第4話
「そうだ、こんなことをしている場合じゃない」
男の手から離れた黒服の体はぐらりと真後ろに傾くと、そのまま床に派手な音をたてて倒れた。
その衝撃的で黒服の左腕が外れた。
それから、ぴくりとも動かなくなった。
どうやら壊れてしまったようだ。
直してやりたいが、今の男に構っている時間はない。
男は扉に向かい、歩き出す。
こうして男は二つの黒服を残して部屋を出た。
水槽と檻に囲まれた部屋を抜け出し、その先に待っていたのは男が侵入して最初に入った部屋、食事をしたあの場所だった。
ここに来るまでに通ったはずの長い廊下や、冷蔵庫の部屋は跡形もなく消えていた。
“すとん”と切り落とされた切り口同士を無理矢理繋ぎ合わせたような、綺麗な違和感。
それを不思議に思いながらも、男は出口を目指した。
蝋燭の炎が灯る中央のテーブルの脇を通り過ぎる。
ガラス皿の中、水面に浮かぶ溶けて崩れた蝋燭は人の手の平の形をしていた。
そんなことには目もくれず、男はドアノブを掴んだ。
扉を開くと、そこに現れたのは壁だった。
男は扉をそっと閉め、今度は勢いよく開けてみる。
それでもやはりそこにあるのは茶色い木目の壁ばかりで、四角く見えるはずの外の風景を覗くことは出来なかった。
外側から塞がれているのではないかと男は壁を叩いてみたが、返ってきた音は思いの外重く、まるで本物の壁のように聞こえた。
どういうことなのだろうか。
男はゆっくりと後ろを振り返り部屋を見渡した。
テーブルの上では相変わらず蝋燭の炎が揺らめいている。
外から光が差し込むことのない部屋は、それでも明るかった。
そもそもここには窓がない。
四角い空間には出口のない扉しかなかった。
男は間違いなく窓からここに入ったというのに、そんなものはどこにも存在しない。
ひょっとしたら消えた廊下や冷蔵庫の部屋のように、窓もどこかへ行ってしまったのだろうか。
何が何だかわからなくなる前に頭の中でそう片付けて、男は壁沿いに部屋の中を歩き回った。
ぐるぐる、ぐるぐると。
男が何周回ったのかわからなくなったのは、出口だったはずの扉がいつの間にか消えてしまったからだった。
部屋をぐるぐると回りながら男の頭の中もまた同じようにぐるぐると回っていた。
男の焦りは募るばかりで、それはいつしか苛立ちになり、不快感になり、そして得も言わぬ不安へと変わっていった。
とにかく気持ちが悪い。
いっそこの心臓を刔り出し潰してしまえたら、どんなに楽になれるだろうかとさえ思った。
けれど男には男の帰りを待つ妻がいた。
早く妻の許に帰って残りの妻を食べなければならない。
男は部屋をぐるぐると歩きながら、頭の中を逆の方向へぐるぐると回した。
ずっとそうしているうちに男は部屋と頭のどちらが回っているのかわからなくなり、何度もよろけては壁に頭をぶつけた。
どこまでが自分の身体で、どこからが外側なのか、区別がつかない。
そしてとうとう男は部屋の隅で、ぱたりと倒れた。
ふと何かの気配を感じて顔を上げると、目の前に大きな黒い影が佇んでいた。
「夢の中から出られないのは、見つけられなかった物がまだあるのか、目を覚ましたくないと思っているかのどちらかです」
首から上のない黒服が、取れた頭を“ちょこん”と手の平の上に乗せて、そこに立っていた。
「夢?」
「はい。受け入れ難い現実から一時でも逃れる為、夢を見ているのです」
「そうか、夢か……」
黒服の言葉を素直に聞き入れた男は、では今自分が受け入れられずにいる現実とは何か、考えてみることにした。
そして真っ先に思い浮かんだのが、妻を殺したことからの逃避だった。
しかしそれは妻を殺していた場合の話であって、真実ではないと男は信じていた。
第一、妻は死んだりしない。
そもそも、人間は体をバラバラに切り刻んだりしたぐらいでは死なないのだから。
この瞬間も男の帰りを今か今かと待っている妻のことを思うと、息苦しくなる程に胸がぎゅうと締めつけられた。
「よくお考え下さい。何が真実で、何が偽りなのか。自分を騙し続けても、奥様の許へは帰れません」
だから何だというんだ。
一体どうすればいいんだ。
ない交ぜになった苛立ちと焦りが腹の底でぐるぐると黒く渦巻いているようで、とてもまともに考えられる状態とはいえない。
これが夢だというのならば早く覚めてくれと、男は切実に願った。
「では、一つヒントを差し上げます」
その言葉に、男は勢いよく顔を上げた。
「な、何だ?教えてくれ!」
「貴方の考えには一つ、重大な誤りがあります。それは認識のミスです」
誤り?認識のミス?
それは何だ。
一体私が、何を間違ったっていうんだ。
「先程申し上げた通り、人間には血も肉も骨もあります。
そして、首から上だけになって喋ることが出来る人間など、存在しません。
ましてや中身が空洞な人間など、有り得ないのです」
さっきも思ったが、こいつは何を言ってるんだ?
人間の身体は、分厚い皮膚一枚で出来ている。
そんな簡単な構造で出来た身体は、確かに壊れやすいが、それも直せばいいだけの話で、間違っても“死ぬ”なんて事態にはならない。
妻の身体がそうだ。
私の妻は首を切り落としても、身体をバラバラにして切り刻んでも、血の一滴すら流す事なく、ただ静かに私の口に運ばれるのを待っていた。
「間違っていない、私は何も間違ってなんかないぞ……」
今でも鮮明に思い出す事のできる光景を反芻しながら、焦点の定まらない目を彷徨わせては『間違っていない』と繰り返した。
「ああ、いけません。またご自身の世界に浸り込まれては」
黒服の頭が何やら話し掛けてきたが、男は無視してそのまま記憶の反芻を続けた。
次第にくらくらと頭の中が揺れる感覚に襲われる。
きっと部屋の壁が回っているせいだ。
ひょっとしたらこの店が丸ごと回転しているのかもしれない。
気が付いたら男の周りの風景は回り出していて、頭と胃の中もぐるぐるとかき混ぜられているような何とも言えない不快感に吐きそうになる。
それでも真っ白な部屋は回り続ける。
一面の白。
ここは窓も扉もない部屋。
中身は中央のテーブルと今にも吐きそうな男。
そして二つの黒服。
そういえばこの回転のなか黒服はどうなったのかと、男は揺れる視界を探す。
揺れる風景の中、まるでピントの合った写真のように“ぴたり”と静止した黒服を見つけた。
「あれ………なんでだ?」
思わず口を開けば、その拍子に不快感の塊を吐き出しそうで慌てて両手で塞いだ。
仕方なく目だけで訴える。
しかし黒服はピタリと静止したままで動かない。
今度こそ本当に壊れたのか?
どんなに疑いの眼差しを向けても黒服は一向に動く気配を見せない。
いつの間にか頭と胃の不快感は止んでいた。
まだ少し余韻は残っていたが、ゆっくりとなら立ち上がる事ができた。
またいつ部屋が回り出さないかと不安を抱えつつ、男はふらつく足で黒服の傍までそろそろと近付いた。
黒服は相変わらずぴたりと静止したままで動かない。
何度か話し掛けてみるが、返事はない。
体は頭を持った手を胸の高さにキープしたまま、頭は瞬きの一つもしない。
本当に壊れてしまったのかもしれない。
男はこれからどうすればいいのか、途方に暮れた。
案内人の黒服が壊れて動かなくなった今、ここから自力で脱出する術を考えるしかなくなった。
部屋が回転する前に言った、黒服の言葉を思い出す。
あれはどういう意味だったのだろうか?
もう一度男は黒服の顔を覗き込んだ。
そこには真っ暗な目があるだけだった。
ぽっかりと開いたその目は、何だか人形のもののようだった。
人間も人形も、作りは同じだ。
頭と、手足と、胴体と。
それらを繋げてくっ付けて、あとは誰かの意思で動かすのだ。
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