第26話 ようこそ、僕の死刑台へ!
死刑台に立つ、という言葉がある。
まさに今の僕がそうだ。
……いや、立っているのは見慣れた教室の扉の前なのだけれど、この中に待ち構えているのは間違いなく僕の死刑台だ。
そんな不吉なことを考えながら僕はゴクリと唾を飲み込むと、授業が始まる前の朝の賑やかな廊下の中で、亡霊のように立ち尽くしていた。
脳裏に浮かび上がるのは、岩本幸宏の人生において最も過激で衝撃的だった一昨日起こった大事件。
あまりにも近過ぎた莉緒さんの唇。
あまりにも柔らか過ぎた莉緒さんの手のひら。
そして、あまりにも悪過ぎたタイミングで現れてしまった僕の初恋の人……。
彼女を作る経験をする前に先に修羅場を経験するなんて、僕の人生はどれだけ天邪鬼なんだよ。
そんな余計なことを考えて少しでも現実逃避を計ろうとするも、意識はすぐにこの扉の向こうで待ち構えているであろう僕の死刑執行人へとフォーカスされてしまう。
昨日は丸一日自分の部屋に引きこもってあの状況についての言い訳を考えていたが、まったくといっていいほど思いつかなかった。
「……静さんに何て言えばいいんだろう」
僕はぼそりと呟くと、自らの魂を削り取るような巨大なため息を吐き出す。
正直に話すなら、たまたまテーブルに足を引っかけてあんなことになっただけだ。
いや、もっと正確かつ詳細に伝えるならば、たまたま莉緒さんの方へと倒れ込んでしまい、たまたま押し倒してしまい、たまたま両手が合わさって、たまたま指先が絡み合って…………
って、そんなこと言えるわけないだろボケェええッ!!
思わず一人パニック状態に陥った僕は、心の中で盛大に叫んだ。
何だったのあの神がかりなハプニングは⁉︎
今どきベタなラブコメでもあんな展開起きないよ? なのに何でそれが僕の身に起こるの? しかもあんなベストなタイミングで静さんが現れることなんてある??
もうイキタココチガシナーイっ! と思考が崩壊した頭を思わず両手で抱え込んだ時、僕の背後からややこしい人間の声が聞こえてきた。
「おやおやこれは岩本じゃないか」
「…………」
その声に後ろを振り返ると、そこにはパンパンに膨らんだゴミ袋を両手に持っている高砂と、……なぜか同じような姿をした大谷くんが立っていた。
「……どうしたの、それ?」
関わっている場合ではないと思いながらも、僕は一応友人として尋ねてみた。すると相手はふんっといきなりのドヤ顔。
「どうしたもこうしたも、静様と莉緒様が所属する演劇部のイメージアップのために、早朝6時に家を出てから今までずっと通学路の落ち葉を拾ってたんだ。しかも聞いて驚け、『自主的』になッ!」
「……」
いやそれ、いくらなんでも登校するまでに食い過ぎでしょ道草! しかも自主的にそんなことしたって別に静さんも莉緒さんも喜ばないと思うけど?
なんてツッコミが頭の中にすぐに浮かんだけれど、心境的にも状況的にも余裕がない僕は、「すごいね」とただ端的に答える。……というより、大谷くんの巻き込まれる確率が100%をキープしていることのほうが遥かにすごい。
「お前ばっかり良い格好されて、あのお二人のお気に入りになられても困るからな。どうせお前もあれだろ? 静様と莉緒様に気に入られて、家にお呼ばれされて大人のパーティタイムでも楽しもうっていう魂胆なんだろ??」
「なっ⁉︎」
冗談のつもりとはいえ、高砂の言葉があまりにもタイムリーでピンポイントなところを突いてきたので、僕は思わず顔を真っ赤に染める。するとそんな自分を見て彼は、「ほらなッ」と再び腹立たしいぐらいのドヤ顔。
「残念だったな岩本。先にあのお二人の秘密の花園に呼ばれるのはこの俺の役割。お前みたいなミジンコ出身野郎が静様と莉緒様の聖域に足を踏み入れるなんて、百年早いぞッ!」
「…………」
うわー、どうしよ。思いっきり飛び越えちゃったよその百年。
何なら危うく次の百年まで飛び越えそうになったからね。
彼女作って手を繋いでのホップステップ飛び越えて、いきなりジャンプしそうになってたぐらいだからね、僕!
不覚にもそんなことを思ってしまった時、ぽわぁんと頭の中にあの時の莉緒さんの姿が浮かび上がりそうになったので、僕は慌てて首を振った。
今から初恋相手に命懸けで謝らなければならない自分が、莉緒さんの淫らな姿を思い出して興奮している場合ではない。
……いいか僕。落ち着いて誠心誠意ちゃんと正直に話せば、必ず静さんだってわかってくれるはず。だから彼女がどんな態度を取ったとしても怖がっちゃダメだ。男に……男になれ岩本幸宏!
だからまずはトイレで精神統一を、と僕は教室に背を向けたまま一歩を踏み出そうとする。が、ずいっと前に出てきた高砂が僕の行く手を阻む。
「おいおい岩本どこに行くつもりなんだよ? まさかお前も静様と莉緒様のポイントを稼ごうとして落ち葉拾いに行こうとしてるんじゃないだろうな?」
「ち、違うよ! 僕はちょっとトイレに……」
何でそんな解釈になるんだよ! と僕は心の中で思いっきり高砂のことを睨みつける。だいたい落ち葉拾いごときでポイントは稼げないし、今の僕は稼ぐどころか怒涛のごとく失点中だ。
「怪しいな……貴様はただでさえハプニングに巻き込まれるフリをして何かとあのお二人と仲良くしている。まるで計画的に接点を築こうとしているような……」
「……」
どこがだよ。どちらかといえば無計画なほどに空中分解しちゃってるよ今。いやほんと、ハプニングの神様これ以上僕の心を追い詰めないで下さい。
「そ、そんなわけないだろ……」と高砂にぎこちなく返事を返した僕は、そのまま無理やり彼の隣を突き進もうとした。
が、落ち葉の入った大きなゴミ袋に遮られるどころか、なぜか大谷くんまで行く手を拒んでくる。
「抜けがけは許さないからな田村」と完全に僕の名前を間違ってくるところをみると、今の彼は相当ご立腹らしい。
「いやちょっと待って……ほんとうに、ほんとうにお腹が……」
死を目前にしているプレッシャーと、そこに高砂たちたの意味不明なやり取りが絡んでしまったせいか、泣き言を漏らす前に大きな方を漏らしそうなほど突然お腹が痛くなってきた。
いけない……ここはやっぱりすぐにでもトイレに駆け込んで一度体勢を立て直せねば!
「た、高砂。早くそこを……」と僕は焦りと怒りのあまり、稀に見るほどの闘志剥き出しの目で高砂のことを睨んだ。もはや心とお腹の状況は手術室よりも一刻を争う。
開けろぉおッ! と思わず叫びそうになったその瞬間だった。まるで僕の心を読み取ったかのようにガラガラと背後の扉が開いた。
「あら?」
背中から突如聞こえたその声に、僕の身体が思わずビクリと震える。
この声色この口調、そして僕の恋心を鷲掴みにするようなこの感覚は……
「…………」
僕は両腕でお腹を抱えたまま思わず硬直してしまう。
あまりの恐怖のせいか、戦意と便意が同時に消えた。
直後自分の心に訪れたのは一瞬の『無』と、その後に足元から襲いかかってくる未曾有の恐怖心。
……ゴクリ。
ゆっくりと唾を飲み込むと、僕はホラー映画さながらの動きでおずおずと後ろを振り返る。
わかってる……
この先に待ち受けているのは……
「おはよう! 岩本くん」
「……え?」
突然の出来事に、思わず僕の思考が止まった。
いや、僕だけじゃない。
隣にいる高砂も大谷くんも、そして扉の向こうに見えるクラスメイトたちもみな雷に打たれたように固まっている。
そりゃそうだ。
だって……だってあのクールビューティで笑うことがないと言われ続けてきた静さんが……
微笑することさえ奇跡だと言われ続けてきた静さんが……
僕の目の前でニコリと笑っているのだ!!
「…………」
微塵も予想していなかった状況に、僕は後頭部をバッドで殴られたような衝撃を受けてしまう。
こんなにも満面の笑みを浮かべている静さんを見たのはいつ以来だろう? 中学校……いや、もっと前だ。
少なくとも僕が彼女にひどいことを言ってしまったあの日から、静さんが笑っているところなんて一度も見たことなんてない。
「か……か……」
ただでさえ無表情でも人目を惹くほど綺麗で、ずっと眺めていたくなるような美しさを持つ静さん。
そんな静さんの笑顔をこんなにも間近で見れるなんて、これは……これは…………
かなり怖ぇぇぇえッーーーッ!!
僕は断崖絶壁で殺人者に追い詰められた被害者のごとく心の中で叫んだ。
ヤバいよこれ絶対怒ってるよ! 相当怒ってるよ静さん! むしろ怒りが限界突破し過ぎて一周回ってクルリンパしちゃったパターンだよきっと!!
僕はそんな恐怖に怯えると、声を漏らすこともできずにあわあわとただ唇だけ動かす。
しかし破壊力抜群のその笑顔は、一瞬にしてクラスメイトの男子たちの心を鷲掴みにした。
それどころか教室の後方でいつものように人気を誇っている莉緒さんや、その周りにいる生徒たちもみな静さんの突然変異に釘付けだった。
「あの静さんが笑った」といたるところで声があがり、教室中がざわめき始め、そして一部の男子たちが踊り始めた。
「………………」
僕は瞬きもできないほど身体の動きをピタリと止めていた。人は死ぬ前に一番望んでいたことを幻で見るというけれど、僕にとってこれがそうなのか?
いや、たぶんそうだ。
死ぬ前に一度だけでも、初恋の人の笑顔が見たい。神さまがきっと僕の潜在的な願いを叶えてくれたに違いない。
……己の死を代償として。
沈黙したままの僕の前で、静さんは笑顔のままコクリと首を傾げる。その仕草も表情も可愛いのなんのって、もしもあんな事件の後でなければ僕は泣いて喜んでいただろう。
「どうしたの? 早く教室に入らないと授業始まっちゃうよ」
いこ、と手でも繋いでくれそうな静さんの優しい声に
なんて余計なことを考えて現実逃避をしつつ、僕は何の問題もなく自分の席へと辿り着く。
ここでビンタが! と一瞬身構えたが、ビンタどころか暴言の一つも飛んでくることもなく、再びニコリと微笑んだ静さんは自分の席へと戻っていった。
「…………」
何がくる?
この後僕に一体何が起こる?
椅子が壊れるのか?
それとも机の中に大量の画鋲がセットされて手が血塗れにかるとか??
不気味なほど平穏無事にここまで辿り着いてしまった僕は、そんなことを思うと恐る恐る椅子へと座る。……何も起こらない。
今度はそっと慎重に机の中へと右手を入れた。……何も起こらない。
……どういうことだ?
僕は机の上に肘をついて頭を抱えると、狼狽える頭で精一杯考える。
今までの経験上、あんな場面を静さんに見られてしまい、何事もなく終わることなんて考えられない。
それこそ教室でみんながいる前で辱めを受けるほど罵倒されたり、往復ビンタの7往復ぐらいは覚悟していた。なのに……なぜ何も起こらない?
チラリと窓際の方を見ると、静さんは何事もなかったかのようにいつも通り美しい姿勢で席に座り、教科書やノートを準備している。
そこに僕に対する殺気や怒りなんてものはまったく感じさせない。
もしかして……殺気が巨大過ぎて僕が気付いていないだけなのか?
そんなことを思った時、ふと向こうも僕のことを見てきて目が合った。するとまたも静さんは唇で弧を描き、美しい微笑を浮かべる。
その姿に思わず戦慄を覚えた僕は、慌てて視線を逸らした。
や、や、やっぱり間違いないッ! これはかつてないほどの危機が僕に迫っている!
おそらく静さんは圧倒的戒めと罰を与えるために、すでに準備を万端に整えているのだ!
だからあれだけの余裕の笑みと、僕に対して驚くべき優しさを今見せているに違いない!!
「怖い……怖いよ……」と僕はまるで母親とはぐれた迷子の幼子のような情けない声を漏らし、机の上に頭を伏せる。すると今度は背後から誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
「ねえユッキー」
「ひぇッ!」
突然静さんと似た声が聞こえてしまい、僕は思わず奇声を発して上半身を起こした。すると目の前には、目をパチクリとさせて驚いている莉緒さんの姿。
良かった……莉緒さんか……
ホッと胸を撫で下ろす僕に、「大丈夫?」と不安げに彼女は眉尻を下げてきた。その言葉に僕は「だ、大丈夫です」とぎこちなく返事を返す。
「あのさ……シズの様子がおかしいんだけど、あれからユッキー何かあった?」
「…………」
いえ、まったく何もごさいません。
むしろ、何もない事が恐ろしいぐらいに。
そんなことを瞬時に思った僕は、「特には……」と顔を伏せながらぼそりと呟く。
「そっか……。いやーあんな場面見られちゃったからさ。もしもユッキーになんかあったらどうしようって心配してたんだけど、シズのやつ、めちゃくちゃユッキーに優しくなってるから……もしかして和解でもできたのかなって」
そう言って莉緒さんは、「まあ仲良くなれたなら良かったよ!」と先ほどの静さんのようにニコリと笑う。そんな彼女とは裏腹に、僕の心にはさらに暗雲が立ち込める。
いや……これは和解なんかではない。紛れもない、『破壊』だ。
僕はそんなことを胸の中で呟くと、再び頭を抱える。
おそらく今日まで積み上げてきた静さんとの関わりや取り戻しかけた信頼関係が、あの事件によって根こそぎ破壊されたのだ。
その破壊のスピードと威力があまりにも凄まじく、静さんの心の中で変化が起こり、こんな前代未聞の対応を僕にしているのだろう。だから……これは決して和解なんかではない!
ビクビクと小刻みに身体を震わせてそんなことを考えていると、莉緒さんのけらりとした明るい声が再び聞こえてきた。
「シズのやつ家だとずっと部屋にこもりっぱなしだったから心配だったんだけど、さっきユッキーに笑ってる姿見て安心したよ! 一応私の方からもタイミング見計らって一昨日のことは誤解だって話しておくからさ、ユッキーからもよろしくねッ」
ポンと僕の肩を叩いて莉緒さんはそう言うと、くるりと背を向けて自分の席へと向かおうとした。
が、一歩目を踏み出した瞬間再びこちらを振り返ってきたかと思うと、「それとさ……」と僕の左耳にぐっと顔を近づけてくる。
「……『キスしよ』って言ったことは内緒だよ」
「!?」
不意打ちのような言葉と、耳元で感じる莉緒さんの吐息に、僕は思わず赤面する。
「なっ、なっ……」と声もまともに出すことができずに莉緒さんの顔を見つめていると、彼女はクスリと笑ってそのまま自分の席へと戻って行った。
……こんなタイミングで、なんてことを思い出させるんだ莉緒さん。
地獄の中の束の間の休息。
莉緒さんの言葉に、僕はあの時のことを思い出してしまい、無意識に拳をぎゅっと握りしめる。
柔らかかった莉緒さんの手のひら。そして、少し触れるだけで溢れてしまいそうなほど潤んだ唇……
って、ダメだダメだダメだッ! 僕は何てタイミングで狼になろうとしているんだ! ガォウっ!
そんな妄想を考えてしまい慌てて頭を振った時、視界の隅で静さんが僕のことをじーっと見つめていることに気づいた。その瞬間、僕の狼は急速にチキンへと姿を変えていく。
「…………」
こんな状況で、どれだけラブコメ的なハッピータイムが起こったとしても、今の自分にはまったく効果がないだろう。
喜びも幸せも、初恋の人との繋がりが無くなってしまっては意味がない。
そんな感情たちは、さっきみたいにすぐに泡となって消えてしまうのだ。
あとそれと…………
あれから僕の便意はどこに消えた?
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