秋の終わり

逢雲千生

秋の終わり


 この町では、冷たい風が吹き始めると、あっという間に雪が降る。

 かつて暮らしていた街ならば、今頃は年末に向けたイベントで盛り上がっている頃だろう。

 戻ってきた実家の近くに店は無く、夜に開いているお店も少ないこの町は、自分にいっそう寂しさを味わわせるのだ。

  

 細くなった左手の指を一本撫でると、追い打ちをかけるように風が吹き付ける。

 長くなった髪をすくい上げて、どこかへ飛ばそうとしているような強さは、近くを歩いていた女子高生の短い声と一緒に、遠くへと行ってしまった。

  

 なんてあっけない。

  

 そんな言葉が唇から漏れた。

  誰も聞いていないのだけれど、恥ずかしくなって後ろを見ると、近くに居た女子高生は離れたところへ行ってしまった。

  

 ああ、あの子は家へ帰るのだろう。

 家族が待っているのだろうか、それとも、彼女が家族を待つのだろうか。

 どちらにしても、会える家族が居るのならば、それは幸せと呼べるだろう。

  

 自分も家へ帰るのだけれど、待っている人は誰もいない。

 日が暮れた頃に母が帰ってきて、それから父が帰り、最後に酔っ払った弟が帰ってくるはずだ。

  

 右手には買い物袋を提げ、厚めのコートを着た自分を想像し、彼女は思わず笑ってしまった。

  

 可笑しいからではない。

 あまりにも哀れだからだ。

 

 先月まで自分は幸せだった。

 愛する人との時間に酔い、何も見えなくて、ずっと幸せなままでいられると、そう信じることが出来ていた。

 たとえ会える時間が限られていても、自分が一番でなくても、それでも良いと、それでも構わないと彼に言っていた。

 友人が止めても、家族に反対されても、それでも自分は幸せだったのだ。

 

 いつか、自分はもっと幸せになれる。

 いつか、彼は私を選んでくれる。

 そう信じて、ずっと待っていたのに。

 彼は――。

 

 ハッとして顔を上げると、母がいた。

 気がつけば自宅前に居て、ぼうっとしていたらしい。

 心配そうな母に、笑顔で大丈夫と伝えると、家に入って息を吐いた。

  

 それからは散々だった。

 母から話を聞いた父には、いい加減諦めろと言われ、お風呂上がりには酔った弟に怒られた。

 

 朝になっても変わらず、逃げるように公園に来たが、平日の昼間は子供連れも少ない。

 小さい頃はもっとたくさん子供が居たのに、今では知らない人の子供まで顔がわかってしまう。

 地元の大学に進学した弟は詳しいらしく、怪しまれるくらい遠くに住む家族まで知っていた。

  

 実家を出てから十年以上。

 気がつけば友人達は結婚し、子供も大きくなっている。

  

 ついこの間まで腕に抱かれていた子が、制服に身を包み、照れくさそうに門の前で笑う写真をいくつも見たりした。

 学生時代に好きだった男の子も、仲が悪かった女の子も、今では家庭を持ち、お互い普通に話し合えるほど落ち着いたのは、自分も変わったという事なのだろうか。

  

 ベビーカーを押す母親に会釈えしゃくされ、お辞儀じぎを返すと、遠くで遊ぶ子供に声を掛けて隣に座られた。

「今日はお休みですか」

 すぐには答えられなかった。

 

 仕事は辞めていないが、有給を利用して休んでいることもあり、事情を知らない彼女に向かって、正直にそうです、と答えるのははばかられたからだ。

 彼女はもりです、と名乗ると、眠りについた娘にタオルケットを掛けながら、自分のことを話してくれた。


「私、つい最近引っ越してきたばかりなんですよ。夫の転勤で、最初は夫だけが来るはずだったんですけど、長引くからと、家族で引っ越しが決まって、それからはもう忙しいだけでした。やっと慣れたと思ったら、今度は保育園を探して、ようやく一段落ついたところなんです」

 よく見れば、彼女の目元には隈が出来ていた。

  

 砂場で遊んでいる息子は保育園が決まらず、町のボランティアが子供を預かる、無料の託児所に行くことになったという。

 幼稚園は確実に入れるらしいが、いずれは復職したいという彼女にしてみれば、なかなかに厳しい状況らしい。

 

 時々相槌を打ちながら話を聞いていると、彼女はニッコリと笑ってお礼を言った。

「ありがとうございます。こんなに話せたの、久しぶりなんです。家族も遠くに住んでますし、知り合いも友人も近くにはいなくて、ずっと心細かったんですよ」

「……そう、だったんですか」


 彼女の前で、初めて言葉が出た。

 会った時よりも顔色が良い彼女に釣られて笑うと、彼女も笑顔になった。


「森田さんは、家族が居るんですね。私はずっと独身だったので、なんだか羨ましいです」

「そんなことないですよ。結婚していても、うまく行かない人もいますから」


 彼女の言葉で、胸に針が刺さった気がした。


「私の友達もみんな結婚していますけど、離婚経験者も何人かいるんです。なかには子供もいて、今でも養育費で争っている人がいて、時々話を聞きますが、すごく辛いって泣いてました」


 ちくん、と胸が痛む。


「子供にとっては迷惑でしょうが、親達は真剣で、養育費とか親権よりも、とにかく子供と暮らせるようにしてくれって、弁護士に泣きついたって人もいました」


 ちくり、チクリ。


「好きだけども、相手の親や親戚と合わなくて、夫に相談したら離婚だって言われた人もいて、さすがにそれは理不尽だって私も怒りましたよ。親とか親戚も大事だけど、それなら自分は大切じゃないのって、思わず彼女に向かって怒ってしまって、何であなたが怒るのよって、呆れられたりもしましたね」


 チクリ、チクリ。


 胸が痛い。


 コートの上から胸を押さえると、彼女は気づいて心配してくれた。

 大丈夫ですか、と言われて顔を上げると、思わず聞いてしまった。


「……妻子ある人と、恋人になった人はいましたか」

「え?」


 真剣な眼差しが森田を捕まえた。


 黙って自分の話を聞いてくれた彼女が、なぜそんな質問をするのだろうか、と考えながら首を縦に振ると、そらさない彼女の焦点がぶれた。

「……人から聞いただけですが、会社の上司と不倫していて、周囲に知られた途端に捨てられたらしいです」

 泣きそうな瞳だが、その顔は怖いくらい表情を無くしている。


 何かあったのだろう。


 そう思い至るのに、時間は掛からなかった。

 


 森田と別れ、彼女は家路につく。

 いつの間にか日は高く昇り、あちらこちらで人の姿が見える。

  平日であっても、昼間ともなれば誰かしら出歩いているのだな、と思いながら角を曲がると、ビニール袋を持った弟の後ろ姿が見えた。

  

 あの子も昔は小さかった。

 自分が思春期の頃に生まれた弟は、家族みんなから可愛がられていた。

 自分が家を出る時は泣いてすがられたが、今ではすっかり大人になったと思う。

 並べば身長は追い越されているし、高校までスポーツをしていた彼にかなう人は、この辺りではいないだろう。

  

 急に戻ってきた自分を見ても、弟は何も言わなかった。

 ただ、おかえりとだけ言って、昔のように接してくれた。

 弟に声を掛けられないまま家に戻ると、母が台所に立っていた。


「今日はあなたの好きな物だから、出かけないでね」

 慣れた手つきで野菜を刻む母は、しわの増えた顔で笑った。

 仕事が休みの父も、珍しく家に居て、新聞を読むふりをしながら私を見てくる。


 懐かしい。

 

 学生時代に戻ったようだった。


 父と喧嘩をすることが多かった私は、いつも家を飛び出して、夕方まで帰ってこなかった。

 そのたびに母が私の好物を作り、気まずそうな父と一緒に帰りを待ってくれていた。

 おかえり、とだけ言って部屋に戻った弟は、ビニール袋をテーブルに置いていったけれど、これは彼なりの気遣いだったはずだ。

 父の横を通って袋を開けると、中には私が学生時代に好きだったお菓子と、気に入っていたジュースが入っていた。


 袋の中から視線をそらすと、潤みかけた視界に左手が入ってきた。


 一本だけ細くなった指。


 何年も何年も、その指を飾った輪は無く、薄くなった輪郭だけが存在を示している。


『いつか別れるから。だから、それまで待ってくれないか』

 

 二人きりで会うたびに言われたのに、十年以上も待っていたのに、彼は自分を選んではくれなかった。

 

『妻は子供にかかりきりだし、子供は私に興味を持たなくてね。だから寂しいんだよ』


 そう言って私の頬を撫でた指には、誓いの輪。


 自分には与えられなかった輪は、理由を付けて、自分の意思で身につけた物だった。


 誰も祝福などしてくれない。

 それを知りながら、それでも私は決めたのだ。


 彼を待ち続けて、彼が自分のところに来てくれると信じて、十年以上も待っていた。

 友人が結婚しても、同僚が結婚しても、自分を好きだと言ってくれた人が現れても、それでも待っていたのに。


 彼は――。


 じっと自分の左手を見る娘に、父は新聞を置いて声を掛ける。

 母も気がついて台所から出て来ると、うつむく娘の肩に触れた。


 その時、何かが切れた気がした。


 感情が抑えきれず、母にすがり泣いた。

 支えきれない母と一緒に床に座ると、子供のように、胸に顔をうずめて泣き続けた。

 声に気づいた弟も集まり、声を上げて泣く私を囲み、男二人は黙って見守ってくれた。


 泣き疲れた私は、そのまま眠ってしまったらしく、弟に背負われて部屋に戻り、自分のベッドで明け方まで眠っていたという話は、次の日の朝に母から聞かされた。

 食べられなかった夕食と、弟が買ってきてくれた物はお昼までに食べ終わり、久しぶりの満腹感に気持ちが軽くなった気がする。

 ふわふわする気持ちで、けれど心地よさのある温かみで胸が一杯になり、くすぐったさを覚えて外へと出てしまった。

 日が暮れるまでには帰ると約束し、年甲斐もなくはしゃぎたくなったが、昨日の公園に着く頃には落ち着けた。


 公園には森田さんがいて、砂場で遊ぶ息子を優しい顔で見ていた。

「おはようございます」

 少し離れたところから挨拶をすると、彼女は気づいて私を見た。

 すぐに微笑むと、席を空けて座らせてくれた。


「今日はいい天気ですね。昨日までの寒さが嘘みたいですよ」

 言われてみればそうだった。

 ずっと寒くて、コートばかり着ていたけれど、今日は少し薄手のカーディガンですんでいる。

 彼女も薄い上着を着ているが、子供達は寒くないようにと厚着のままだ。


「子供って夢中になるとすぐに汗をかくので、気をつけないと、すぐに風邪を引いてしまうんです。だから、ついつい厚着をさせてしまって、帰ったら服まで濡れてたりするんですよね」

 そう言って困ったように笑うと、森田は息子を見た。

 息子は夢中で砂をいじっているが、服が砂まみれなことに気がついていないだろう。

 帰ってからの洗濯が大変だと、溜め息を出しかけたが、同じように息子を見る彼女の横顔が柔らかいことに気がついた。

 

『……妻子ある人と、恋人になった人はいましたか』

  

 昨日、自分の話を聞いてくれた彼女は、真剣なまなざしでそう聞いてきた。


 友人に不倫をした人はいなかったけれど、ずいぶん前に、何かのきっかけで聞いた話では、会社の上司と不倫した女性が相手に捨てられ、会社を辞めざるを得なくなったというものだ。

 それからどうなったかは聞かなかったけれど、苦労しているとは思うし、幸せとは呼べない生活をしているとも思う。


 ドラマでは素敵に見える事もあるのに、現実の不倫は不幸しかないのだと知った頃でもあった。


 あれから自分は大学の同期だった人と結婚し、子供二人に恵まれた。

 友人知人もほとんどが結婚したけれど、離婚した人もそれなりにいる。

 若いからこその悩みというか、よく知りもしない相手を恋の勢いで決めつけてしまい、結婚したら違っていたという場合も少なくない。

 何度も愚痴を聞いた友人もいたけれど、中にはどちらかの浮気で別れた人もいた。


 平凡ではあるけれど、こうして落ち着いた生活が出来ているのは、幸せと呼んでいいのだろうか。

 視線を落として見えた彼女の左手は、薬指だけが少し細く見える。


 もしかしたら……。


 推測で出た一つの答えに、そんなことは無いだろうと思いつつも、そうかもしれないとも思ってしまう自分を叱りたくなった。


 暖かい日差しの中で、ぐずっていた娘は眠ってしまい、外に出たがっていた息子は楽しそうに砂だらけになっている。

 昨日まで暗い雰囲気があった彼女は、光の中でも違和感なく笑顔を浮かべていて、一晩で何があったのか気になってしまう。

  それでも聞かないのは、この町で初めて話せた相手を失いたくないという気持ちと、吹っ切れたような彼女の横顔を微笑ましいと思えるからかもしれない。


「私、一度会社に戻ろうと思ってるんです」


 彼女は言った。


「事情があって、ずっと休んでいたんですけど、今日になってやっと決心がつきました」


 理由はわからないが、とりあえずうなずくと、彼女は笑った。


「それで、会社を辞めてきます。その後で、こっちで仕事を探そうと思うんです」

「え、辞めちゃうんですか。そんな、もったいない」

 思わず言ってしまったが、本当にそうだ。


 これまで頑張って、それなりに高い地位についたという話は昨日聞いている。

 これからだって、まだまだ昇進できると思うのに、やはり事情が事情だからだろうか。


 失礼だと思いながら、彼女の事情を推測していることもあり、どうしても余計なお世話に聞こえる言葉が出そうになる。

 彼女は、私が何か言いたいのに気がついているのか、いないのか。

 遠くを見上げて両手を後ろにつくと、空を見上げるように顔を上げた。


「私、失恋しちゃったんです。それで実家に戻ってましたが、昨日になって自分の気持ちに気がついて、やっとお別れする覚悟が出来ました。ずっと離れたくないと思っていましたが、実家に戻って家族と過ごして、昔を思い出したら泣いちゃって。朝になったらすっきりしてたんですよ。そういえば、ずっと泣いてなかったなって気がついたり、恋愛してた頃は家族とも疎遠になっていたことに気がついたりで、周りが見えてなかったんですね。でも、昨日ここで、あなたの話を聞いて、家族の優しさに気づいて、私いま、すごく気持ちが軽いんです。ありがとうございました」


 まぶしい笑顔でお礼を言われ、私も頭を下げた。


 彼女は事情こそ話さなかったけれど、ぼかしながら過去を話してくれて、やはり恋人にしてはいけない人と、十年以上も付き合っていたことがわかった。

 相手は優しくて、とても頼りになる人だったと語る彼女の瞳は濡れていて、時々光が反射するのか、目元が輝いて見えた。


 話が長くなってしまったという彼女に、気にしないでくださいと伝えると、泣きそうな顔で嬉しそうに笑ってくれた。

「明日向こうに戻って、上司に相談するつもりです。時間は掛かるかもしれませんが、辞められるように身辺整理をして、彼とも連絡を絶ちます。再就職はそれからですが、家族に話して、しばらく居候させてもらって、それからですね。新しい生活は大変ですけど、今の私なら、どうにかなりそうな気がするんです」

 生き生きとした横顔に微笑みが浮かぶ。

 

 遊び疲れたらしい息子がこちらに来ると、彼女は立ち上がって背中を伸ばした。

「森田さん。こちらに戻ってきた時は、また話しましょうね。そして、ランチをしたりお茶をしたりしましょう」

「はい。子供達も一緒になりますけど、大丈夫ですか」

「大丈夫ですよ。年の離れた弟の相手をしてましたから、子供の世話は得意なんです」

 力こぶをつくるポーズをとった彼女は、満面の笑みで帰っていった。


 空はオレンジ色が混ざっていて、小学生が帰る姿も見える。

 息子の手を引いてベビーカーを押すと、彼女の笑顔を思い出して元気が出た。

「私も頑張ろう」


 慣れない町で出会った人は、これから大変な時期を迎えるだろう。

 けれど、必ず戻ってくると思う。

 その時はきちんと言おう。

 お友達になってくださいって。


 密かな楽しみに笑みがこぼれ、息子が不思議そうに見上げてくる。

 重くなった体を抱き上げて、思い切り抱きしめると、幸せで胸が一杯になった。


 森田さんと別れて家に帰ると、家族にこれからのことを説明した。

 会社を辞めることは渋られたが、彼と連絡を絶ち、縁を切るという話には賛成してくれた。

「せっかく昇進していたんだし、どうせなら異動できるように頼んでみたらどう。こっちに戻ってきたとしても、今ほどいい会社はないと思うわよ」

 母の心配はもっともだ。


 再就職が難しいことはわかっていても、同じ会社に勤めていれば、たとえ支店に異動しても、彼と会う可能性は高い。

 それならばいっそ会社を辞めて、新しい仕事に就いた方がいいのだと説明すると、好きにしなさいと父が言ってくれた。

「お前が決めたなら、そうしなさい。部屋は余っているからな」

 父の言葉で母も納得し、話し合いは終わった。


 夜、部屋の扉をノックされて開けると、弟が立っていた。

 何も言わないので部屋に招き入れると、床に座った彼は涙声で言った。

「姉ちゃん、良かったな」

 その一言を機に、弟は静かに泣き出した。


 成長してからほとんど会わなくなった彼は、いつの間にか大人になっていた。

 もう自分は必要ないだろうと思っていたけれど、彼なりに自分を心配してくれていたのだろう。

 自分も涙が出て来て、二人は向き合うように、床に座って泣いていた。


 落ち着いた頃には、笑えるほどすっきりしていて、久しぶりに時間を忘れて話し合った。

 弟は、彼女が出来たことや勉強で失敗したこと、学生時代やっていたスポーツのことや、自分が居なかった頃の両親の話をしてくれて、弟も一通りの苦労を乗り越えてきたことがわかった。

 自分も、会社のことや友人のこと、これまでの事を話せるだけ話すと、どちらからともなく笑ってしまった。


 弟が部屋に戻り、風呂上がりにベッドに横になると、低くなった天井が見える。

 ずっと見上げてきた天井は、記憶の中にあるものよりずっと汚れていて、部屋も小さく感じた。


 久しぶりに電源を入れた携帯には、友人達からだけでなく、別れたはずの彼からも着信が入っていて、メールの中にも彼の名前があった。

 緩慢かんまんな動作で開くと、酷いことを言ってすまない、だとか、これからも友人として会ってくれ、だとか、許しを請うような言葉が散らばっていて、けれど謝罪の言葉は一つも無かった。


 携帯を閉じて天井を見上げると、また笑いが込み上げてくる。

 それは、楽しいとかしいとかではなく、ただただ自分が滑稽だと思い知ったからだ。


 十数年、彼と付き合っていた。

 けれど、彼は私を好きではなかった。

 それを知った時、私はどんな顔をしていたのだろうか。


 ずいぶん前から気づいていたのに。

 ついこの間、それを突きつけられたばかりなのに。

 どうしても思い出すことが出来なかった。


 明日に備えて寝ようと布団に潜ると、着信を知らせるバイブが鳴る。

 表示された名前は彼のものだったけれど、そのまま電源を切ってベッド下へ放り投げた。


 これから大変なのはわかっている。

 けれど、森田さんのように笑えないのならば、幸せだとも不幸だとも言い切れない。


 彼に合わせて、彼に従って、胸を張れない恋をするよりも、もっと違う恋をしてみたい。

 平凡で代わり映えが無いとしても、心から笑える普通の恋がしてみたい。


 閉じた視界の中に彼の姿が浮かぶが、すぐに消えて眠気が訪れる。

 眠る前につぶやいた言葉は、自分でもよくわからなかったけれど、温かさだけが胸に残った気がした。 



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秋の終わり 逢雲千生 @houn_itsuki

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