第10話
『この子可愛いね。名前はなんて言うの?』
その日知り合った女の子は俺が連れていた子犬に大きな反応を示した。
『ラブ、ラブラドールレトリバーだからラブ。単純だろ?』
『ラブ、お手! ほら、お手!』
『あんあんっ!』
ラブは彼女の言葉の意味が分かっていないのか、ただ差し出されたその手をぺろぺろと舐めるだけだった。
『このボール投げてみ、ラブ喜んで取りにいくから』
『あ、ありがとう啓介くん。私やってみるね! ……えいっ』
彼女の投げたボールはあさっての方向に飛び、そして、
『痛っ! 何すんのよもう……』
公園のベンチに座っていた別の女の子にぶつかってしまた。
『ご、ごご、ごめんなさい!! 狙った訳じゃなくて、偶然で、その、ごめんなさい』
『……気をつけなさいよ』
『ほ、本当にごめんなさい……』
勢いの良い謝罪に対して、ショートカットのよく似合う活発そうな女の子は不機嫌そうに言った。その剣幕に押されて、髪の長い彼女はすっかり萎縮してしまっていた。
『もう今日はふんだり蹴ったりだわ、最悪……』
ショートカットの彼女の目は、赤かった。さっきまで泣いていたようだ、涙の跡が残っている。
『なあ、お前さ。一人なら俺達と一緒に遊ばないか?』
『け、啓介くん?』
彼女をこのまま放っておいては行けないような気がして、自然のその言葉が出ていた。
『は? 何であんたたちなんかと』
『いいからいいから、暇なんだろ? だったら一緒に遊ぼうぜ。俺は啓介、お前は?』
『私は――――』
※ ※ ※
「……ん、朝か」
目覚ましが鳴る前に、自然と目が覚めた。枕元の携帯電話を見ると、時刻は六時五十分。いつもの起床時刻の十分前だった。
「ふぁ~……」
あくびをしながら身体を伸ばす。昨日は早めに寝たので身体の調子は良い。今朝はまだ目覚ましに彼女は来ていないようだ。
「起きたら今までのことは全部夢でしたとか」
そういう禁断の夢オチというのは、
「あれ、啓介くんもう起きたんだ」
「……ないですよねー」
淡い期待は、ノックもせず入ってきた遥香の登場によって見事に否定された。
「おはよう。朝ごはん、用意できてるから早く降りてきてね」
「……うーっす」
自称幼馴染の登場から一日が経過していた。一晩明ければ全てが夢のように消えて元通りになっているのでは、という期待のもと昨日は早く寝たが事態は変わらず。やはりそう簡単には行かないようだった。
「朝ごはんも作ってくれるんか……」
彼女は幼馴染キャラとして抑えるべき点を完璧に抑えてくる。目覚まし、朝ごはん、登下校、お弁当、パーフェクトだ。
「夢みたいだが、夢じゃねえんだよなあ」
俺はひとまず、この現実を受け入れることにした。俺には中庭遥香という幼馴染がいるとひとまずは受け入れる。ギャアギャア騒いだって仕方がないことは昨日でしっかり理解した。そして彼女は俺に害意はない、と繰り返すがひとまず判断した。もし俺に害を為す気があるならば、そのチャンスは昨日いくらでもあった。寝込みを襲うこともできるし、弁当やバナナジュースに毒を仕込むのも簡単だ。なのに彼女は何もしなかった。
全面的に信じるというのは流石に無理だが、ひとまず彼女の存在を受け入れることにしたのだ。そうしなければこの世界では上手く生きていけそうもない。もちろん彼女への警戒を解くことはできないし、彼女に関しての調査は進めていくつもりだ。
制服に着替えて一階のリビングへ降りていく。
「改めておはよう、啓介くん」
「ああ、おはよう」
テーブルの上に並べられたのは、純和風の朝食。味噌汁にほうれん草の胡麻和え、焼鮭。これが二人分。糞、完璧だ。
「美味そうだな……」
思わずそんな言葉で出てしまう。いつも俺は朝食を食べない。もしくは学校にいく途中でコンビニで買っていくだけなので、こうやってリビングに本格的な朝食が並ぶのなんて久しぶりだった。
「えへへ……さ、食べよ食べよ?」
「いただきます」
「はい、いただきます」
まず味噌汁を啜る。白味噌の優しい味が寝起きの胃袋に染み渡る。具はオーソドックスにわかめと豆腐だった。あとは大根とかが入ると完璧だ。
「ふぁー……」
「ふふ、何変な声だしてるの?」
「うるせえ」
次はほうれん草に箸を伸ばす。甘い、美味い。焼鮭、美味い、ご飯が進む。しばらく俺は無言で朝食を食べ続けた。
「どうかな、今日のご飯」
「ふ、普通だ。うん、普通」
普通に、美味い。悔しいが美味いのだ。昨日の弁当も唐揚げだけじゃなくて全部食べればよかった、なんて今更後悔しても遅いのだけど。
「むむむ、また普通かー。もっと頑張らなきゃ」
「おう」
だけど彼女を素直に褒めるのは何だか癪で、俺は素直に美味しいとは言えなかった。
「……言ってやったら、喜ぶのかな」
「ん? どうしたの?」
「何でもねーよ」
彼女が喜ぶかどうかなんて、俺はどうしてそんなことを考えているのだろう。彼女のことは「ひとまず」害のないものだと認めはしたが、それでも得体のしれない存在だということは変わらない。警戒心を捨てることはできないのだ。
『……次のニュースです。また、刑務所でボヤ騒ぎが起きました。今月に入ってから3件目になります』
「ん、またこのニュースか」
『幸い今回も囚人の脱走はありませんでしたが、警察はテロの可能性を考慮して捜査を……』
最近このようなニュースが世間を騒がせている。どれもはっきりとした原因は不明。
「物騒だよなあ、最近」
物騒な話だが所詮遠い世界の話だと、自分には無関係な話だと思ってしまう。こういう風に考えるのは危ないことだとは思うが、どうにも自分の生活にテロリストだとか脱獄囚なんてのは場違いな感じが否めない。遠い世界の話より目の前の朝食に俺は集中する。
「あ、そういえば納豆あるか? こういう朝食にはやっぱり納豆が……」
遥香は俺とは対照的に、そのニュースを食い入るように見つめていた。彼女の表情は真剣そのもので、俺は彼女へ話しかけるのを途中で止めてしまった。
「…………………………」
「なあ、そんなに面白いか? そのニュース」
「…………………………」
「おーい」
「………へ? あ、ごめん! あはは、ちょっとボーっとしてた」
「ちょっとじゃねえだろ……」
「あ、あははは、ごめんね~、納豆だっけ? すぐ取ってくるね!」
不自然な笑みを浮かべながら、遥香は台所に引っ込んでいった。
「あ、怪しい……」
やはり彼女には何か裏があるのではないか、そう思わざるをえない反応だった。
『大事な話があります。今日の昼休み、体育館裏で待ってます。』
こんな手紙を貰ったら、どう思うだろうか。こんな手紙が自分の下駄箱に入っていたら、普通はどう思うだろうか。
① もちろん美少女からの告白。
② そんな風に思って体育館裏にホイホイやってくる馬鹿へのドッキリ。
③ 大穴、不良グループからの呼び出し。ボコボコにされ所持金を全て奪われる。
「①だったらどんなに嬉しいか……」
当然の様に付いてくる遥香と共に学校へ到着した俺を最初に待ち受けたのは、下駄箱に入っている謎の手紙だった。
「ん? 啓介くん、どうかした?」
「いや、何でもない」
目ざとい自称幼馴染に悟られないよう、俺は冷静にその手紙をポケットにしまった。
二階の教室へと向かいながら、手紙のことについて考えを巡らす。この手紙は誰が一体何のために送ってきたものなのか、手紙に書いてある断片的な情報から全てを導き出すのは難しい。
『大事な話があります。今日の昼休み、体育館裏で待ってます。』
書かれているのはこの文言だけで差出人の表記はない。筆跡から作成者を特定、なんていうのは素人の俺には出来やしない。書かれた字は非常に整っているとしか言い様がなく、男が書いたのか女が書いたのかも判別できない。
どうしてこんな手紙が書かれたのだろうか。①の展開が一番うれしいけど、無邪気にそんなことを考えられるほど俺は脳みそお花畑ではない。だから考えらるのは②、ただのいたずらという線が濃厚だ。こんな呼び出しに応じはしない。
「でもなあ……」
だがしかし、今の状況ではもしかするとそれも違うのかもしれない。
俺の幼馴染を名乗る謎の少女の登場、今回の手紙はその件に関わることなのかもしれない。そう考えれば行ってみる価値はあるだろう。別にドッキリとかいたずらだったとしても、俺に失うものなんてないのだ。もともと女子からの評価なんて高くない。
「うーっす」
「おう啓介、遥香ちゃん。おはよう」
「おはよう義史くん」
教室に入って、席につく。
「なあなあ啓介、昨日の」
「どれも見てない、ネタバレしたら殺す」
昨日の夜、本来ならチェックしているアニメは3本あるが、俺は昨日どのアニメも視聴しなかった。
「え、『キスブラ』も『おにあね』も『西野家』も見てねえの!?」
「ああ、今日帰ってから録画したの見るよ」
「珍しいな、アニメはリアルタイム視聴にこだわるお前が……」
「色々あるんだよ、俺も」
確かにアニメはリアルタイム視聴に限る、というのが俺の持論だ。一週間その時間を楽しみにして、ワクワクしながらテレビの前で放送を待って、そして集中してアニメを見る。実況スレなんかを覗きながら見るのも楽しいが、それでも最初はアニメと俺、一対一で向かい合うのが正しいと俺は考えている。他人の評価や感想という雑音を排除して、まずは自分一人でそのアニメと対峙して、自らの感性のみに従って評価を下す。ネットの掲示板を覗くのはそれからだ。
「今日はこれから雪でも降るんじゃないだろうか」
「んな訳あるか、五月だぞ」
昨晩それをしなかったのは意味不明な現実からの逃避であり、数%の夢オチという可能性への期待であった。それに精神的な疲れというのも原因だったりする。
「いやー昨日は『キスブラ』が最高だったぜ。日本に生まれて良かったって本気で思うわ」
「だからネタバレすんなって言ってるだろうが糞メガネ」
「いいじゃんよー、俺お前とアニメの感想語り合うの楽しみにしてるんだぜ? お前が居なかったら、俺は一体誰と……」
「気持ち悪いこと言うな」
「ああ啓介。今度発売するゲームなんだけどさあ、設定が結構ぶっ飛んでて俺好み。突然発生した謎のウィルスのせいで世界中の男の大半が死滅するっていうやつでな」
「で、何故かウィルスに感染しなかった主人公が人類を絶滅させないために、政府から複数の女性との子作りを義務付けられて、って感じ?」
「そうそれ!! いやあいいよなあそんなシチュエーション、男の夢だよなあ……。ああ、俺以外の男全員死なないかなあ」
「他の男が死んでも、きっとお前みたいな童貞はモテないから安心しろよ」
「お、お前だって童貞だろうが!」
ホームルームが始まるまでの間の教室は雑然としている。俺達のように下らない雑談をしていたり、イヤホンをつけて音楽を聞いていたり、寝ていたり、携帯を弄っていたり、真面目な奴は勉強していたり。制服姿で登校してくる生徒も居れば朝練終わりでジャージのままの生徒も居る。
隣の席をふと見る。
「ん? どうかしたの、啓介くん?」
遥香は次の授業の準備をばっちり整えて、自分の席に行儀よく座っていた。
「いや、なんでもねえけど」
こういうとき雑談を交わす女友達が、彼女には居ないのだろうか。そんな疑問が頭をよぎった。こいつ、意外に友達少ないのだろうか、可哀想なやつだなあ。
「あ、透子ちゃんだ」
なんて思っていたのだが、教室に入ってきた柳井を見つけて遥香はそちらへ向かっていった。柳井は朝練帰りなのか大きなスポーツバックを持っていたが、それでもしっかり制服に着替えていた。真面目だ。
「……なんだ。いるじゃねえかよ、友達」
そういえば柳井とは幼馴染だったのか。昨日遥香が言っていたことを思い出す。
遥香がにこやかに話しかけにいった。対する柳井は相変わらずクールだ。離れているため二人の会話内容については聞き取れない。
「……ん?」
柳井と、目があった。柳井は遥香と会話をしながら、目線だけをこちらにじっと向けている。彼女の何かを訴えかけるような視線に少し緊張してしまう。
「な、なんだよ……」
俺のつぶやきが彼女に聞こえるはずもなく、彼女はそのまま俺を見続ける。
そういえば犬と目があったら、先に目をそらしたほうが負けだと本で読んだことがある。それに習って俺も柳井から目をそらさず、じっと見続ける。負けてたまるか。
「む、むむむ……」
「何やってんだ、啓介」
「うるさい、俺は今犬との上下関係をはっきりさせてるんだよ」
「は? 犬?」
義史には目線を向けず、さらに柳井を睨み続ける。
俺の視線に負けた柳井は、恥ずかしげに目を逸らしこういうのだった。
『わ、私の負けです……、ご主人様』
『ふん、分かったなら犬らしくしてろ』
『はい、これでいいでしょうか……』
俺の言葉に柳井は四つん這いになり、服従のポーズを取る。
『駄目だな。どうして犬畜生が人間様の服を着ているんだ? 全部脱げ』
『そ、それは……!』
『返事は「わん」だ、分かったか? それ以外は認めないぞ、この駄犬』
『わ、わん……』
そう言うと柳井は顔を真赤にしてうつむきながら身につけた衣服を
「……啓介、今お前碌でもないこと考えてるだろ」
「震える手で脱いでいった。ブラウスのボタンが一つ、また一つと外されて、ピンク色の可愛らしいブラジャーが顕になる。制服のスカートが、足元にストンと落ちる。『ほら、下着もだ』『わん……』 彼女は震える声で応えた。潤んだ瞳に、赤く染まった頬。その表情は既に雌犬のそれだった。『ふふふ、いい格好じゃないか。ではご主人様からのプレゼントだ。この首輪、俺が直々にお前の首に着けてやろう』」
「なあ啓介、靴下だけは履かせとけよ! 全裸より絶対その方がエロいって! できれば黒のハイソックスが俺は良いと思う! ミニスカにはニーソだが、やはり全裸にはハイソ」
「啓介くん、義史くん……それ一体何の話?」
俺が別の世界に飛び立っている間に、遥香が自分の席に戻ってきていた。
「は、はははは遥香ちゃん!? ここっ。これは別にそのあのえっと全然いやらしい話しなんかじゃなくって」
「キョドりすぎだ、アホ」
これだから童貞は困る。
「ふーん、いやらしくないんだ。じゃあ啓介くん、何の話だったの?」
「愛犬のしつけ方について、だ」
「スカートとか下着とか、全裸とか聞こえたんだけど?」
「俺達は犬に服を着せるのはどうなんだって、そういう話をしてたんだ。なあ義史」
「あ、ああそうだよ遥香ちゃん!」
こいつ、頭のなかでは散々クラスメイトを陵辱してるくせに、リアルの女の子には本当に弱い。男ならもうちょっとこう、どっしり構えているべきなのだ。
「ふーんそうなんだ……あ、そういえば啓介くん」
「ん、何だ?」
女の一挙一投足に心を惑わされることなく、常に心を穏やかな海のように保つこと。これが男には必要だと俺は考える。
「洋服ダンスの下から二番目にあるエッチな漫画とか、全部処分しといたから」
「は?」
「ダメだよ、あんなのばっかり読んでたら。第一ああいうのは、一八歳以上じゃないと買ったらいけないんだよ」
「はあああああああ!!?? 何、あれ、お前、全部、捨てた!? お前、ふざけ、え!? いつ、いつ捨てたんだよ!? おい、まじ、プレミアついた同人誌とかあったんだぞ!?」
「今日、学校行く前。啓介くんが歯磨いたり顔洗ったりしてる間。全部ゴミ捨て場に出して来ました」
にこやかに笑いながら、遥香は残酷なことを言い放った。
「うおおおおおい! マジ、てめえ、この野郎!」
「お、落ち着けよ啓介。皆見てるぞ」
「落ち着いてられるかってんだアホ! 畜生、今から戻ればまだ間に合うか!? いやそれより収集所に行くべきか!?」
「え、啓介くん。どこ行くの?」
「決まってる、俺の宝を助け出しに行くんだよ!!」
俺は教室を全力で駈け出した。あれらが全て灰になってしまうなんて、俺には耐えられない。
「授業始まっちゃうよー」
「うるせえ、俺は行く!」
後ろから聞こえる遥香の制止を振りきって俺は全力疾走。失うわけには行かない、授業なんかより大切なものが、俺にはあるのだ。
祈りを込めて、俺は学校を後にした。前方から遅刻ギリギリで全力疾走してきた生徒とすれ違い変な顔をされたが、そんなことはどうだって良かった。
「頼む、間に合ってくれよっ……!」
と、ピロリロリーンという聞き慣れた音楽がポケットから聞こえる。
「……メール? 誰だよ、こんな時に」
走りながら画面をチェクする。
そして内容を見て、俺は立ち止まる。
「……ファック」
ぶち殺すぞ、あの糞アマが。
『差出人:中庭遥香
本文:さっきの全部捨てたっていうのは冗談だよっ☆ でも啓介くん、教室であんまりエッチな話ばかりしてちゃダメなんだからね?』
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