第5話
男は生きている人間が嫌いだった。
何故かと言われれば、それは“合わない”からだ。
集団が合わない。だから学校でも社会でも馴染めなかった。
昔から男は周囲と物の考え方が違うと気付いていた。
一時は“それ”を埋めようと努力した時期もあった。
けれど、それは無駄に終わった。
自分は他人と根本的な部分が違うのだ………。
たったそれだけの単純な事実に気付くのに随分と時間がかかった。
単純だがもう取り返しが付かないくらい、致命的な間違いだった。
どんなに努力して取り繕ったところで、いつかボロが出る。
人間として生きていく為にはある程度人間らしい振る舞いが必要だが、日常生活に困らない程度の人間らしさが身についていれば、それで構わない。
だから無駄な努力は止めた。
自分は人間とは違う生き物なのだから、社会にも馴染めるはずがないのだ。
一人孤独に生きていこう。
そう思う事で日々自身を苛むやるせない気持ちをを抑え込んできた。
それでも男に人恋しいと思う気持ちがあるのは確かだった。
そこで出会ったのが妻だった。
きっかけは高校の同窓会だった。
男はその日を、人生最後の日にしようと考えていた。
これまでは男は、そういった大勢の人間が集まる場を避けてきた。
だが、「もう最後だから」と思えば、不思議と寛容になれた。
そう、男はもう死ぬだから、後先のことなど考える必要がないのだ。
下手に自分を普通の人間らしく見せようとする必要も、普通の人間らしい振る舞いを無理にする必要もない。
きっと男の事など誰も覚えていないし、思い出話に花を咲かせる事もない。
それでも、初めて味わう同窓会の雰囲気の中で、かつてのクラスメイト達と同じ空気を共有ながら、一人でひっそり食事をして過ごすのも悪くないように思えた。
そうしてその数時間後、帰宅した男は部屋で死に行く準備をして、たった一人で人生を終わらせようと考えていた。
同窓会に参加していた連中は何て思うんだろうか。
どうしてよりによってこの日を選んだ?
せっかくの楽しい思い出が滅茶苦茶にされた!
そう思われても別に構わない。
それはそれで愉快な気分だ。
男と違って、連中は大いに青春を謳歌してきたはずだ。
顔も名前も覚えていないような同級生の事なんて、どうせすぐ忘れるんだろう?
ちょっとくらい、いいじゃないか。
それくらい、許されていいはずだ。
そんな捻くれた気持ちで迎えた、同窓会当日。
「〇〇くんよね、久しぶり」
その女は、『ミズウチユウコ』と名乗った。
ミズウチ………ミズウチユウコ………瑞内憂子。
ああ、あの瑞内憂子か。
「覚えててくれたんだ。嬉しい」
そう言って女は………瑞内憂子は、本当に嬉しそうに笑った。
確かに覚えてはいたが、高校時代に女と別段親しくしていたわけではない。
当時の女に対する印象は“教室の隅の方でひっそりと読書をする地味な少女”くらいで、親しくしたり会話らしい会話をした記憶すらなかった。
当たり前だ、男もまた同じように隅の方で読書をしながら、長く窮屈な一日が過ぎ去るのを待つだけの無口な少年だったのだから。
もし男にほんの少しでも社交性というものがあったら、同じ趣味を持つ者として、話し掛けたり何か会話のきっかけになったかもしれない………そう考えた事もあった。
だが高校生の頃の男は、先の失敗で既に周りとの関わりを諦めていたので、自ら誰かに話し掛けたりする事はしなかった。
最早他人に興味が無かった。
ところが女の方はそうではなかったようだ。
女は同じように教室の隅っこで読書をする男に、少なからず興味を持っていたらしい。
何度も話し掛けようとしたが、勇気が出なかったようだ。
「あの頃の私、人見知り激しくて引っ込み思案な性格だったから………クラスの女の子どころが、男の子に話し掛けるなんてできなくて………。
でも、これじゃ駄目だ!と思って、高校卒業してから、自分の性格変えようって頑張ったのよ」
確かに今、男の目の前にいる女は、かつて教室の隅でひっそり読書をしていた、あの影の薄い少女とは思えないくらい、明るくなっていた。
男の中の朧げな記憶では、そもそも判断材料として少ないかもしれないが………少なくとも記憶の中の瑞内憂子が、こんなに楽しげな笑顔を浮かべているのを見たことがなかった。
「なんだか本当に懐かしいわ。ねえ、これから2人で抜け出さない?わたし、もっと2人っきりで色々話したくなっちゃった」
男はその言葉に心底驚いた。
止めろ。それ以上深く関わりを持つな。
頭の中で、そんな声がした気がした。
誰でもない、それまで他人と深く関わる事を避けて生きてきた男の、自分自身に対する警告だ。
無意識に握り締めた拳が、じわりと汗ばんでくるのがわかった。
「そうだね………じゃあ、行こうか」
気が付くと、男は自宅に帰っていた。
隣には、瑞内憂子がいた。
あっという間に夜が明け、女は自宅へと帰ると、その日のうちにまた男の部屋へと戻ってきた。
瑞内憂子との生活が始まった。
「あなたって、几帳面そうに見えて、案外お掃除苦手なのね」
目まぐるしい日々だった。
男の部屋は憂子の手によってテキパキと片付けられ、乱雑に積まれていた本の数々は綺麗に整頓され、窓から床や家具の裏やその他細部に至るまで、完璧に掃除された。
そうしてすっきりと片付いた部屋に空いたスペースに、先月に偶然男の自宅近くに引っ越してきたばかりだったという憂子のマンションから、毎日のように荷物が運び込まれた。
憂子は男の部屋で毎日食事を作り、掃除や洗濯、男の身の回りの世話をすべてこなした。
そのおかげで男は何不自由ない生活を送れるようになった。
甲斐甲斐しく男に尽くす憂子との暮らしが当たり前になった。
その頃には自殺しようという考えも綺麗さっぱり吹き飛んでいて、男の頭の中にあるのは愛する女の事だけで、それ以外の事など考える必要はなかった。
「私ね、子どもがほしいの」
妻となった女は当然の流れのように、そう口にするようになった。
愛する者との間に生まれた子どもを望む事はごく自然な流れだろうと、男は特に深く考えずに「そうだね、僕もそう思うよ」と答えた。
けれど、それは間違いだった。
子どもがほしいと告げてから、妻は度々、子どもが生まれてからの事をあれこれ話すようになった。
「女の子と男の子、どっちかな?名前は何がいいかしら?顔は私とあなた、どっちに似てると思う?私ね、実は自分の好きな部分が目なの。だから、目は私にそっくりで、性格はあなた似がいいなぁ。優しくて、ちょっぴり自分に自信がなくて、だから守ってあげたくなるの。そうそう、習い事はピアノがいいわ、わたしも小学生の頃まで習ってたから。発表会には両親揃って見に来てくれたんだけど、わたしも子どもが出来たらそうしたいって思っててね。子どもがピアノを習ってるって知ったら、母は特に喜んでくれると思うの。だったらおばあちゃんおじいちゃんも発表会見に行くわ!とかはしゃいじゃって。そうすればきっと、自信だってつくわ。だってわたしとあなたの子どもだもの。あぁ、早く生まれないかしら。
………あら。あなた、もう寝るの?」
まだ生まれてすらいない子どもについて、ここまで想像力豊かに語れるものなのか。
女性とはすごいものなのだなと、ただただ関心するばかりだ。
妻が思い描く未来は男の想像力を遥かに超えるもので、全く理解が追いつかない。
それも当たり前なのかもしれない。人との関わりを避けてきた男にとって、他人と共同生活を送るようになっただけでも奇跡のようなものだ。
そもそも男にとって妻と2人で暮らす今の生活がすべてで、それだけで世界は完結していた。
他に望む事などあるだろうか。
これ以上、人間として幸せを望む事は、許されるのだろうか?
男は人間が嫌いだ。
だが、何も根っからの人間嫌いという訳ではない。
人が全く寄り付かないような山奥に身を隠したいとか、いっそ無人島で一人孤独に生涯を終えたいなどとは思わない。
他人と適度な距離感を保ちつつ、過剰に干渉されたりする事なく、平穏無事に過ごせるなら、それでいい。
同窓会で妻と再会し、一緒に暮らすようになってから、男の日常はがらりと変わった。
変化する事は悪い事ではない。生きていれば人は成長するし、それに伴い生活や価値観も変化するものだから。
ただ、マニュアルに沿うように生きて来た男にとって、変化が大きくなればなるほど、不安は募っていく。
そのマニュアルとは、男がこれまでの人生で積み重ねてきた経験から学んだ、普通の人間らしく見せる為の術だ。
周囲の人間と馴染まなくとも、ある程度社会に溶け込む為の手段でもあった。
………普通の人間というのは、新しい家族が出来るという変化に、どのようにして対応していくのだろうか。
子どもが出来れば、自然と母親らしく、父親らしくなるのだろうか。
よく『最初から完璧な母親や父親などいない』と耳にするが、男にもそれは理解できる。
日々成長していく子どもと一緒に、それを支える親も少しずつ変化していくのだろう。
もし、妻の望みを受け入れ、実際に2人の間に子どもが産まれた時……果たして自分は“まともな父親”になれるだろうか?
男は人間が嫌いだったが、それと同じくらい自分が嫌いだった。
家庭でも、学校でも、会社でも、周囲の人々と同じように振舞ったり、同じような考え方ができない、そんな自分がどうしようもなく厭だった。
男の人生は失敗だらけで、自分に自信など持てなかった。
その上男は“自分は人間ではない”という考えに、完全に囚われていた。
ずっとそうやって生きてきた為、最早その偏った思考も今の男を形作るパーツの一部となっていた。
妻が子どもの話を持ち出す度、男の表情は次第に曇るようになっていった。
自分には人の親になる自信も覚悟もない。
そんな自分が父親で、果たして産まれてきた子どもを、妻を幸せにする事などできるのか……?
そんな男の様子がおかしい事に、妻は気付いていたのかも知れない。
この頃男は毎日のように続く子どもがほしいという妻の誘いを、何かと理由をつけて断る事が多くなっていた。
そんな男の態度に日々募る不安や疑念からか、ある日妻は、仕事から帰って食卓に着いた男に「食事の前に話がある」と切り出した。
「ねぇ、あなた。私ね、赤ちゃん、できちゃったみたいなの」
気が付くと、男は床に倒れていた。
横倒しになった椅子とテーブルの間からふらつく体を起こして辺りを見回せば、部屋の隅でぼんやり座り込んでいる女の姿が目に入った。
いったい何があったのか………そう訊ねると、女は俯いたまま、こう答えた。
「気絶するほど嫌だったのね。それならそうと、言ってくれればよかったのに」
妻の言葉を聴いた瞬間、不自然な呼吸になったかと思うと、そのまま倒れ込んでしまい、ほんの一瞬だか気を失っていたらしい。
そんなにショックを受けるなんて思わなかった、と妻は顔を覆い、肩を震わせた。
男はただ謝ることしかできなかった。
取り返しのつかない失態で妻を傷付けた、そんな途方もない罪悪感で今にも胸が押し潰されそうになりながら、男は思い付くかぎりの謝罪の言葉を、肩を震わせ嗚咽を漏らす背中に向かってかけ続けた。
済まない………許してくれ………
僕が悪かったよ………
ごめん………ごめんなさい…………
もう君を傷付けるようなことなんてしないから…………
約束する………絶対に、絶対に………
だから………だから…………
ごめんなさい、ごめん、ごめんなさい…………
ゆるして、
憂子………憂子、ごめん、憂子、憂子………ゆうこ……………
愛してるよ「子どもが出来たなんて嘘なの」
それまで妻への謝罪で溢れかえっていたはずの口から、気が付くと百八十度真逆の言葉を吐いていた。
妻への罪悪感は一瞬で吹き飛び、今男の心にあるのは、激しい怒りだった。
男は昔から自分の感情を周囲に伝えるのが苦手だった。
何か嫌な事をされても嫌とは言えず、全て胸の内に留めてきた。
自分のような者が、他人に意見し口答えするなど、許されるのだろうか。
そう思って生きてきた。
だが今の男はまるで人が変わったように妻を罵り、ありとあらゆる暴力的な言葉を妻に浴びせ続けた。
男は許せなかった。
裏切られたような心地だった。
何故この恐怖を理解してくれないのかと、叫び出したいような、泣き喚いてしまいたいような気持ちで、頭の中がグチャグチャだった。
男の目には、恐怖と、憎しみと、それから深い悲しみの色がいっぱいに滲み出ていた。
嵐のような言葉の暴力が止み、男が肩で息をする音と、小さく啜り泣く声。
ただそれだけ。
部屋は恐ろしい程の静けさに包まれた。
「嘘つきはどっちよ……」
ぽつりと、降り始めの雨のように降ってきた言葉に、男はすっかり感情の抜け落ちた白い顔を前に向けた。
こちらに背を向け蹲ったままの女が、同じように白い顔でこちらを振り返っていた。
そしてその目には、男が先程していたのと同じ――― 恐怖と、憎しみと、それから悲しみがいっぱいに入り交じった―――そんな、深い深い色に濁った目で男を見ていた。
その時、一切の感情が抜け落ちたかに見えた男の目に、鋭い光が宿った。
『嘘つき』
女の言葉が、男の頭の中で何度も反響する。
それは激しく跳ねるボールのように、恐ろしい程の静寂を湛えた部屋の空気を裂くように、男の頭を突き破るようにして弾け飛ぶ。
その言葉は壁や家具にぶつかる度に分裂して、数を増やし、弾丸のような雨を部屋中に降らせた。
目を開けていられない程に強烈な雨だ。
ザァザァザァザァと耳にノイズが張り付いて邪魔だ。
身体中に叩き付けるように降り注ぐ雨水が不快だ。
男は手を伸ばした。
雨の中、打ち捨てられた一体のマネキンを見つけたからだ。
男には解っていた。
この人形から雨が降っている。
この耳障りなノイズも、身体中に纏わりつく水も、全部、この人形の仕業なのだ。
「ただの人形が、中身が空っぽのモノが、人間の真似をしようとするからこうなるんだ」
それは人形の言葉なのか、それとも男自身が発した言葉なのか、もう何もわからない。
ゆっくりと指が沈んでいく感覚。
とても中身が空洞とは思えないくらい、掴んだ手に伝わってくる感触はひどく柔らかだった。
男は再び静寂に包まれた部屋の中で、妻であったはずの女の身体をゆっくり床に横たえた。
それから見開いたままの目をそっと閉じてあげると、男はその顔を覗き込むようにして見て、ふっ、と満足そうに笑った。
男はゆっくり立ち上がり、倒れたままの椅子を起こすと、そこに女の身体を座らせた。
また男は満足気に笑った。
男は少しでもバランスを崩せば倒れてしまいそうな女の身体を椅子ごと抱き締めた。
男はこの部屋で女と生活するようになってから、今この瞬間になって、初めて二人っきりになれたような心地で満たされた。
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