初めての終戦

 屍山血河。

 それは目の当たりにすると、言葉で見るほど生易しいものではなかった。足首まで漬かるほどの血糊の海に立ち、姫騎士マーシャルは呆然と顔色を喪っている。白銀の甲冑は血脂に濁った照りを浮かべ、純白のマントもいまは赤黒く染め上げられて見る影もない。


 帝国軍はなまじ精強だったのが裏目に出たのだろう。城内に入った先頭集団が壊滅したのを魔王軍の特殊な攻撃か何かと判断したらしく、手を変え品を変えまとまった数の兵を強行突入させては“覿面の死”によって全滅を繰り返した。

 最終的に撤退を決断することなく指揮官は死に、小一時間もするとわずかに生き残った雑兵がようやく壊走を始めたが、その時点で数は百を切っていた。

 工廠長イグノにより、彼らも自陣に帰り着くことなく帰路の山中で死亡したとの報告があった。状況は不明だが、彼女の得意げな顔を見る限り、おそらく機械仕掛けの何かが動いた結果なのだろう。


「……ああ、と。ごめんなさいね? ここまでのものになるとは思ってもみなかったものですから」

「見え透いた嘘をくな」


 溜息を吐いた姫騎士はレイチェルちゃんから濡れタオルを受け取り、血塗れの手と顔を拭う。隣で同じように降り掛かったはずの血飛沫が、アタシの身体には付着していない。どういう理屈なのかは知らないけれども、レイチェルちゃんも同様なところを見る限り何かの魔術的障壁のようなものがあるのかもしれない。

 いずれにしても姫騎士から見れば反則である。


「上階にお風呂を用意しているのだけれども、よろしければ、いかが?」

「そこまで周到な準備をしておきながら、この状況が想定外だとでも?」

「いやねえ、こんなことが起きなくたって、お風呂は毎日入るものでしょう?」


 姫騎士はわずかに怪訝そうな顔をする。この世界では入浴の習慣はそこまで一般的でないのかもしれない。


「血を被った重臣の方々には使用人の浴室を使ってもらうから、あなたは王族用の浴室に案内させるわ。セバスちゃん?」

「承知しました。姫様、こちらへ」

「おい待て、あの者は」

「ああ……大丈夫、女性よ。事情があって、あんな恰好をしているけど気にしないでくれると助かるわ」


 姫騎士は振り返って傍らに目をやる。ようやく目を覚ました騎士ソーマンが周囲の光景に言葉を喪っているのが見えた。

 幾重にも積み重なる完全装備の騎士と軍馬の死体は彼の視界を塞ぎ、肌にまとわりつき衣服に染み込む血糊の感触は彼を困惑させる。キョロキョロしたところで説明してくれるような人間はいない。救いを求めるように手が伸ばされ、唇からは悲鳴に似た呻き声が漏れる。


あれ・・でも王国で五指に数えられる剣士だったのだぞ。それが武器も持たぬ女性にょしょうに、なすすべもなくやられたというのか」

「セバスチャンは、この新生魔王領で最強の騎士よ。……まあ、それが慰めになればいいんだけど」


 小さく鼻を鳴らして、姫騎士は城に向かった。

 残されたアタシは崩れた玉座にへたり込んだまま、目の前の惨状に目を覆う。


「……勝ったは良いけど、どうすんのよ、これ」


◇ ◇


「待たせたな」


 小ざっぱりとした私服に着替えた姫騎士が、応接室の椅子に腰掛ける。何をどうしたのか知らないけど、髪の毛が凄まじい輝きとボリュームになっていた。肌も明らかに艶と張りが出ていて、生まれ変わったかのようになっている。

 落ち着かない様子で髪に触れる王女殿下は、その秘訣を知りたくて仕方がないようだが、訊かれたところでアタシにはわからない。


 ――どこかで見たことあるわね、この感じ。


 得意げに鼻を膨らませているセバスちゃんを見る限り、魔王領にはまだ多くの隠し玉がありそうだった。


「訊きたいことは、色々ある」

「そのようね」

「だが貴国との関係を決するまで交渉はなしだ。何しろ、王国にとって魔王軍は不倶戴天の仇敵なのだからな。即位したばかりの貴殿に直接の責任がなかったとしてもだ」

「それなんだけど、ちょっといいかしら」


 姫騎士との間に横たわる長大なテーブルには、お茶と軽食の用意がしてある。前庭で供された茶菓子は片手で食べやすいようにと考えて焼き菓子だったが、今度のはプディングやタルトなど皿に取り分けることが前提の少し凝ったものが中心になっている。覚えている限りのレシピをレイチェルちゃんに伝授したのだけれども、オリジナルを遥かに越えたものに仕上がっている。

 姫騎士の目が菓子の上で泳いだのを、アタシは笑顔で見逃す。レイチェルちゃんが少しずつ色々な種類を取り分け、姫騎士の前に置く。美しく飾られたそれを見て、彼女は苦笑するしかなかったようだ。


「……これも貴殿の戦略か。だったら、もう十分に見せつけられた。この分野で・・・・・攻め込まれる限り、王国は敵わない。それは認めるが、これ以上の示威行為は何の意味もないぞ」


 アタシの前にも取り分けてくれたレイチェルちゃんに指で指示を出し、姫騎士に向き直る。口に入れて固まっているのは、たぶん想像以上に美味しかったのだろう。どこの誰が相手でも、自分の行った成果が喜ばれるのは嬉しいものだ。


「それもあるんだけど、本題は少し違うの。うちのメイドは菌の培養に長けていてね。砂糖もジャムもパンもヨーグルトも、彼女の知識と技術によるものが大きいのよ。つまりそれは、先代魔王の趣味みたいな研究の成果ってことなんだけど」


 ストックヤードの品揃えを見る限り、最初は多分、本当に美味しい物を食べたかったからなんじゃないかとは思う。

 でも、その先にあった扉は。少し意味合いが違っていた。


「それで?」

「醸造の研究にはいくつか副産物があるの。アタシが育った国には“医食同源”って言葉があるんだけど、力を付けて健康にするっていう食べ物の効果よりもっと積極的に身体に働き掛ける、薬としての食品。そして、それと表裏一体になったものも」


 束ねられた書類をレイチェルちゃんから受け取り、テーブルに乗せる。書類の表題を見て、フォークを持っていた姫騎士の手が止まる。


「“菌糸概要”?」

「薬になる物は毒にもなるの。その逆も同じ。付箋を挟んであるところを見てもらえるかしら」


 前半には自然界に常在する菌の効能と培養法、後半には醸造の失敗から発生した毒物についての詳細が記されていた。多くは食中毒程度で済むが、なかには重篤な症状を発生させるものもある。意図的に使用することで兵器並みの被害を生みだす物も。そのひとつ。ある種の菌は緩やかで確実な死を招き、しかもまったく・・・・証拠を残さない・・・・・・・


「……ケイオス、マイコトキシン。聞いたことはないな」

「じゃあ、その症状に聞き覚えは?」


 体内から血が流れ出して止まらなくなる。新しい血が作られなくなる。誰も原因を突き止められない。解毒方法は解明されていない。治癒方法もない。継続的に投薬・・・・・・されると、衰弱が進み死に至る。

 概要を読む姫騎士の動きが止まった。穏やかな雰囲気は掻き消され、上気した顔には憤怒の表情が浮かんでいる。


「わたしを愚弄するか! これは母と祖父を殺した、貴様ら魔族の呪いであろうが!」

「アタシは呪いについて詳しくないけど、魔力を注ぎ込み続けなければ持続しないんでしょう? 費やされる人月とコストを考えると、そんなに遅効性のものは不確実で非効率すぎると思うわ。そもそも魔術の類は使用されると痕跡が残るし、治癒魔法だかで対応策もあると聞いたんだけど、違う?」


 姫騎士は硬い表情のままこちらを見る。怒りや憎しみは彼女のなかで揺らいでいる。


「自分らの咎ではないとでもいいたいのか」

「その結果によって誰が得するのか、ということから考えて欲しいの。その毒は、王国東部に自生する憤怒茸から抽出されるものよ。標高の高い魔王領にはないわ。魔族の関与がないとまでは断言できないけど、継続投与が前提なら可能性は低い。魔族がそんなに長期間、王宮に出入りできるとは考えにくいもの。それにね、王国の、しかも直接の権力を持たない王妃を殺すことに魔族としてのメリットもないじゃない?」

「王国東部、だと」


 第二王子デルゴワールの領地。第一王子コーウェルと比べて、武力・知力・兵力・資産・人望・領地の生産力、全てでわずかずつ上回っている。第一王女マーシャルが人望と武力に偏っているため影は薄いが、為政者としての安定感は彼女の比ではない。兄コーウェルに劣る部分があるとすると、目的のために手を汚す覚悟と、それを担う裏の兵力・・・・だけだ。

 第一王子の謀略と考えるのが自然だが、第二王子派閥の暴走という線もないわけではない。いずれにせよアタシに判断は出来ないし、部外者が口を出す問題でもない。


「貴殿の言を受け入れたわけではないぞ」

「構わないわ。自分で検証した上で、結論を出してちょうだい。それは写本コピーなので、お持ちになっても結構よ」

「……魔王だけあって商人には向かんようだな。見返りも保証もなく手の内を明かして何もかも与えるとは。こんなもの、交渉とも呼べん。私が奪って利用したら終わりではないか。そちらには何の利益も残らんのだぞ」


 アタシは少し笑って、憮然とした表情の姫騎士に首を傾げる。宙に掲げた指先で、胸襟をこじ開けるように振るわす。


「お気遣いいただいて恐縮ですけれども、そんなに油断していて宜しいのかしら? 殿下が気付かない間にも、アタシたちは少しずつ侵略・・を始めているんですよ?」

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