第3話
男は大きな檻の前にいた。
檻の中では沢山の動物達がひしめき合っている。
突然点いた明かりにびっくりしたらしく、周りの様子をキョロキョロと窺ったり柵のそばを行ったり来たりと忙しなく動き回ってた。
その様子を見ていた男の正面に一匹の豚がやって来た。
柵から鼻を突き出し体を揺すり口を動かす仕種から鳴いているかもしれないが、動物達を閉じ込める檻の柵と男との間は分厚いガラスの壁で隔てられていて、鳴き声はおろか生き物が立てる音は一切聞こえてこない。
まるで消音状態のテレビを観ているような奇妙な静寂だった。
――――案内するという黒服の言葉を合図に部屋に明かりが点けられ、そこで初めて男は部屋の全貌を目の当たりにすることになった。
部屋の明かりが点けられてから男が目にしたものは檻だった。
大型の獣を飼うような大きさの檻が、左右の壁沿いに端から端まで隙間なく並んでいる。
その檻の中では明かりに反応したいくつもの影が動いているのが見えた。
水族館の次は動物園か………。
『培養食肉はこのようにしてパーツごとに作り出されます。
それぞれ培養に適した媒体に細胞を植え込むことで徐々にその形を成し、やがて本体と全く同じ完全なパーツが再生されるのです』
檻の中に何があるのか、男にはわかっていた。
いまだ冷たい床に手をつき座り込んだままでいる男が見上げた先には、眼球の生えた魚が泳ぎ回る姿があった。
男は力の入らない足を無理矢理奮い立たせると、黒服の横を擦り抜け一人檻の方へと歩いて行った。
黒服は何も言わずただそれを見守っていた。
こうして男は檻の前に辿り着いた。
男が先程までの出来事を思い返している間も、豚は相変わらず鼻を突き出しては体を揺すっていた。
その動きに合わせて本来あるべきはずもない場所からだらんと垂れ下がった“人間の腕”が揺れている。
死人の腕のようなそれは豚の背中から生えていて、後から付けた訳でもなく皮膚と皮膚が完全に融け合い一つになっていた。
左右に二対、羽のように腕が生えている。
男はガラスの壁沿いに歩きながら檻の中を観察した。
どうやら巨大水槽の魚と違ってこの檻の中の動物にはパーツごとに役割が決まっている訳ではないらしく、色々な動物に腕やら足やらが好き勝手に生えているのがわかる。
男は先程とは別の豚の前で足を止めた。
こちらは横っ腹に手首から先だけが三本生えていて、大きさからして幼い子供のもののようだった。
まるで風船の内側から押し出すような格好で手が突き出ている。
ダシテヨダシテヨダシテヨダシテヨ呪いの言葉を豚の腹の中で繰り返す子供の、藻掻く小さな手がばりばりと皮膚を突き破っては、ぬらりと血に塗れた指を蠢めかせ中から這い出してくる………。
そんなおぞましい光景が流れ込むように男の頭を過ぎった。
ぞっとして、男はおいでおいでと手招きをする幼子の手から反射的に視線を逸らした。
そして足早にその場から離れて先を急いだ。
柵の前に群がる動物の一つ一つを確認し、時にガラスに手をつき覗き込みながら、男は端から端まで檻を見て回った。
やっとのことで右手に並んだ檻全てに目を通すと、息を吐く暇もなく今度は反対側の壁へ向かった。
その道すがら入口の扉の前を通り過ぎようとした時、このまま逃げ出してしまいたいという思いが強く込み上げて来た。
そんな思いから男は扉の前でつい足を止めてしまった。
「出て行きますか」
気配もなく黒服が男の背後から問いかける。
男は何も言わずに再び歩き出した。
ああついに最後のチャンスを逃してしまったと、徐々に遠ざかる扉を背にする男の心に後悔の念が過ぎった。
それを振り切る為に男はひたすら足を動かし歩き続け、余計なことを考えないようただ前へ進むことだけに集中した。
そうして目指す片側の檻に辿り着く頃にはもう迷いはなくなっていた。
これで引き返すことはおろか、もう二度と店の外に出ることは叶わない。
決して表沙汰には出来ない店の、動物の体を使って人体の一部を作り出すというとんでもない事実。
そんな重大な秘密を知った部外者である男を無事に帰してくれるとは到底考えられなかった。
ひょっとしたら明日にでも物言わぬ食材に成り果て、さっそく店のテーブルに並べられているかもしれない………。
それは十分有り得る話だった。
ここはそんな店なのだから。
この店の存在をいつどのようにして知ったのか、男ははっきりと覚えていない。
ただいつの間にか男は深い森の中にぽつりと佇むこの不思議な店の前にいた。
「お待ちしておりました」
黒服は恭しく一礼すると男を店の中へと導いた。
こじんまりとしていた外見からは考えられないほど店の中は広く、出入り口は男が通って来た扉だけで、他は窓すら見当たらない。
四角い部屋を満たすのは、壁に掛けられた蝋燭の明かりだけだった。
中央の丸いテーブルには、水の張られたガラスの器に薔薇を象った蝋燭の花が浮かんでいた。
促されるまま席に着くと、間もなく黒服の手によって運ばれた豪勢な料理の数々がテーブル上に並べられた。
男はそれらを片っ端から夢中で平らげていった。
男は考えるのを止め、再び捜索を始めた。
少年か、あるいは少女のものとおぼしき細い足の生えた山羊が、檻の中から静かに男を見ている。
そこから順に男は檻の中の動物達一つ一つを根気よく確認して回った。
男には例え腕一本であっても、それと見分ける自信があった。
腕に足、指や唇や舌や耳、ひしめき合う肉の群れ。
だがどれも男が探しているものとは違う。
それでも男は決して諦めようとはせず、必死になって愛する妻の身体の一部を探した。
「………どういうことだ」
ぴたり。
男は突然足を止めた。
そして後ろで影のように控えている黒服に、酷く震えた声で問いかけた。
「妻はどこにもいないじゃないか」
男は時間をかけ檻の中の動物達全てに目を通し、ようやく端まで辿り着いた。
それなのにどこを探しても男は妻を見つけることが出来なかった。
「何故だ、妻はこの中にいるんじゃなかったのか?答えろ!」
身体中の血液が沸騰するかのような怒りが沸き上がり、男はそれを抑えることなく言葉に変えて黒服にぶつけた。
そんな男を前にしても黒服の目は相変わらず人形じみた感情のない目を向けるばかりだった。
そして、信じられない言葉を口にした。
「申し訳ありません。お客様を奥様の培養食肉の許までお連れすることは出来ません」
「は………?」
男は最初、何を言われたのはわからなかった。
雑踏の中で聞こえる通行人達の、耳に留まることなく通り抜ける会話のように、内容をちっとも理解出来ない。
しかし今一度その言葉を思い起こし反芻するうちに、忘れかけていた怒りがふつりふつりと込み上げて来た。
「あ、あんた………言ったじゃないか、案内するって!」
「勿論、お客様の強いご希望とあればご案内致します。ただし、それが存在すればの話です。この場にない物のところへなど、どうやって案内することが出来ましょうか」
一体何を言っているのか。
要領を得ない黒服の話に男は苛立ちを募らせた。
こんなに必死になっているというのに、言葉で謝ってはいても顔色一つ変えない黒服の態度に男は殺意すら覚えた。
「だったら………妻はどこにいる。ここじゃないならどこにあるというんだ?言え。でなければ殺してやる」
その言葉に嘘はなかった。
これ以上訳のわからないことを話そうものなら本当に殺してしまおうと考えていた。
男はすでに妻を手にかけるという逃れられない罪を犯しており、それだけでなく店の秘密を知った為に二度とここから出られなくなってしまった。
男を裁く、あるいは守る法はこの場所にはない。
どうせすぐに死ぬのだから、もうどうなったって構わない。
「教えろ!妻の肉はどこにあるんだ!?
どこに………どこにいるんだ………
私の妻………どこだ………
どこなんだ、どこ………どこ………
妻は………私の………妻………肉、妻の………肉、肉………あああ………ああ、
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ「そう申されましても存在しないものの場所をお教えすることは出来ません」ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。」
は?
男の喉から溢れ出る音に、埋もれるようにして黒服の口から発せられた何か。
破裂してしまうのではないかという程の錯乱状態に陥っていた男の頭は、とっさにそれを理解することが出来ず石のように固まってしまった。
「存在しない………?」
「はい、ございません。奥様の培養食肉など、初めから存在していないのです」
「何を言ってるんだ………?そんな訳ないだろう、だって私は、私は妻の肉を………」
「確かに召し上がりました。あたかも目の前にあるものが奥様の肉であると信じて」
ああなるほど、そういうことか。
「畜生………騙したなっ!」
猛烈な怒りが沸き上がり、男は感情の任せるままに黒服に掴みかかった。
「おかしいと思ったんだ………何が培養食肉だ!どうせこの動物達も作り物だろう?こんな馬鹿げたことあってたまるかっ!!」
どんッ!と男の拳がガラスの壁に叩きつけられ、その衝撃が伝わったのか檻の向こうの動物達がびくりと身を震わせた。
それでも黒服は全く動じることなく、瞬きもせずにただじっとこちらを見つめたままで、そこに感情の乱れや動きなどは一切感じられない。
まるでガラスケース越しの人形と対面しているようだ。
男の心にじわりじわりと、得体の知れない恐怖が芽生え始めた。
「――――うわあああッ!」
衝動的に拳を振り上げた男はそのまま黒服の顔目掛け、勢いよく殴りつけた。
ばきっという音を立て、黒服の顔が傾いた。
それでも男は構うことなく続けて2発、3発と拳を叩きつけた。
そんなことをされながらも黒服は一切抵抗する様子を見せず、ただ黙って殴られ続けている。
ますます気味が悪くなってきた男はさらに強く拳を奮った。
拳を叩きつける度に黒服の顔は柔軟さを失い、みしみしと軋んだ音を立てた。
不自然に白くて硬い肌が、男の手から滲み出た血で赤く染まる。
みしっ、みしっ、みしっ。
殴る。
黒服の首が軋む。
顔面が破損する。
殴る殴る。
体は直立したまま動かない。
悲鳴や苦痛の声すらあげない。
殴る殴る殴る。
感情もない。
生きているのかさえわからない。
殴る。
殴る、殴る。
殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
「何なんだよ………何なんだ何なんだ何なんだうああああっ!!」
ぼきっ、
ごとん。
黒服の首が転がり落ちた。
左手は黒服の胸倉を掴み、右手は本来顔があるべきはずの何もない場所で止まったまま、何が起こったのかわからない男はしばらく呆然と立ち尽くした。
人間の首とは、そんな簡単に取れるものだったのか。
妻の首を切断した時はどうだっただろう。
確か妻の首の皮膚は思いの外硬く………違う、今考えなければならないのは目の前の黒服のことだ。
それにしてもなんて真っ暗な断面をしているんだろう。
そこには肉も骨もない、ただの空洞があった。
そうか、人間の身体はからっぽだったのか。
「いいえ、人間には肉も骨もあります」
黒服の首が喋った。
言葉を発するということは、黒服は歴とした人間ということになる。
「首から上だけになって喋ることが出来る人間など存在しません」
何を言っているのか。
私の意思を汲み取り、しっかりと言葉を返してくるのだから、歴とした人間に違いないだろう?
そうだ、人間というのは首を切断されても死なないものだったじゃないか。
血を流したりなんかしないし、そもそも空洞なのだから、そんなものありはしないんだ。
私の、妻のように。
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