閑話:銀狼の渇き
「どうなってんのよ」
人目が少なさそうというだけで選んだ、裏通りの酒場。狭いが落ち着いた雰囲気の店内には、おあつらえ向きに客の姿はない。
賑わう街中の喧騒から隔離されたその場所で、王国軍最強の潜入工作員、“血に飢えた銀狼”ことエルネス・アシガラは自らの置かれた状況に困惑を隠せずにいた。
そもそもの発端は、魔王領国境の町メレイアに開かれた市。王国侵攻の準備ではないかと警戒した南部国境城砦司令部が彼女をここに送り込んだのだ。
任務は敵情視察と、未帰還になった潜入工作員たちの消息を探ること。こちらはほぼ、絶望視されていたが。
「どうぞー」
目の前に白磁の皿を置いたのは、愛らしい笑みを浮かべる人狼の若い娘だ。皿には切り分けられた薄片が並び、そこに小さな木の棒が刺さっている。薄片は柔らかそうな白い表面に青い斑点。腐っているのではないかと思うが、不思議と嫌な匂いはしない。
「こんなのは頼んでないけど?」
「いえ、これは“ママ”の奢りですぅ、いまから持ってくるのには、これがピッタリなんだそうですぅ、私はまだお酒飲めないのでわかりませんけどぉ……」
酒が飲めないのは、身分の問題ではなく年齢によるものだといっているのか。つまり、時が経てば飲めると。
エルネスは改めて彼女を見る。見つめられ照れたように笑う人狼少女は、確かに若いというより幼かった。
獣人であることから魔族のなかでも低階級なのだとは思うのだが、ゆるやかに波打った柔らかな銀髪がキラキラと輝いて、肌も艶と張りがあって汚れなど微塵もなく、エルネスは自分のみすぼらしさに気が滅入った。
――この子が本物の銀狼、私はさしずめ
いや、みすぼらしいというのは私の――少なくとも私だけの問題ではない。王国貴族にもこれほど美しく整えられた身なりの者などいないのだから。
魔王領の民というのは、これほど身綺麗だっただろうか。そんな話は聞いた覚えがないのだが。
「ふっふーん、あったわよー」
赤茶けたガラスで作られた酒の容器(“ぼとる”とかいうらしい)を持って、店主が奥から出てきた。鼻歌交じりで棚から酒杯を取り出し、何やら悩みながら選んでいる。
男なのか女なのか人間なのか魔族なのかよくわからないが、えらく人懐っこい笑顔と柔らかな口調の人物だ。知り合いでも何でもない。最初は、ほんの一杯だけ水をもらって情報を得たら出るつもりだったのだ。
水を一杯、とだけいってカウンターに置いた
何とこの店主、
磨き上げられた真鍮の器に注がれて、出された水は確かに全て違っていた。
冷たく澄んだ硬質の清水。柔らかく甘い軟質の泉水。前ふたつより低質だがほのかに懐かしい味の濁りを感じるのは王国でも飲まれているリニアス河の水だろう。なぜか不自然なほど澄んでいたのが不思議だったが。
最後のは飲む前に気付いた。魔導師以外ではわからない程度に、わずかな香草の香りがする。罠かとも思ったが、感じ取れた薬草は7種類。毒はなく薬効も血行促進と滋養強壮、解毒と貧血回復、といった類のもの。ひとつ下剤の成分も含まれるが、これは便秘に悩む王国貴族がこぞって買い求めるもので、高価な秘薬だ。
思い切って飲み干すと苦味もなくするりと喉を落ち、身体の奥がふわりと軽くなる感じがした。
素晴らしい味だったが、水ではない。常用回復薬だ。しかも銀貨では買えない。
飲んだ感想を訊かれて、正直に答えた(というか、どういうつもりか詰問した)のが良かったのか悪かったのかわからないが、店主は“違いのわかるひとを待ってた”などと大いに喜んで奥から秘蔵の酒とやらを持ち出して来て、いまに至る。
「お待たせエルネスちゃん、これこれ、これなのよ……」
「いえ、いけません店主さん、まだ日も高いうちからそんな、もう本当、に……」
拒絶の言葉を口ではいいながらも、エルネスは心のなかで思わず息を呑む。
何の変哲もない大振りの酒杯。小さな樽を半分に切ったような、大きさと形。だがそれは、
琥珀色の
エルネスには何故か、大きな酒杯に並々と注がれたそれが液体というよりも雫の集合のように感じられた。天窓から差し込む午後の陽光が、キラキラと輝きながら澄んだ琥珀色を透かし、いくつもの色合いに拡散しながらガラス製の器からカウンターに柔らかな帯を作る。
――嗚呼、何て綺麗なんだろう。
「ウィスキーっていうの。麦のお酒を蒸留……っと、そうね、エールをギュッと濃くしたものと思ってもらえればいいかしら」
蒸留はわかる。魔導師なら製薬で使う秘法だ。身分を明かすことになるので、エルネスは何もいわず、黙って頷いた。知ってはいても行ったことは数えるほど。酒造ごときに使っていいものではないし、こんなに大量に行える作業でもないのだが。
「魔王領の自信作よ。味のわかるあなたに、是非飲んでみてほしいの」
「え、ええ……」
いくら濃くても酒は酒だ。死ぬことはなかろう。それにこの香ばしく焦げた木の香り。淡く立ち昇る陽炎のような酒精。エルネスは覚悟を決め、唇にグラスを当てた。
ぐびりと、喉が鳴る。鼻に抜ける芳香。やはりこれは雫だ。一滴ずつ厳選した酒精の粒を貯蔵し、静かに年輪を重ねたような重みがある。ぐびりと、また喉が鳴った。身体を落ちてゆく雫のひとつひとつが、ころころと喉を、食道を優しくくすぐりながら転がって胃の腑で熱く燃え上がる。堪らない。もう我慢できない。
気付けば、半分以上を飲み干していた。酒杯を下して、ほぅっと息を吐く。名残惜しそうな吐息。自分でも浅ましいと思ったが、両手で抱え込んだ酒杯を離せない。これは、
「良い飲みっぷり。気に入ってもらえたみたいで良かったわ、やっぱりわかるひとにはわかってもらえるのよね。消毒用アルコールを作る必要があったものだから、ついでにこういうのもどうかっていったんだけど、誰にも理解してもらえなくて。評判が良かったら販売に回してみるつもりだけど、最初のうちはたぶん客層を選ぶと思うのよね~」
「売る? これをですか!?」
「どうかしら?」
「どう、って……信じられないほど美味しいとは思います、が……」
まず蒸留工程をそれほど大規模に行えるというのが信じがたい。が、先ほどの水……というか回復薬を、店で出すという話を聞いた気がする。しかも、金も取らずに。
“お高めの食事を頼んでくれたお客さんには少し良い水を出したいの”、だったか。
あれを“少し良い水”と呼ぶのはどうかしてると思うのだが、ともあれ
“王国軍潜入工作員の”エルネスは、静かに戦慄した。
「それとね、このブルーチーズ。これがもうウィスキーにピッタリなのよ。癖は強いんだけど、試してみてくれる?」
「ブルーチーズ?」
「青カビをね、植え付けるの。腐ってるんじゃなく、発酵……ってわかるかしら」
「チーズは王国にもありますよ。もっと硬くて黄色い」
「ハードチーズね。あれも悪くないんだけど、ウチはいま柔らかくて溶けやすい調理用のナチュラルチーズと、こういう癖の強いブルーチーズ、あと
こちらの警戒心を解くためか、店主は薄片のひとつを口に入れる。
「ああ、これ客層選ぶわ。ダメなひとは絶対ダメね」
「そんなに、癖があるんですか」
エルネスも興味半分、付き合い半分で薄片を口に入れ、激しく後悔した。塩辛く苦酸っぱい。何より臭い。腐敗臭ではないが、腐敗臭よりひどい。
口を洗おうと酒杯を傾け、目を剥く。口のなかで、何かが起きた。濃い“うぃすきー”と混じり合って、ブルーチーズの悪臭が淡く心地よい芳香に変わる。洗われたのではない。溶け合ったのだ。高め合い、慈しみ合うような、素晴らしい
酒杯を置いて顔を上げると、店主が幸せそうな顔でエルネスを見ていた。
「わかってくれた?」
「これは……どうなって、いるんだか。美味しいですけど、信じられない」
「それよ。そこなのよね、
酒杯を呑み干し、立ち上がると軽く眩暈がした。酒好きの夢を体現したような美酒だが、想像以上に
「お代は」
「もう、いただいたわよ。これお釣りと、お土産ね。この店のお代は、大体このくらい」
大銅貨が数十枚。あれほどの酒が、銀貨半分というところか。カウンターに小さな“ぼとる”と、小さな紙の箱が置かれていた。
「ブルーチーズと、
「お釣りは結構ですので、訊きたいことがあるんです。メルカンという娘を知りませんか。小柄で赤毛、
「あら、王国のメルカンちゃんなら、もうすぐ」
「お待たせさまーお昼お持ちしましたー」
「「ああああ!」」
エプロン姿で大きなバスケットを持って現れた笑顔の少女は、エルネスが探していた“消息不明の潜入工作員”。ご丁寧に連絡筒を運ぶ筈の“消息不明の伝令鳥”まで、肩に止まっている。
メルカンはアワアワと震えながらバスケットを店主に手渡し、逃げようか謝ろうか戦って退路を確保しようか考えて、止まった。
「あ、あはははは……ごめん」
「ごめんじゃないでしょ! どんだけ心配したと思ってるの!」
「だって、ここあんまり楽しくて、みんな優しくて、つい……」
「まあまあ、ふたりとも落ち着いて。エルネスちゃんも、そんなに怖い顔しないの、せっかくの美人が台無しじゃない。彼女ずっと“故郷のお姉ちゃん”のこと気にしてたし、放り出しちゃった自分のお仕事のことも気に病んでたんだから。彼女の話を聞いて、これからのことを考える時間をあげてちょうだい。ね?」
店主が持ったバスケットからは、焼き立ての美味しそうな匂いがしている。怒りはまだ収まっていないのに、酒と水だけしか入れていない腹が浅ましい音を立てる。
「メルカンちゃん、この後は休憩でしょ? ちゃんと謝って、ちゃんとお話ししなさい。いいわね?」
「はい……」
「じゃあ、ふたりでご飯に行くといいわ。エルネスちゃんも、少し魔王領の料理でも食べていってちょうだい。美味しい物食べたら、良い考えも浮かぶものよ。それでもまだ困ったことがあったら、アタシが
店主はエルネスの手に“ぼとる”と小箱の入った手提げ袋を渡し、メルカンの手にはカウンターにあった大銅貨を全部押し付けた。
店のドアを開けて外に出ようとしたエルネスは、振り返って店主を見た。何をいえばいいのかもわからず、少しだけ迷う。帰りたくないといったメルカンの気持ちが、いまでは痛いほどにわかる。孤児院育ちの自分たちに、ここは毒だ。居心地が良過ぎる。
「……また来ます、必ず」
「ええ、待ってるわ」
おかしな店主は、ふわりと笑った。
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