第2話
ギィィィ………。
見上げる程大きな扉が不気味な音を軋ませながら開いた。
ここに辿り着くまでにいくつもの扉を目にしてきた男だが、目の前で徐々に口を広げていく暗闇からは今まで以上に何か得体の知れない、畏れのようなものを感じていた。
ふと、扉の隙間から青白い光が見えた。
どうやら部屋の奥の壁からのようで、暗闇の中ぼんやりと浮かび上がっているのがわかった。
「どうぞ、中へお入り下さい」
黒服に促され男は恐る恐る部屋へと足を踏み入れた。
部屋の外側から差し込んだ光は暗闇を歩くのには心許ないが、ここまで来て引き返すわけにはいかないと、男は覚束ない足取りで一歩、一歩と進んで行った。
ずしん、と男の背後で重たい音が響いた。
男は一瞬にして暗闇に包まれた。
「お、おい………明かりを点けてくれないか………」
そう呼びかけるも返事はなく、代わりに恐ろしい程の静寂が返ってくるばかりだった。
まるでたった一人暗闇の中に置き去りにされたように錯覚する程に………。
途端に波のような恐怖心とざわざわと喧しい不安感が押し寄せて来た。
男は外灯に集まる虫のように、この空間の中で唯一光のある場所に向かいよろよろと歩き出した。
壁一面が照らし出されたその光景は近づけば近づくほど異様に見えた。
暗闇に狂わされた方向感覚で正確なことはわからないが、部屋の中ほどまで進んだところで男はあることに気がついた。
ただの壁だと思っていたものは巨大な水槽だった。
大型の鮫などが悠々と泳ぎ回っていてもおかしくないほど大きく立派なもので、思わず水族館に迷い込んでしまったのではないかという錯覚すら覚えさせられた。
何故これほどまでに巨大な水槽がこんな場所にあるのか疑問に思うより先に、男はあまりに幻想的で美しいその光景に見惚れた。
水槽の中には鮫などはおらず、代わりに不釣り合いなほど小さな魚が行き交う姿が見えた。
一体何という魚だろう?
男は再び歩き出した。
先程まで纏わりついていた恐怖心や不安感は不思議と薄らいでいた。
水槽の中では相変わらず小さな魚達がくるくると泳ぎ回っている。
いつの間にか水槽を照らす明かりが届く場所まで男は足を進めていた。
男は水槽の正面に立つと曇りひとつなく綺麗に磨かれたガラスに手をつき、中を覗き込んだ。
そこには透明な壁一枚を隔てた水中の世界が広がっていた。
頭上を行き交う魚達の姿を男はしばらくの間眺めた。
するとおそらく気まぐれなのだろう、そのうちの1匹がこちらへ向かって来ているのが見えた。
一直線に泳いで来ると男の顔の前でぴたりと止まった。
正面を向いた厚みのない体のそれが何という名前なのか、男が答えを探しているうちに魚はそっぽを向いてしまった。
くるり。
………その瞬間何が起こったのか、男には全くわからなかった。
だが先程、自分が見た光景を思い返してその“有り得ないおかしなこと”に気がついた男は弾かれたように顔を上げた。
慌ててさっきまで目の前にいた魚を探したがすでに遠くの群の中に紛れ込んだらしく、見つけ出すことは出来なかった。
あれは何だ?
何が起こっている?
あの“異常な姿をした”魚は一体何なんだ――――。
「あれは“目”です」
ぎょっとして振り返った男の背後にはいつの間にか黒服の姿があった。
「あ、あんたいつからそこに………それよりあの魚は何だ?あのバケモノみたいな奴は一体何だっていうんだ!?」
「先程申し上げた通りでございます。あれは本体から取り出した細胞を植え付け再生された“目”なのです」
遠巻きに泳いでいた魚達は警戒心が薄れたのか、男が気がつかないうちにすぐ側まで近寄って来ていた。
体の側面に“人間の目”がぼこぼこと生えた、歪な姿の魚の群れが男の脇をすうっと通り過ぎた。
男は悲鳴を上げてとっさに後ろへ飛びのいた。
体はよろめき足は縺れ、男は尻餅をつく形で情けなく床に座り込んだ。
だがなりふりなど構っていられなかった。
部屋に入る前に抱いていた得体の知れない畏れが、不安が、恐怖が、男の中で急速に膨らんでいく。
「培養食肉はこのようにしてパーツごとに作り出されます。
それぞれ培養に適した媒体に細胞を植え込むことで徐々にその形を成し、やがて本体と全く同じ完全なパーツが再生されるのです。
残念ながらまだ研究途中の為、現段階では人体を丸々作り出すことは出来ません」
淡々と語られる黒服の説明はにわかには信じ難い、あまりにも現実離れした話だった。
それでも水槽の中では当然のようにたくさんの“目”がくるくると泳ぎ回る。
「驚かれるのも無理はございません。しかしこれが真実なのです。
………さて、前置きはこの辺りにして本題に参りましょう。奥様の培養食肉までご案内致します」
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