追記: 姫騎士の敗北
「……侵略?」
わたしは眉を上げ、目の前の男を見た。ハーンと名乗ったこの新生魔王は、女のような細面に穏やかな笑みを浮かべ、異国の訛りなのか、ひどく柔らかに話す。
魔王領に送り込んだ密偵によれば、ハーンには腕力も魔力も兵力もない筈なのだが、初対面から常に不自然なほど無防備なままだ。これで相手が馬鹿や腑抜けであるならば、話は簡単なのだが。
「考えてみてくださいな。あなたの味わった菓子。あなたが触れた洗髪料と化粧品。もしそれが一回だけの体験としてでなく、
まただ。魔王ハーンは実に楽しそうに、目を輝かせてこちらを見る。何を考えているのかは読めないまでも、ジワジワとこちらを侵食してくるものは感じる。忌々しいのは、それが必ずしも不快ではないこと。魔術や幻術とは、おそらく違う。何かもっと、強力で、単純なものだ。それは胸の奥に染み込み、ジワリと妙な熱に変わる。
わたしは目の前の皿を見下ろし、魔王の力に怖気を震う。咲き誇る花畑のような輝きと、色彩。これが食い物だなんて、誰が思うだろう。
これが魔術か何かなら、まだ救いはあったのだ。だが甘く豊かな香りによって、現実逃避さえ許されない。もともと敏感な味覚と嗅覚が災いして、私にはそれがどれほど恐ろしいことなのかを思い知らされる。
挽き方の違う3種類の小麦、山羊の乳と乳脂、卵、砂糖、蜂蜜、4種類の木の実、7種類の果実、4種類の香草と、3種類の酒。麦芽糖とやらは聞いたこともなかったが、他はほぼ全て王国でも揃えられる。ひとつひとつは数百年前から存在する、何の変哲もない食材によるものだ。
だが、王国で――いや、大陸のどこでも――こんなものは生まれなかった。いままでも、きっとこれからもだ。
これがいつでも手に入るようになったら。
いわれるまでもない。そんなことは誰でも最初に考える。そして、まず最初に怖れるのだ。
「それは商人の範疇だな。しかも、いまは戦時だ。大陸全土に戦火が広がっているなかで、貴殿のいう“文化”とやらは 、生きていくのに必須なものではない。塩や麦とは違う」
「……まあ、そこは仰る通りね」
「恐らくどれも高価なのだろうし、数が
冷淡に対処する自分の声を聞きながら、わたしは身中でうねる焦燥を持て余している。
興味がない。必要ない。相手の価値を否定することでしか、こちらには優位を保つ手段がない。悪手なのはわかっているが、戦でいえば壊走寸前のいま、劣勢を示せば押し潰される。包囲される前に撤退して体勢を立て直すのだ。
いまの王国民は、こんなもの最初から知らぬ方が良い。手に入れてから奪われるのは残酷すぎる。魔王ハーンのいう“侵略”とは、そういうことだ。こちらに戦う術がないまま、敵軍を引き入れるなど自殺行為でしかない。
だが、心が揺らぐ。激しく何かを求める。理屈では止められない。感情が抑えきれない。違和感の正体。拒否感の実態。自分がいるべき場所にいないという、行き場のない疎外感の、本質。
「将兵の方々には、比較的ありふれた麦の粥をお出ししておいたのよ。お肉を多めに入れて、味もアタシが保証するわ。大蒜と生姜と薬草を効かせて、熱々で栄養満点で量もたっぷり。それはそれで悪くないものだと思うんだけど……ねえ、あなたとの扱いの違いが何なのか、わかるかしら?」
地位? 階級? 性別? 利害? 趣味嗜好? そんな単純な話なら、わざわざ答えなど求めない。物の価値がわかるかどうか? 近いが、ちょっと違う。同じ
それを口にすると、それを受け入れると……自分が壊れてしまいそうだったから。
目の前の男は、他の誰とも違う。どちらが上とか下とかじゃない。魔族であることも、能力の優劣とも関係ない。仇敵であるはずの相手と、忌むべき魔王である筈の男と、接しながら、話しながら、何度も思ったのだ。
「魔王ハーン。わたしには答えられない。答えたくない。違いがあるとしても、そんなものに意味はない。
「いいわね。そういうの好きよ。自分がどうあるべきか、どうあらねばいけないのか、あなたにはわかっているのね。何もない者と同じように、いいえそれ以上に、持ってしまった者、知ってしまった者にも悩みと苦しみがある。目を瞑り耳を塞いでも、何も変わりはしない。あなたは……
「黙れ! お前にわたしの何がわかる!? 何も変わってなどいない、変わるはずがないんだ! 女子供の手慰みに過ぎない菓子や香油で、この乱世を変えられるとでも思っているのか!」
「もちろんよ、マーシャル王女殿下。いったでしょう、アタシの……
わたしがハッと顔を上げると、ハーンの唇に淡い笑みが浮かぶ。驚くほど明け透けな、意外なほど無垢な、泣きそうなほどに温かな、その笑みを見ながら、わたしの心は静かに震える。
――ああ、そうか。
わたしは思い知った。やはりこの男は、魔王だ。
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