儚きレムの中

五十嵐文之丞

長谷神綾那-1


夫と息子の食べた朝食の残骸をキッチンの流しに置き、無心の状態で水を放出させた。

水は瞬く間に食器たちをずぶ濡れにし

皿についた汚れを溶かす。


今年で小学校一年生になった幸雅の茶碗には

相変わらずご飯粒が残っていたようで

排水溝へと流れ去る水には幾つもの白い粒が混ざっていた。

それは銀色のシンクにこびりつき、流されまいと抗いつつ、私の神経を逆撫でしているように思えてしまう。


毎朝、八時半過ぎに欠かさず見下ろしている場面と必ず胸に広がる気持ちだった。


スポンジに洗剤を落とし、グシュグシュと揉んで泡立たせながら、戦隊ヒーローがデザインされた小さな茶碗を洗った。


そして次に夫の黄土色のシンプルな茶碗を手に取る。


結婚して今年で八年目になるが、夫の茶碗には一度もご飯粒が残っていたことはない。

そういう性格というわけではなく、私のこういう性格を理解してのことだ。


夫の八年間を思うと少しだけ切なくなる。


私に嫌われまいと孤軍奮闘する悲劇的な月日だから。

言葉にも行動にも形にさえも私への愛を示し続け、私の眉間に皺をつくらせぬよう毎日を生き抜いてきたのだ。


尊敬する。

そしてそれが人に恋をし、愛することだというのならば、強い憧れを抱く。


ゆっくり、力を込めて茶碗の底をスポンジで撫でる。


ふと見つめる泡だらけの自分の手は、昔のことがまるで夢だったかのように何の飾り気もない。

爪は短く切り揃え、マニキュアなんてもちろん塗ってなどいない。

塗る時間がないのではなく、塗る意味がない。

今さら自分にそんな華々しさを演出しても

日常は何も変わりはしないのだ。

それに、好きな色を爪に塗ったところで気持ちは満たされるほど軽症ではない。


薬指にあった指輪はいつから棚にしまったままなのだろう。結婚早々かもしれない。


夫には、皿洗いをしていると取れてしまうとか何とか言ったと思う。

デザインもブランドももう曖昧だ。


それを渡された時は幸雅がお腹にいることがわかった時だから、二十六歳か。

私はOL、旦那はまだ新米教師だった。


本当にただの偶然だった。

偶然、長谷神秀之介だったのだ。

少し何かが違っていたら、汚れを落とし終えたこの黄土色の茶碗は別の誰かのものだったかもしれないほど。


幸雅には、パパとママは心から愛し合って自分を迎えたものだと思ってもらいたい。

それだけが唯一の糧だった八年だ。


私たちの詳しい馴れ初めは誰にも話せるものではない。

中学時代の同級生ということが救いで、それだけで何とか切り抜けてきた。


白い皿を泡まみれにしながらため息をこぼす。

過去のことを思い返すと、今の自分の心を肯定しているような気になり嫌気がするのだ。


燦然と輝く若さが、燃え盛るような日々。


あの日々さえなかったのなら、こんな気持ちを抱えたまま朝を迎えることはなかったかもしれない。


✳︎


大学を卒業し、社会人になった私が何よりも胸を踊らせていたのは恋だった。


女子校、女子大と進み、男性との出会いにあまり恵まれない状況の中、縁はあっても心が奪われるほどの人に巡り会えなかった私は、高望みをしすぎてしまい、恋を知らぬまま十代を終わらせた。


ただただ純粋を守る処女膜が鬱陶しかった。

そうこうしているうちに入社し、仕事を覚える毎日を繰り返すことになる。


最初こそ想像していたものとかけ離れた地味な業務に陰鬱となっていたものの、それはいつ間にかジワジワとかき消されていく。

入社して半年が過ぎれば仕事に慣れたこともあり、出社することが少し楽しいとさえ思っていた。


もちろん一番は彼に会うことが楽しみだった。


彼とは。

今でも思い返すと、あの時の炎が火柱を立てて燃え上がりそうになるほど、生まれて初めて心の底から愛した人。

彼は私より十も歳上の、同じオフィスの上司だった。


名前は、漢字までちゃんと憶えているけれど想起したくない。

顔はどうだっただろう。

もう何年も会っていなければ写真なんてものもないので、少しだけぼんやりしているけれど、すごくハンサムだった気がする。

意思が強そうな目力のある二重、とってつけたかのような高い鼻、年相応に刻まれた皺。

その顔の特徴と逞しい体から漂う色気が、無垢な私に強烈な好意を植え付けた。


アプローチの仕方なんて全然知らないし、何より彼は既婚者だったので、その密かな思いを彼に示すことはなかった。


それじゃ私は何をしたのだろう?


仕事を頑張ったな。

褒めてもらいたくて、良く思われたくて、趣味も息抜きも捨てて必死だった。


名前を憶えてもらえたら嬉しい。

優秀だと、使える人材だと認めてもらえたら嬉しい。

いつも頑張っているね、なんて声をかけてもらえたら嬉しい。


そんな私の遠慮がちな望みは、少しだけ怖く感じたこともあるくらい叶えられた。

狙い通りに全て的を射たのだ。


そうして社会人一年目の冬を迎えた頃、遂に二人きりで食事に出かけた。


入社したての頃の飲み会で、美しく美味しい店を巡ることを趣味にしていると言っていた彼が、きっと知らないであろう店を探し当てて私から誘ったのだ。


誘うべきだと同僚に囃し立てられて、半ば投げやりだったことをよく憶えている。


だって、私が店を探したのは別に一緒に行きたかったわけではなく、ただ雑談の種になればいいと考えてのことだったから。


「奥さんがいる人を誘うなんて」


そうこぼした私に


「下心がなければ問題ない」


と一体どのものさしで測っているのか理解できない言葉を同僚は言い放った。

今思えばとても幼い。

しかし私はその言葉に背中を押されたのだ。


背中は押されてみるものだった。


夢にも見なかった彼との食事は、半生で一番の喜びと苦しさを味わった思い出かもしれない。

彼の話し声、仕草、笑み。

それを全て独り占めしている喜びと

それが決して自分だけのものになることはない苦しみ。

時々ライトに反射して光る彼の薬指から、私は何度目を逸らしただろう。

二度とないと思っていた。

これから先、もう一度二人きりで過ごす夜なんてあるはずないと。


でも、それを一夜の夢とするならば、夢は何年も覚めなかった。


その夜から一週間も経っていない中、今度は彼から食事に誘われたのだ。


誘い文句はなんだっただろう。


妻が旅行に出かけたから外食に付き合ってだとか、今度は俺のおすすめの店に連れて行きたいだとか、そんなことを言われた気がする。


考える間もなく二言返事をした。


そして胸の中の、密かに小さく灯っていた火が大きくなるのを感じた。


その日は翌日が休みだったこともあり、お酒をよく呑んだ。

ホテルの中にある店だった。

光が散らばった夜景を見下ろせるとてもハイソな所。


私は男が女をそういう所へ連れていく意味を知らなかった。その意味を理解できるくらい経験を積んでいたのなら、そもそも妻帯者の上司に恋心なんて抱かなかったはず。


気持ちよく酔った私と彼は、ごく自然にホテルの一室に足を運んだ。

その時の混濁した私は、酔いが回った自分を休ませるために、私がトイレにでも行って席を外した間に部屋をとってくれたのだと考えた。


もちろんそんなわけない。

最初から予約済みだったはずだ。


あの時は、私をその部屋に置いて、彼は帰っていくものだと思っていた。

そんな予想をしていたので、彼がシャワーを浴びはじめた時は全身が凍りついた。

同僚に電話をかけて、どうするべきか案をもらいたくなったほど。

でもこのことは絶対に知られてはいけないことだと思い止まり、覚悟を決めたのだ。


流れに、というよりは彼に、身を任せることにした。



シャワーを浴び終え、まだ濡れていた私の体が、既に乾ききっていた彼の体に包まれたのは、数回目の沈黙の後だった。


首筋に彼の顔が潜り込み、両手は、私の体のどこかに探し物でもあるかのように動き回る。

忙しなく興奮する様は少し可笑しく感じてしまうほどだった。

別に逃げたりしないのに。


二十数年間、私の純粋を守り抜いていた膜はあっけなく破れてしまった。

痛みは、彼の全てが根本まで入った時に感じた程度で終わり、それからは初めて知る快楽に胸の方が壊れそうだった。


それからだった。


何か明確な言葉を付けることもなく、私たちの関係は始まったのだ。

水面下で、まるで世を忍ぶ有名人の様に、食事をし、旅行をし、夜を明かした。


そんな彼と私の季節は三度巡った。


それらの日々の私の恋心は灼熱だった。


どうしても一番になりたいのに奪うことを恐れ、気を狂わせかけたことは、今では苦笑できてしまう思い出でもある。


幼かった、若かった、そして幸せだった。


私は何度も彼に愛していると言った。

言う度に彼はありがとうと言って笑っていた。

笑うだけで、一度も愛していると聞かせてくれたことはない。

それは三年間示し続けていた無言の答えだったのかもしれない。


夢の終わりは唐突にやってきた。


もしかしたら別れの気配を私が見落としていただけかもしれないけど。

私達の三年の日々は一本の電話で儚く終わった。

関係を終わらせる理由は、奥さんが妊娠したからだと説明された。


「子供もできるし、真面目になりたい」と。


私が彼に罵声を投げ付けたのはそれが最初で最後だったはず。

奥さんと生まれてくる子供を思っての別れに対して、身勝手だと責め立てることはできなかった。

その最後の電話は、私が携帯を床に叩きつけ壊したことで終わった。


彼との未来を見ていたわけではない。

ゴール無きマラソンのように思っていた。

愛しさにかまけてその果てを考えなかったことは、今でも失敗だと感じている。

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