工場の靴音

逢雲千生

工場の靴音

 これは私が小学五年生の時に体験した話です。

 

 当時、私が住んでいた場所は、今でこそ有名な住宅街ですが、あの頃は工場が多く、道路も舗装されていない場所ばかりで、荒れていると言っても良いくらい酷い場所でした。

 生まれた時から住んでいる私は気になりませんでしたが、引っ越して住むことになった両親は苦手だったようで、念願のマイホームを買いながらも、近所付き合いはほとんどしていなかったそうなのです。

 そのため、両親が近所の人と話している姿を見たことはありませんでした。

 

 私はというと、家の近くに工場がたくさんあり、住んでいる人よりも、働くためだけに来る人が多かったので、新しい友人を作って近所の大人と仲良くするよりも、工場で働く職人達と親しくなっていました。

 

 学校に行く時は途中まで一人ですが、帰りは工場まで学校の友達と来ることがあり、あの頃の私にとってあの場所は、仕事で忙しい両親の代わりに可愛がってくれる大人達との大切な交流の場だったのです。

 小学校に上がってからも、変わらず工場に寄り道していましたが、あの日、いつも遊んでいる工場で、私にとって忘れられない体験をすることになるとは思ってもいませんでした。

 

 あの日は先生の会議があったので、学校がいつもより早く終わり、友人達と早めの下校をしていたのですが、仲良くしていた友人達は、地元にある普通の中学校よりも、遠い場所にある進学校に合格するために塾に行くと言って、家に帰ってしまいました。

 友人達の親は教育に厳しい人達で、私が彼女達を工場に連れて行くことを良く思っておらず、何度も両親を介して怒られたことがあります。

 それでも友人達は工場に遊びに来ていたのですが、勉強こそが将来のためだという時代であったため、特に熱心な親を持つ子供にとって受験は、まさに戦いの場だったのだと思います。

 

 毎日毎日、時間さえあれば塾に行き、休みの日は家庭教師に教えてもらって勉強する彼女達。

 私の親は、勉強よりも真面目に学校に通えばそれでいいと言っていて、他の子達のような熱心さはありませんでしたが、この頃の私にとって勉強をしないということは、まるで人と違う、異常な行為だと思い始めていました。

 

 それで何かするのかといえば特に何もせず、受験に向けて勉強に明け暮れる友人達の愚痴を聞いては、その度に仲間はずれにされた気分になっていたのです。

  少し前までは一人でも遊びに来ていた工場も、行ってしまえば誰かを裏切る気がして行けず、気がつけばすっかり寄り道をしなくなっていたのでした。

  

「あれ、あやちゃん。今日は早いんだね」

 すぐに通り過ぎようと足を速めると、偶然外に出てきた工場の人に会いました。

 彼はむらさんという五十代の職人さんで、詳しいことはわかりませんでしたが、医療に関わる重要な部品を作る人だということは覚えています。

 彼は工場の中でも古株の一人で、幼い頃から可愛がってもらった大人の一人でもありました。

 

「最近来てくれないからどうしたのかと思ったよ。何かあったのかい」

「いえ、何も……ありません」

 久しぶりに会った田村さんは疲れた顔をしていて、仕事が忙しいことはすぐにわかりました。

 本当は少しでも遊んでいたかったのですが、友人達の事を思い出すと足が動かず、かといって本当の事を言うことも出来ず黙り込むと、田村さんは何かを察したのか、優しい声で私に、ジュースを飲もうと誘ってくれたのです。

 断ろうとも思いましたが、このまま帰るのも申し訳ないと思い、ジュースだけならと、うなずいたのでした。

 

 工場はとても広く、たくさんの従業員が働いていて、この頃が一番輝いていたのではないでしょうか。

 若い人から年を取った人まで、大勢の人が機械や部品に向かい合い、一心不乱に仕事をする姿は格好良くて、子供だった私の憧れでした。

 特に田村さんは重要な仕事を任されていて、薄い板で仕切られた個室のような場所で部品の点検をしたり、精密機器の細かい部品の調整を行ったりしていたのだと思います。

 わざわざジュースを買って来てくれた彼の手は、職人さんらしい汚れで真っ黒になっていました。

 

「今日の綾ちゃんは元気がないけど、どうかしたの?」

 ジュースを飲みながら田村さんを見ると、彼は本当に心配そうに私を見ていました。

 その目を見て安心したのか、それとも張り詰めていた気が抜けたのか、自分でも驚くほどあっさりと、けれどゆっくりと、これまでの事を話したのです。

 

 学校の友人達が塾に行くようになり、帰りが一人になるようになったこと。

 学校では勉強第一の考えが広まっていて、進学校に行く子と行かない子でグループが出来たこと。

 友人達の親が工場に出入りすることを嫌がって、私の親に文句を言ってきたことなど、なかなか人に言えないことを彼に話すと、難しい顔をしていた田村さんは、すぐにニッコリ笑ってくれたのです。

 

「気にすることはないよ。俺の子供の頃なんて勉強する奴は馬鹿で、働く奴が偉いって言う大人が多かったし、今は子供が勉強するのは当たり前だからね。綾ちゃんの友達は、人よりうんと勉強しなくちゃいけないから、遊べないのが辛いんだろう。綾ちゃんが勉強しないのを責めているんじゃないよ」

「でも、友達のお母さん達は、工場に出入りする子供なんて恥ずかしいって言ってたよ」

「ここらへんは大人の男が多いし、喧嘩だってしょっちゅうだ。お母さん達は、子供が怪我しないか心配なんだろうね。大丈夫、生きている人相手ならおじさんがやっつけられるし、綾ちゃんは心配しなくていいよ」

 

 そう言ってまた笑った田村さんを見て、私はようやく安心できました。

 それからすぐに、部下の人に呼ばれた彼に言われて、ジュースを飲みながら待っていると、すぐ近くで靴音が聞こえたのです。

 

 最初は工場の誰かが部品を落としたのだろうと思いましたが、靴音だと気づいたのは、背中を向けていた入り口の前を通った時で、母親が良く履いているかかとの高いヒールの音だとわかったからです。

 

 なぜこんな所にヒールを履いた人がいるんだろう。

 その時はそう考えただけで、特に何も思わなかったのですが、靴音は私が背を向けた入り口を行ったり来たりするように歩いていて、次第に不思議に思えてきました。

 

 田村さんが仕事をする場所にドアも窓も無く、出入り口は開けっ放しの状態で、外の様子がすぐわかります。

 たまに通りかかる作業員が私に気づいて声をかけてくれていたのですが、このヒールの人は知らない人なのか、通り過ぎるだけで、まるで何かを探しているように同じ場所を行ったり来たりしていました。

 

 そんな状態が何分も続くと、さすがに不気味に感じて、誰なのか知りたくなってしまったのですが、振り返る勇気はありませんでした。

 

 早く田村さんに帰ってきてほしい。

 やけに喉が渇いて、あっという間にジュースを飲み干しましたが、ヒールの音は止まりません。

 何度も何度も、背中越しに聞こえるヒールが私の後ろを通り過ぎる度に、徐々に鳥肌が立ってきました。

 その頃にはもう、後ろを通る人が生きている人ではないと感じていて、同じ場所を忙しく走り回る工場の人達はヒールの人に気づかず、私に声をかけるのを聞いて、他の人には見えたり聞こえたりしていないことがわかったのです。

 

 一気に恐怖が私に襲いかかりました。

 

 ジュースが入った缶を握りしめて叫ぶのを我慢しましたが、意識すれば意識するほどヒールの音は大きくなっていき、いつ私の後ろで止まるのか、もし気づかれたらと、不安でいっぱいになりました。

 誰もヒールの音に気づかないし、田村さんも戻ってこない状況でうつむいていると、突然ヒールの音が私の背後で止まったのです。

 

 しまった。

 そう思った時にはもう、背中越しに冷たい視線を感じたのです。

 

 ヒールの人はそれ以上動きませんでしたが、視線だけは感じる状況で、早く田村さんが戻ってきてくれることだけを願っていました。

 そして、ヒールの人が私に近づいてこないことを祈り、ひたすらジュースの缶を両手で握って、いなくなってくれることだけを考えていたのです。

 

 早くいなくなれ、早くいなくなれ、早くいなくなれ。

 何度も何度も心の中でつぶやいていると、いきなり肩を掴まれました。

 驚いて振り返ると、焦った顔の田村さんが私を心配していて、その後ろには親しくしていた作業員の人達がいたのです。

 

「どうかしたの? 何かあった?」

 肩を掴まれたままそう言われ、私は人の間から見える仕切りの外を見ましたが、そこにヒールを履いた人は見えませんでした。

 ホッとしたのか、私はその場で泣いてしまい、近くで作業していた人達が私の泣き声にに気づき、しばらくの間、作業の一部を止めてしまうほど泣き続けたことは、今でもよく覚えています。

 

 田村さん達にヒールを履いた人がいたかどうか聞いて、その人が私の後ろを行ったり来たりしていたことを話しましたが、そんな人はいないし、作業場でヒールを履く人などいないと言われたのです。

 

 それからしばらくの間、工場ではヒールを履いた人を探してくれたそうですが見つからず、気のせいだったと思っていたのですが、大学に入って出来た友人にこの事を話したところ、彼女はいわゆる霊感があるらしく、振り返らなくて良かったねと言われたのです。

 

 彼女から聞いた話によると、あの日、私が出会ったヒールの人は生霊で、私の友人のお母さんだったらしいのです。

 誰のお母さんかまでかはわかりませんでしたが、どうやら子供が勉強に疲れて駄々をこねる度に、あの工場の話をしていたらしく、思い通りにならない苛立ちから、工場に生霊を飛ばしてしまっていたらしいのです。

 

 あの日だけでなく、もっと前からいたのではないかと言われたのですが、なぜ私だけにヒールの音が聞こえたのかと聞くと、生霊は工場を嫌いながら、工場に連れて行った私を恨んでいたのではないだろうかと言われました。

 その恨みが強かったため、偶然来ていた私に気づいて嫌がらせをしようと、ヒールの音を鳴らして私の背後を歩き続けたそうです。

 けれど気づいていないと思ったらしく、立ち止まって私を睨んでいたとまで言われて、あの時感じた冷たい視線を思い出してしまいました。

 

 大学の友人によると、この生霊の人は特に何か出来るほどの力は無かったそうなのですが、もし振り返っていたら、とても恐ろしい形相の彼女を見ていたことだろうと言われたため、たしかに振り返らなくて正解だったと安心しました。

 

 あれから工場は動き続け、つい先日に後継者不足で閉鎖するまで、たくさんの会社に部品をおろし続けたと聞いています。

 田村さんも動ける間は働き続け、閉鎖する数年前に亡くなるまで、ずっと工場の事を心配していたそうです。

 

 大学に入ってからは疎遠になりましたが、たまに帰ると変わらずにあったあの工場は、私のもう一つの家のようなものだったと思います。

 仕事で忙しかった両親が、他の親達から怒られても私が行くのを止めなかったのは、作業員の人達が優しくて、安心して任せられると思っていたからなのかもしれません。

 

 今ではすっかり見なくなった工場ですが、仕事で訪れる清潔な作業場を見る度にあの工場のことを思い出しています。

 今とは比べ物にならないくらい薄暗くて、お世辞にも綺麗とは言えない場所でしたが、働く人の思いが詰まっていたあの場所は、働く私の背中を押してくれる大切な場所です。

 いつか子供が社会人になったら、私の子供の頃の話と一緒に、工場のことや田村さん達のことを話したいと思います。

 

 もちろん、ヒールの人の話は内緒にしてですが。





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工場の靴音 逢雲千生 @houn_itsuki

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