培養人肉
烏籠
第1話
「本当に、何度でも食べられるんですか」
「勿論でございます」
「そんな事が可能なのか………いや、でも私は実際に………」
「奥様を召し上がりました」
「ああそうだ。確かに、あれは妻の肉。間違いない………間違えようもない」
「“本体”と同じお味で?」
「その言い方は止めてくれ!」
「失礼致しました」
「私はただ純粋に妻を愛していたんだ………殺すつもりなんか、これっぽっちも………。ただ“食べたかった”だけで………」
「弁解など必要ありません。私共は貴方様が望む限り奥様の料理を提供させて頂くだけなのですから」
「妻は………妻の肉は今何処に?」
「奥様の培養食肉の在り処をお教えする事は出来ません」
「そんな………少しだけ、ほんの少し見せてくれるだけでいい。お願いだ、妻に会わせてくれ」
「規則ですから。申し訳ございません」
しかし男はどうしても諦めきれなかった。
何としても妻に会いたい。
その一心で男は深夜の店へと忍び込んだ。
運よく鍵が掛かっていない窓を発見し、男はそこから店内へ侵入を果たした。
徹底した秘密主義のこの店で、施錠ミスなど決して有り得ない。
けれど男はそれを不審に思うことはなかった。
男は、ただ愛する妻に一刻も早く会いたかった。
男が月明かりを頼りにうろうろしていると、店の奥にある扉の向こうから足音が聞こえてきた。
男はとっさにテーブルの下に隠れた。
やがて開いた扉から懐中電灯の明かりと黒い人影が入ってきた。
懐中電灯の明かりは店内をくるりと照らし出したが、男が身を潜めたテーブルまでは届かない。
人影はすぐに扉の向こうへと引っ込み足音はどんどん遠ざかって行ってしまった。
完全に足音が消えたのを見計らってから、男はさっきの人影が出て行った扉を潜った。
規則的に並んだ窓から漏れる月明かりが照らす長い廊下を男は歩く。
途中でいくつか扉を見つけたがどれも鍵が掛かっていた。
男はまるで導かれるかのように廊下の奥へ奥へと突き進んで行く。
そしてようやく突き当たりまで辿り着いて一つの大きな扉を見付けた時、男は迷うことなくその扉を開いた。
そこには茫々とした真っ暗闇があった。
その底知れぬ暗黒は男の恐怖心を一層煽ったが、自分が探し求めていた場所が間違いなくここだと確信するには十分なものでもあった。
獲物を待ち構える化け物のように口を開けた扉を潜ると、頭の中が妻の笑顔で塗り潰された男は真っ暗闇の中へと入って行った。
その手で殺めて自らの腹の中に収めた、最愛の妻のもとへ――――。
「お待ちしておりました」
声と同時にぱっと明かりが点いた。
突如もたらされた暴力的な光の眩しさに男は咄嗟に手を翳して遮った。
しかしその隙間から見覚えのある黒服の男が垣間見えた瞬間、男はあっと驚きの声を上げた。
昼間に料理を運んできた男だった。
広々とした部屋の中央にただひとつあるテーブルの上に並べられた料理の数々が、その瞬間男の脳裏に鮮やかに蘇った。
「ま、待っていたって、どうして」
「判りますとも。貴方の奥様への愛情、執着を思えば簡単に………」
「頼む、妻に会わせてくれ!勝手に忍び込んだ事は謝る。見逃して欲しいとは言わないし、後で警察に突き出してくれて構わない。だからせめて、ひと目だけいい………妻に会いたいんだっ!」
頭を床に擦りつけて必死に頭を下げ懇願する男を黒服は見下ろす。
なりふり構わず土下座する男を蔑む訳でも憐れむ訳でもなく、黒服は感情のない人形のような目をただ向けるばかりだった。
「その言葉に嘘はございませんか?」
男ははっと顔を上げると、何度も何度も頷いてみせた。
「そうですか、それならば仕方ありません。奥様の許へご案内致します。どうぞこちらへ」
くるりと踵を返して歩き出す黒服を男は慌てて追いかけた。
黒服の存在だけに集中していた男はそこで初めて疎かにしていた周囲の光景に目を向ける事が出来た。
煌々と照らし出された部屋の中には業務用と思われる大型の冷蔵庫がいくつも列を成して並んでいる。
黒服はその内のひとつの前で立ち止まると、ポケットから鍵を取り出した。
がしゃりと連なる鍵から1本を選び出し、冷蔵庫の戸に掛けられた鎖の先に取りつけられた南京錠へと差し込んだ。
重々しい音を立てて垂れ下がる鎖を男が目で追いかけたその間に、黒服の手は観音開きの冷蔵庫の取っ手を掴んでいた。
間もなくひんやりとした冷気を漏らしながら冷蔵庫の戸が大きく開かれた。
黒い袖が伸び手近にあった何かを無造作に掴み出す。
それは密閉された袋に詰まった何かだった。
「明日ご予約のお客様の、恋人の培養食肉です」
ぎょっとして男は反射的に身を反らせた。
「わ、私の妻の肉は?」
「こちらにはございません。ここで冷蔵保存されるのは、ご予約を頂いてから必要な分だけを切り分け、調理の下準備を済ませたものだけなのです」
何かの調味料にたっぷりと漬け込まれて揺れ動く肉を前に、男の足は完全に竦んでいた。
殺人を犯し、テーブルを豪華に彩る料理の数々を平らげた男は、今更ながらそのおぞましい現実に全身を震わせた。
「妻に………妻に早く会わせてくれ………」
それでも男の望みは変わらなかった。
妻のほっそりとした首を絞めた感覚がまざまざと蘇る両手を戦慄かせながら、男は黒服に縋り付いた。
徐々に失われつつある体温を逃すまいと喰らいついた時のように、男は暴力的ともいえる欲のままに妻を欲していた。
「では、こちらへ………」
黒服は男の手からすり抜け一歩身を引くと、部屋の奥にある扉の方を指し示した。
扉へと向かう黒服の後をふらふらと追いながら、男はまだ生きていた頃の妻の姿を思った。
優しい微笑みを浮かべる妻。
少し気弱で涙脆い、けれど頑固で信念深い妻。
そして誰よりも美しく、清らかな妻。
生きていればもっと色々な妻の姿を目にすることが出来たであろうと、男は後悔の念に胸が押し潰されそうになった。
しかしそれは地の底に突き落とされるような落胆や、自ら命を断とうとするような絶望に至らしめる程のものではなかった。
男は妻を殺してしまったことを後悔はしても、それが罪深いことだとは考えてなどいなかったからだ。
ただ仕方のなかったことだと、男は自分自身に言い聞かせていた。
私は妻を殺したくて殺した訳じゃない。
ただ目的を果たす為、その過程で必ず生じる決して避けて通ることなど出来ない回避不可能な………どうしようもない必然なのだと。
酷く言い訳じみていたが、そう強く思うことでしか男は自分を保つことが出来なかった。
妻を失った悲しみがじわりと涙となって男の目に浮かぶ。
早く、早く、妻に会いたい。
会って話がしたい。
妻は話すどころか私を見ることすら出来ないだろう。
それでも私は妻の側にいたい。
妻をこの目で見て、触れて、話しかけて………。
妻の死体はどんな姿をしているのだろう。
あの冷蔵庫の中身のように、既に解体されているのだろうか。
それでもいい。
手足胴体頭全てばらばらになったお前に私は語りかけよう。
晒け出された内臓ひとつひとつにも等しくこの目に触れさせ微笑みかけよう。
お前だけを愛していると――――。
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