰かが近付いてくる気配がした。
まだ姿は見えない。どこかで聞いた覚えのある声。
鼻先まで来てようやく、薄ぼんやりとした人影が目に入るようになった。
「
「あなたは……」
峠道で会った老婆だ。
朱色のローブに、白髪交じりの朱色の髪。あのときより少し小さな網籠を抱えている。
「お腹が空いてるんじゃないかと思ってね。魚で良ければお上がり」
いいながら、彼女が網籠のなかから取り出したのは、海藻に包まれた魚。
「ありがとうございます。それに、助けていただいて」
「いいんだよ。しょせん、そのくらいしか返せない身だ」
意味がよくわからないが、自分に縁のあるひとなのだろうかとセヴィーリャは首を傾げる。
足を引き摺っているような動き。どこか違和感があった。
「ラムダだ。お嬢ちゃんは?」
「セヴィーリャといいます。ここは?」
「
「海底……」
屈んでいた彼女が魚油ランプに明かりを灯すと、ローブに隠れていた首筋の
「……
「そう、魔王領から逃げ出した恩知らずの
「いえ、とんでもない。そういう部族がいることは聞いていましたが、実際に会うのは初めてです」
「わたしらは、魔王領には棲めなかったからね」
「それは、迫害を受けたということですか?」
「いや、先祖は良くしてもらったと聞いているよ。ヒルセンてとこは遠浅の砂浜で波も穏やか、静かで綺麗な村だったって。ただ、ね。海まで綺麗すぎるんだ」
綺麗すぎるという意味がよくわからず、セヴィーリャは曖昧に頷く。
「
「なるほど。それで、わたしたちが
「それに、魔王領の海は南の端っこで、商いをするには人里まで
老婆が裾を持ち上げると、
お伽話で聞いたように魚のような形ではなく二股に分かれてはいるが、地面を長く歩くようには出来ていないのだろう。
「まあ、無事で良かった。
「もしかして、ケミルという人狼の青年ですか」
「ああ、殺されちまったのさ。胸を突かれて、首を切り落とされてた」
「……!」
「まあ、身綺麗に生きてたとはいえないんだろうけど、
セヴィーリャは懐を探り、革袋を差し出す。
「これを、受け取っていただけませんか」
「いや、受け取れないね」
「ですが」
「そんな大金を持ってちゃ、生き方を誤る。あいつだって、小銭を稼いで満足していれば、あんな死に方をしないで済んだんだ。あんたのせいじゃないよ。遅かれ早かれ同じことになってた。それは、あいつ自身が選んだことだ」
老婆に促され、セヴィーリャは食事を受け取る。見たこともない平たい魚を海藻に包んだまま蒸し焼きにしたもので、香草に似た風味と海の塩味が効いていて、美味かった。
「あんたも、囚われの魔王様を取り戻しに来たのかい?」
「……
「ああ、何人もね。ほとんど獣人ばかりだったが、なかには
「彼らも」
「殺されちまったか、捕まったままか。何にしろ
老婆は首を振る。
「まあ、止めたところで、諦める気はないんだろうね」
「……すみません。私には、どうしても彼が必要なのです」
離れた場所から遠巻きに見ていた何人かの気配が、揺れていた。
敵意はないが、好意もない。近付いてくる様子もなく、どこか闖入者の存在に怯えているようにも思える。
「いいさ。誰にだって譲れないものはある。わたしらには海軍の兵隊と戦う力なんてないが、途中まで送るくらいなら、協力してやれるかもしれない」
「……
若い声が、驚いたような、
「わたしらはいつでも、岩陰に身を潜めて
「それは、
「ああ。最初に焼かれるのは、たぶん
「どういうことです?」
「帝国にも税吏はいるんだよ。むしろ大陸で一番有能だ。
「まさか」
「何度かやってるんだよ。その度に、少なくない
「では、どうするというのです」
若い
「いまさら魔王を取り戻して何が変わるというのですか。そもそも魔王位は
「事実です。新魔王は登極されました。先代魔王様の奪還は、新魔王陛下の判断ではなく私の個人的な行動です。協力していただけると助かりますが、それによって
「では、断る。我が同胞は、もはや無駄死にさせられるほど残ってはいない」
老婆が、乾いた声で笑った。
「勘違いしてるね、コロフェ。このお嬢ちゃんに協力するのは、わたしだよ。あんたたちのことは、あんたたちで決めるといい」
「「「
「伝えておいた通りだ。麗月の夜、わたしは長の座を降りる。掟に従って、進む道も、新たな長も、自分たちで決めるんだよ」
老婆は立ち上がり、セヴィーリャに外を指す。行きかけた彼女は振り返り、残された者たちに声を掛ける。
「どうしても困ったら、新魔王陛下を頼ってください。変わった方ですけれども、信じて間違いありません」
洞窟の出口で待っていた老婆は、セヴィーリャを見て首を傾げる。
「そんなに大層な人なら、なんであんたはひとりでここに?」
棘のある口調ではなかった。その素朴な疑問を、セヴィーリャは微笑で受け止める。
「新魔王陛下は、人の恋路を邪魔するほど無粋な方ではありませんから」
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