エピジェネティック・クライシス

@yassy

第1話

「アリス、食べる速さはこれぐらいで大丈夫かな?」

『はい、一口あたりの容量、咀嚼速度、共に目標値の範囲内です』


イヤホン型の装置に組み込まれた筋電センサーと全周囲カメラで僕の顎の動きと食べているものを捉え、目標とする食べ方をアドバイスしてくれる。

PDA(パーソナルデジタルアシスタント)のアリスは僕の生活になくてはならない存在となっている。アリスは単なる「秘書」的な仕事をこなしてくれるだけではない。彼女の真価は、目標とするエピジェネティックな遺伝子発現のために望ましいと思われる行動に導いてくれる所にある。その点、このPDAは大昔に存在した同じ名前のデバイスとは完全に別物だ。

エピジェネティクスの研究自体は21世紀の初頭から行われていた。遺伝子の「スイッチ」をオン・オフすることにより様々な身体的変化を後天的にコントロールするエピジェネティクスは、いわゆる遺伝子組操作と比べると安全かつ有望な技術と見られた。当初、個人の生活のライフログをIoT機器により取得してビッグデータを集めればすぐにでもこの遺伝子発現をコントロールできるようになると思われていたが、集まった膨大なデータと莫大な数の遺伝子発現の組み合わせのパターンを捌ききれるだけの計算能力は当時の世界最先端のスーパーコンピュータでも持ち合わせていなかった。だが21世紀半ばになって実用化された量子コンピュータがこの問題を一気に解決した。スーパーコンピュータで数百万年もかかる計算量をわずか数秒で計算できる代物だ。そして、遺伝子発現のコントロールは一般人が利用できるサービスとして展開され始めた。元々、大学発ベンチャーとしてスタートしたクォンタム・マシーンズ社がこのサービスを始めると数年でユーザーが全世界に広がり、あっという間に世界企業番付500社の仲間入りを果たした。起業から数十年を経た今、遺伝子発現に関する超ビッグデータを保持する当社は世界のトップ企業として君臨している。個人の生活情報を個人が特定されない範囲で提供すればサービスの利用料は無料であり、多くの人が日常的にこのサービスを利用している。むしろ、サービスを利用していない人を探すのが難しいぐらいだ。もちろん、僕も利用者の一人だ。

とはいえ、過度に干渉されるのは息が詰まるので基本的に遺伝子発現に対して余程のインパクトがない限りはアリスの方から自発的にアドバイスを発することがないように設定されている。こちらから聞けば、遺伝子発現を考慮しつつ日常生活全般に関わるどんなことにでも最適なアドバイスをくれる。


昼食を終えて、レストランを出た。支払はアリスが自動でやってくれる。「アリス、次の目的地までは歩いた方が良いかな?」

『目的地まで徒歩で15分、本日必要とされる有酸素運動量の10%に該当します』

「うん、それなら歩こう。目標ペースの表示を頼む」

『かしこまりました』


暑すぎず寒すぎず、歩くのにちょうど気持ちよさそうな気温だ。

歩き出すと視野の端に数字が表示される。僕の脈拍や呼吸数も考慮しながら最適な運動となるようにアリスが数値を表示してくれているのだ。これが「100%」になるように歩けば良い。イヤホン型の装置で脈拍や呼吸が測定できるのはそれほど新しい技術ではないが、視野の中に任意の画像を映し出す技術は比較的最近のものだ。左右それぞれの耳に装着された装置から人体に影響がないレベルの弱い電磁波を多数放出し、それらがちょうど網膜上の特定の位置で干渉現象により増幅される。それが網膜を刺激して画像が表示されるという仕組みらしい。とても便利な機能だ。


歩いている途中でアリスが話しかけてきた。

『オカヤマ様、先週提出した検体の遺伝子発現検査結果が届きました』

「おっ、どうだった?」

『目標とする遺伝子がさらに2つ発現しました』

「やった!今回は達成まで結構時間がかかったね。で、どれ位のインパクトがあるの?」

『オカヤマ様の健康寿命が平均8ヶ月延びます』

「それってひょっとして…今現在の推定寿命と推定健康寿命は?」

『推定健康寿命は100歳、推定寿命もそれと一致します』

「よしっ!100歳の大台に乗った!推定寿命までの差も開いていない!」

そう、僕の目標とする遺伝子発現は「健康寿命を延ばすもの」に絞っている。「痩せる」とか「白髪を減らす」等々、様々な遺伝子発現が知られているが、二兎を追う者は一兎をも得ずで、沢山の遺伝子発現をコントロールしようとすると互いの条件がぶつかり合うなどして達成が難しくなる。

僕はいわゆる「ピンピンコロリ」を目指しているのだ。人生の最後の数年間をベッドの上で過ごしたくない。最後の最後まで人生を謳歌したい。そのために可能な限りアリスにアドバイスをもらっている。僕自身はそれほどだとは思っていないが、友人達によると僕のアリス依存度は異常だという。「結婚相手までもアリスに相談した」ということが「PDA依存症」のレッテルを貼られることにつながったらしい。


僕と妻のミエとの出会いは二人が大学生の時だった。アリスから「健康寿命を延ばすためには若くして結婚した方が良い」とアドバイスを受けたため、僕は未来のお嫁さんを一生懸命探していた。それこそ、授業に出席するのそっちのけで。端から見ると随分と軟派な男に見えただろう。そして、アリスのお眼鏡にかなったのがミエだった。実は、ミエのPDAであるボブも僕をミエの結婚相手として薦めてくれたのだと後から聞いた。お互いのPDAに人生の伴侶を決めてもらう格好になったわけだ。

なぜ、ミエなのか。以前、アリスに尋ねたことがあるがアリス自身にも説明は出来ないそうだ。本人が望む遺伝子発現を目的関数として、膨大な因果関係を有する過去データから「関数を最大化することによって導き出された結果」というだけであり、数式は存在するが人間がその意味を理解することは難しいらしい。

僕は自分の目標とする遺伝子発現をミエに伝えているが、ミエは教えてくれない。確かに、非常にパーソナルなことであるので無理に聞く気もしないけど。


あれこれ考えているうちに、目的地に到着した。

友人のヤマガタから指定されたコーヒーショップだ。大学時代、学年きっての秀才だった彼は周りから一目置かれていた。余り成績の良くない僕となぜだか馬が合い、よくつるんでいた。ヤマガタがあこがれのクォンタム・マシーンズ社に入社してからは多忙を極めたため、大学卒業後は疎遠になっていた。

通信ではなく直接会って話がしたいと言われて来たが、わざわざ会ってまで話したいことというのは何だろうか。

コーヒーショップ内はそれほど混んでいなかった。しばらくヤマガタを探しているとこちらに向かって手をあげた人物がいた。

見た目が大分変わっていたため、それがヤマガタだとすぐには分からなかった。

大学卒業以来3年ぶりに会ったヤマガタはひどく痩せていて神経質なオーラを漂わせていた。

「…ヤマガタ、久しぶり…随分痩せたね…」

「お前は随分と健康的な見てくれになったな、オカヤマ…今コレは起動している状態か?」

ヤマガタは自分のPDAを指さしながら尋ねてきた。

「もちろん。常につけっぱなしだよ」

「すまないが、少しの間シャットダウンしてくれないか?俺のはシャットダウン済みだ」

「え?シャットダウン?やったこと無いんだけど、どうやるの?」

「全周囲カメラの部分がスイッチになっている。両側を同時に5秒長押しだ」

「知らなかった…うん、シャットダウンしますってアリスが言ったよ」

「よし。お前、ミエとは上手くいっているのか?」

「え?何だよ藪から棒に。上手くいっている…と思うよ」

「子作りは?」

「はぁ!?」

「大きな声を出すな。プライバシーに関わる問題だというのは分かっている。だが、とても重要な事なんだ」

「言いたくないな…」

「お前の人生がかかっている問題だとしてもか?」

「…意味が分からないよ。なんだよ急に。お前、ちょっとおかしいぞ!」

「だから、大きな声を出すな。注目を集めるのは危険なんだ。行為そのものは別として、子供を作ることは反対されているんじゃないのか?」

「…」

「やはり、そうか。お前、今は仕事は辞めて家事に専念してるよな?」

「どうしてそれを?お前には言っていなかったと思うけど…」

「…PDAに盲目的に従う献身的なパートナー…多数の倹約遺伝子…やはり…状況から判断するに、FFOE候補である可能性が高い…」

「えふえふおーいー?」

「…こんなことは許されない…人の人生をなんだと思ってるんだ…」

「何をブツブツ言って…」

「おい、オカヤマ、よく聞いてくれ。すぐに、ミエと別れろ」

「はぁ!?」

「お前のためだ。お前には間違った人生を歩んで欲しくないんだ」


久しぶりに会っていきなりこの男は何を言い出すのか。人のプライバシーを勝手に詮索した上に、間違った人生を歩んでいるなどと指摘してくるとは。

「話はそれだけか?悪いけど、僕は帰るよ」

僕が立ち上がると、ヤマガタはそれを手で制止しながら言った。

「オカヤマ、俺の話を聞け。後悔することになるぞ」

「いいや、お前の話を聞いた方が後悔することになると思うね。もう、連絡してくるなよ」

僕はそのまま席を蹴ってコーヒーショップを後にした。


1週間後、久しぶりにミエと夕食を外で食べることになった。普段は基本的に毎日僕が用意しているのだけれども、その日は結婚3周年の記念日だったのでちょっと豪華なディナーを食べようということになった。

もちろん、レストラン選びはアリスにお願いした。僕の遺伝子発現を優先させながらもミエが喜ぶメニューを選んでくれるようにお願いしたのだ。

テーブルに着くとわざわざシェフが挨拶に来てくれて、ミエはシェフとメニューの内容について楽しそうに会話していた。アリス、ありがとう。

アリスのアドバイスをもらいながら決めたプレゼントにもミエは大満足の様子だった。


「オカヤマくん、色々準備してくれてありがとう」

「いやいや、ほとんどアリス頼みだから、たいした手間じゃ無かったよ」

「一生懸命準備をしようとしてくれたその気持ちが嬉しいのよ」

「僕の方こそ、3年間、楽しい時間を一緒に過ごしてくれてありがとう」

その時、視界の端に見覚えのある顔が見えた。

ヤマガタだ。

こちらの視線に気がついたのか、席を立つとゆっくりと僕らのテーブルまで歩いてきた。


「ヤマガタ…どうしてここに…?」

「通信を拒絶されたら、直接会わなきゃ話が出来ないだろう」

ミエは驚いた顔でヤマガタを凝視している。

「ミエ、久しぶり…なんてな」

「ヤマガタ…くん…あなた、何やってるの?」

「ふん、接触は禁止事項のハズだって?」

「おい、ヤマガタ、僕たちは今記念日を祝う食事の最中なんだ!悪いが外してくれるか!」

「そうはいかない!」


僕たちが大きな声で怒鳴り合っているのを聞いてレストランのスタッフが駆け寄ってきた。

「お客様、いかがされましたか?」

「大事にしたくは無かったが、邪魔が入っては会話が出来ないな…」

ヤマガタはつぶやくと、自分のPDAに指を触れながら命令した。

「キャロル、特殊コード11290131、緊急避難要件該当、現エリアでターゲットの2名以外をスタン!」

途端に、レストランのスタッフや他の客達がその場に崩れ落ちた。

「え?な、何だ?」

「職務権限逸脱行為よ、ヤマガタ主査!」

「おっと、ミエ、主査とか呼んで良いのか?」

ハッとするミエ。

「え…ミエ、職務権限って…?」

宙を見つめたまま黙ってしまったミエ。

「おい、オカヤマ、お前は何も知らされていないんだよ。お前は人間として生きたくないのか?働き蟻として一生を過ごして良いのか?」

「一体、何の話をしているんだ!何で僕たちの幸せな時間を邪魔するんだ!アリス、警察を呼んでくれ!」

だが、アリスは応答しなかった。これもヤマガタの仕業か?

「オカヤマ、目を覚ませ!思い出してみろ、お前はずっとアリスの言いなりだっただろう?疑問を感じたことは無かったのか?」

「アリスの言いなりじゃない!僕がアリスにアドバイスをくれるようにお願いしているんだ!そのおかげで望みの遺伝子発現を達成できているんだ!」

「…その遺伝子発現は、本当か?アリスがそう言っているだけじゃ無いのか?」

「え…?」

「俺が言っている働き蟻ってのは単なる比喩じゃ無いんだぞ…」


その時、強烈な閃光と耳をつんざく大音響が辺りを覆った。

僕は床の上に倒れこんだ。

「逃がすな!」

誰かの叫ぶ声を聴きながら僕はそのまま気を失った。


目を覚ましたら、自宅のベッドの上だった。

あの後、誰かが僕をここまで運んだのか?

まだ頭がボーッとしている。

「…アリス、聞こえているかい?」

『おはようございます、オカヤマ様』

「僕をここまで運んだのは誰だか分かる?」

『申し訳ありません。しばらくシステムがシャットダウンされていたためその間の出来事に関してはログがありません』

「そうか…あ、ミエは?ミエはどこにいるの?」

『申し訳ありません。「ミエ様」に関する情報はありません』

「そうか、シャットダウンされていたんだもんね…」


ふと、違和感に包まれた。

何か変だ。

僕はベッドから飛び起きて周りを見回した。

…無い…

家具がいくつか無くなっている…

「アリス、家具の配置が変わったみたいだけど、これに関しても情報は無い?」

『申し訳ありません』

「じゃあ、ミエに通信をつなげてもらえるかな。話したいことがあるんだ」

『申し訳ありません。「ミエ様」に関する情報はありません』

「え?いや、現在位置とか分からなくて良いから、とりあえず通信をつなげてよ」

『オカヤマ様のこれまでの通信記録に「ミエ様」との接続が無いため、私の方で接続することが出来ません。通信先IDを登録して頂けますでしょうか?』

「何を言っているんだよ!ミエと言ったら僕の妻のミエに決まっているだろう?」

『オカヤマ様は独身であり結婚はされていませんが、ご結婚の予定があるということでしょうか?』

「違う違う!アリスに婚姻届を電子申請してもらったじゃないか!何を言っているんだ!?」

『そのような記録はございません。私のデータが欠損している可能性もありますので、よろしければ、政府のサーバと接続して戸籍情報を確認致しますが』

「そうしてくれ!」

『かしこまりました。…オカヤマ様、やはり、そのような事実はありません』

どういうことだ?

あの時、アリスは確かに婚姻届を出したと言っていた。僕の生体ID情報も全てアリスに渡していたので代理手続きに不備があったわけではない。

いや、待て、そもそも今アリスは申請をした事実自体が無いと言っている。


(…その遺伝子発現は、本当か?アリスがそう言っているだけじゃ無いのか?)


ヤマガタの言葉がよみがえる。まさか…

恐る恐るアリスに尋ねる。

「…アリス、僕の推定健康寿命は?」

『先週提出された検体の結果でよろしいでしょうか?』

「そう、それ!」

『オカヤマ様の推定健康寿命は61歳です』

「え?いやいや、100歳でしょ!?推定寿命と一緒のはず…」

『オカヤマ様の推定寿命は69歳です』

頭の中が真っ白になった。

一体何が起きているのか。

これはアリスによる新手の冗談か何かか?

『血圧の低下および脈拍の急上昇を検知しました。希望の遺伝子発現に望ましくない状態です。深呼吸することをお勧め…致し…』

「アリス?」

『…ようやくつながった』

突然、ヤマガタの声が聞こえた。

『新機種に変更してくれたおかげで、あらかじめ俺が仕込んでおいたバックドアが役に立った。旧機種でもこうやって話せれば良かったんだがな…』

「…ヤマガタなのか?」

『俺以外に誰がこんな形でお前に話しかけるっていうんだよ。…悪いが、アリスとお前の会話のログを見せてもらうぞ…なるほど、そこは既に引き払われた後か…遺伝子発現の事実についても確認済みだな…』

「一体何が起こっているのか、全く分からない…ヤマガタ、お前は何か知っているのか?」

『何か知っているのか、だと?!今まで全く俺の話に耳を傾けなかったくせに!』

「…すまない…」

『まあ、いい…この通信も余り長くは維持出来ないだろうから、手早く順番に説明していこう。まず、お前の今使っているアリスと以前のアリスは別物だ』

「別物?」

『ああ。以前の物はクォンタム・マシーンズ社の極秘プロジェクトを遂行するために色々細工された物だ。で、今のは通常の普及品。ヤツらが撤収時にお前のアリスを切り替えた際、ハードウェアも新しい物に変更されたってわけだ』

「撤収って…?」

『プロジェクトの存在が外部に漏れそうになったときは全て「無かったこと」にするんだ。秘密を守るためにな。ヤツらは何度もやっている』

「…お前は今どこにいるんだ?こんなハッキングなんかしてて大丈夫なのか?」

『大丈夫とは言えないだろうな。そもそも昨日のPDAへのハッキングによって閃光と大音響を発生させて人を気絶させたことは電子機器侵入罪および傷害罪に該当するだろうからな。今は身を隠さなきゃならない身分だ』

「何のためにそんなことを…」

『何のため?人間の尊厳のためだよ!ヤツらのFFOEプロジェクトを阻止するためだ!』

「えふえふおーいー…それ、前も言っていたよね…」

『ああ。Final Form Of Evolutionプロジェクト…遺伝子発現により人間を進化の最終形態までもっていくっていうプロジェクトだ』

「進化の最終形態って…」

『お前も似たようなものを目指してただろ』

「…ピンピンコロリの事か?」

『ああ。ただし、「コロリ」は付かないがな。簡単に言えば人間を不老不死にする遺伝子発現を目指すプロジェクトだ』

「そんなことが出来るのか?」

『働き蟻の話をしたよな。働き蟻と女王蟻は遺伝子的に違いは無い。にもかかわらず、女王蟻は働き蟻の数十倍の寿命を生きる。両者の違いは環境の違いだけ、つまり、遺伝子発現の違いだけなんだ。巣のメンバーが一丸となって温度・湿度・エサ・睡眠時間等々様々な環境を整え、ただの蟻を女王へと育てるんだ。そしてこれは人間でも理論上は同様の事が出来る。これを究極的に突き詰めていけば不老不死まで持っていけるはずだ』

「まさか…そんな研究は聞いたことが無い」

『まあ、だから極秘のプロジェクトなんだがな…』

「でも、それのどこが人間の尊厳に反するのか、よく分からない…」

『自分で勝手に努力して寿命を延ばすのは自由だ。だが、周りの人間をある種の奴隷と化して特定の人間の遺伝子発現を手伝わせるというのは許されないだろ』

「奴隷…?」

『ああ。PDAはそのためのツールだ』

「まさか…僕が奴隷化されていたということか?」

『そうだ。お前は自分の遺伝子発現のために努力していたつもりだろうが、実際にはミエの遺伝子発現の手伝いをさせられていたんだよ』

「そんな…」

『お前だけじゃない。他にも「ミエの夫」や「ミエの彼氏」と証する男が複数いる。遺伝子発現の為に複数の異性から「愛される」必要があるんだ。ただし、妊娠はNGだ。そこは蟻とは違うんだ。せっかく苦労して整えた遺伝子発現が崩れてしまう』

「複数の男!?そんな馬鹿な!ミエは僕だけを愛しているはずだ!」

『まあ、みんなそう思っている。そしてそれがミエの遺伝子発現にとっても重要なんだ』

「外泊が多かったり、帰りが遅かったりしたのは仕事のためじゃなかったのか…」

『そういうことだ』

「いや、でも、僕の食べる速度や運動量なんかがミエの遺伝子発現とどう関係があるんだ?」

『ヤツらは巧妙に虚実織り交ぜた情報を伝えてお前にアリスのアドバイスを信じ込ませていたんだよ。詐欺の常套手段だろ。そうやってミエの手伝いをさせていたんだ。実際のところ、健康寿命はむしろ平均より短くなっていただろ?極簡単に言うとアスリートの寿命が短いことと関連している。お前の体はミエのためにアスリート体質になっていると言えるんだ』

「何のために…?」

『筋力・持久力を備えたアスリート体質のパートナーと一緒にいることがミエの遺伝子発現のためには重要なんだ。ま、色々な場面でな。それと、パートナーの発するフェロモンの質と量も重要だ。ちなみに、お前がミエのために作っていた食事もミエにとってはベストだが、お前自身の望む遺伝子発現にとっては良くないものだった可能性が高い。恐らく、それも含めて短命化を招いている』

「もう、これ以上聞きたくなくなってきたよ…」

『いや、最後まで聞け。俺は当局と司法取引をするつもりだ。クォンタム・マシーンズ社の極秘情報を当局に提出する代わりに俺の犯罪を帳消しにしてもらう。ただし、そのためには被害者であるお前の証言が必要だ』

「…ヤマガタ、お前はいつミエがFFOEプロジェクトの対象だと気づいたんだ?」

『会社が怪しいことをやっているのに気づいたのは2年ぐらい前だ。情報を探っているうちにある人物が浮かび上がった。ちなみに、誰でもFFOEの対象になれるわけじゃない。例えば、ある種の倹約遺伝子を多数持っていていないとそもそも候補にならないんだよ。それから女性であることも必須条件だ。その点、生まれながらにして候補になれる人間となれない人間に分かれるんだ』

「その遺伝子を持っていたのがミエだったということか」

『ああ。世界に何人といない人間だ。まさかそれが大学時代の知り合いとはな…。で、俺の推測を確かめるためにお前に接触したことによって、俺の疑念は確信へと変化したんだ』

「でも、なぜミエはお前のことを主査って呼んだんだ?」

『お前と接触した後、俺は上司にかけあってFFOEプロジェクトに関わらせてくれって懇願したんだ。狂信的な科学者のふりをしながらな。どうやら俺が持っていた情報は上司が無視するには豊富すぎたらしい。すぐに会社との間で極秘任務遂行契約を結ばされ、プロジェクトへの参加が認められたよ。主査に昇進もした。その時にミエを紹介されたのさ』

「この1週間でそんな動きがあったのか…」

『言っておくが、ミエは見かけ通りの20代の女の子じゃないぜ。既にかなりの量の遺伝子発現が生じているからな。大学に通っていたのもさらなる遺伝子発現のパートナー探しのためだ。優に100歳は超えている』

「ひゃ、100歳!?」

『ミエはクォンタム・マシーンズ社の創業一族だ。あの会社自体がこのFFOEプロジェクト遂行のために作られた会社なんだよ。まあ、会社っていうより秘密結社だがな』


「そこまでよ」

突然、ミエが部屋に入ってきた。

彼女の後ろに軍服を着た屈強な男が二人立っている。

「ミエ!?」

『なんだと…軍も絡んでいるのか…』

「ヤマガタ主査、聞こえているわね。あなたは会社との契約を無視して勝手な行動を起こし、会社を危機的状況にさらした。既に損害賠償請求をするよう弁護士に依頼したわ。たとえ刑事責任を免れても民事責任をとってもらうわよ…」

「ミエ…ヤマガタが言ったことは本当だったんだね…」

「オカヤマくん、一度撤収した現場に私が戻ってくることは手続き上本来許されないのだけれども、あなたには私から直接話をしたかったの」

「ミエ…」

「不老不死は人類の夢よ。生物の頂点に立つ人類が高度なテクノロジーを手に入れることによってようやく実現することが可能となったの。私はあなたと一緒にその夢を叶えたいのよ」

「…でも、ほかにも男が沢山いるんだろ?」

「あなたは特別よ。ほかの人たちが数年かかってようやく一つの遺伝子を発現させるのに比べてあなたは毎年複数の遺伝子を発現させてくれた。あなたと私は相性がとても良いのよ」

「そ、そうなのか…」

「あなたが嫌がるのなら、他の男達とはもう会わないわ。あなたは私にとってベストな存在。あなたならきっと事実を知った上でも私を愛し続けることが出来るはずよ」

「…」

「オカヤマくん、選んで。私と一緒に人類の夢を叶えて歴史に名を刻むのか、それとも、このまま何も無かったことにして人生を無為に過ごすのか…」


僕は決断を下した。

「ミエ、僕はこれからも君を愛し続けるよ…君の役に立つことが僕の喜びなんだ」

「ありがとう、オカヤマくん…」

『おいっ!オカヤマ、何を言っている!?一生奴隷で良いのか!?』

「ヤマガタ、僕は僕自身の意思でこの選択をしている。全てを知った上で。だから、奴隷なんかじゃないよ…」

僕は言い終わるとPDAを耳から外してミエに渡した。

「ミエ、前のアリスに戻してもらえるかい?」


その時の僕は想像もしていなかった。自分の決断がどのような未来を招くのかを。

不老不死の一族が世界の富を独占し支配者として君臨し続ける未来を。

支配される側の寿命の限られた人間達が抗う術も無く奴隷のように扱われる未来を。

そして、そのような世界を招いた人間として僕の名前が永久に刻まれることを。


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