第29話 静は一つ大人になります。

ついに……この時が来た。


凛とした姿勢で教室を出た私は、同じように後ろからついてくる足音に胸を踊らす。待ちに待った昼休み。


私にとって、自分の運命を変える時間。未だかつて、こんなにも幸宏くんに対して積極的になれたことはあっただろうか?


こんなにも素直に自分の気持ちに従ったことはあるだろうか?


鉄壁のクールビューティと言われ続けてきた私が、そのディフェンスを崩して笑顔を見せ、さらにはみながいる教室の前で幸宏くんだけを誘い出す。そう、憎っくき姉がいる前で堂々と。


これで私の勝ちだわーー


教室を出る前にチラッとお姉ちゃんの顔を見ると、その表情には驚きと狼狽えが見て取れた。きっと私に幸宏くんの心が奪われてしまうのを察知してしまったのだろう。


だけどもう遅い。


このまま廊下を突っ切り階段を降りて一直線に多目的室へと向かって鍵を閉めてしまえば、奴には何も手出しができない。そうなれば……


次々と勝手に進んでいく頭の中の妄想に、私は思わず「きゃッ」と両手で頬っぺたを押さえたくなるのを我慢する。


込み上げてくる嬉しさと喜びのせいか足取りは自然とワルツに……なったらマズイからここは一つ深呼吸を。


いつものお淑やかな表情のままで後ろは振り返らずに廊下を進んでいく。大丈夫。幸宏くんもちゃんとついて来ている。迷子にはなっていない。


足取りが妙に遅いところをみると、彼も緊張しているのかしら?


そんなことを思った瞬間だった。後ろから私の耳を撫でるような幸宏くんの甘い声が聞こえてくる。


「あ、あ、あの……これからどこに行くんでしょうか? まちだ……」


「え?」とその言葉に振り返った瞬間、彼は一瞬驚いたような表情を浮かべると、「す、すいません! 静さん!」と昼休みで生徒が溢れる廊下の中で、堂々と私の名前を呼んでくる。


もうやめてよッ! こんなところで名前で呼ばれたら照れるじゃない!


ふいっとすぐに顔を彼から背けて私は再び前を向く。ニヤニヤとにやけそうになる口元をぎゅっと噛み締めた唇で我慢すると、動揺していることを隠そうと一つ咳払いをする。


「他に誰もこない……私たちが二人っきりになれるところよ」


何という大胆発言だろう。珍し過ぎるシチュエーションがそうさせるのか、それとも心の中で興奮し過ぎている恋心がそうさせるのか、私は自分の想いがバレるスレスレの発言をしてしまう。


直後、「ひっ!」と背中から小さな叫び声が聞こえたけれど、誰か不良にでも絡まれたのかしら?


私の言葉に幸宏くんからの返事がなく、チラッと後ろを見てみると、彼は恥ずかしそうに顔を伏せて足元をじっと見ながら歩いている。やっぱり今の発言は、ちょっと大胆過ぎたかしら?


思わず私も恥ずかしくなってすぐに視線を戻すと、再び黙って目的地へと歩みを進める。


窓から差し込むいつもの陽光が、今日に限ってやけに眩しく感じてしまい、まるで自分たちを祝福してくれているみたいだ。


それに普段ならうるさ過ぎて憂鬱になる賑やかな生徒たちの声も、今日だけは何故か心地が良い。


あぁ、これがもしかしたら万城寺先生がいつも言ってる『青春』というものなのかもしれない。


青い春と書くくせに、オレンジのように甘酸っぱくて心がキュンとなっちゃうから不思議だ。


そんな普段の自分らしからぬことを考えながら、背中に羽が生えたような足取りで廊下を歩いていくと、目の前に多目的室と書かれたプレートが見えてくる。


さらに早くなっていく胸の鼓動。


幸宏くんも緊張しているのか、足音は聞こえるのに人の気配がしない。


もしかしたら彼の方も、二人っきりになる状況を前に、心の整理をしているのかもしれない。


歩く速度をゆっくりと遅くしていくと、多目的室の扉の前でピタリと止める。それに合わせるように、右斜め後ろでは幸宏くんもその足取りを止めた。


私は最後の心の準備をするように、桜色の口紅を塗っている唇を小さく噛む。この教室から出てくる頃には、彼の唇の色も桜色に……


そんなことを思うと全身がむずむずとしてきて、私は慌てて息を吸った。


そして自分の心境とトリプルS作戦がバレないように、「入るわよ」と彼にはいつもの冷静な口調で告げる。その言葉に、「……はい」と幸宏くんの決意の言葉を聞くと、私はそっと扉の鍵穴に鍵を差し込む。


いけないことが始まりそうな予感に、以前にも増してカチャリという扉の開く音が、私の中に潜むもう一人の自分まで目覚めさせてしまったように鼓膜に響く。


まだよ……まだ焦っちゃダメよ静。ちゃんと彼とお姉ちゃんが犯した罪を聞いてからことを始めるの……


爆撃機のように耳の奥で聞こえる心臓の音を聞きながら、私はゴクリと唾を飲み込む。


それを合図に扉の取っ手に指先で触れると、私は大人の世界へと続く未知への扉を開いてしまったーー

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