中野あお

波の音

 ふと波の音が聞こえた。

 荒々しい波ではなく、大人しく包み込むような優しい波。

 私に大丈夫だと囁きながら、その音は遠ざかる。

 何を伝えたいのか、私を許してくれるのか。そう問いただす間もなく音は聞こえなくなった。


 いつの間にか寝ていたみたいだ。

 目元が濡れているのは波のせいではなく、涙のせいだとすぐに気付く。下半身の窮屈さはベルトを締めたままジーパンで寝ているからだと理解するのには少し時間がかかった。

 半開きの目と三十年近く付き合っている身体の感覚を頼りにベルトを緩めズボンを脱ぐ。脱いだジーパンを適当に畳み、硝子障子から差し込む月明かりを頼りに鞄を探す。

 こんな姿を母に見られたら「はしたない」と一喝されるのだろう。もう女として輝きを終えたのではないかと考えている私からすれば何を今更といったところだ。

 やっとの思いでキャリーケースを見つけ、鍵のかけていないそれを開けて寝間着を探す。取り出した服を見てちゃんと着ていないのは下だけでな、上もまだTシャツだと気づく。


 ズボンをはくよりも先にTシャツを脱ぎ捨てて下着姿になる。何かから解放された気分になるのは部屋に誰もいないとわかっているからだ。

 最近までは寝室ですら他人の介入するような場所だったのだから人目を気にして寝ていたといってもいいのかもしれない。まあ、最後の方は一緒に寝てなどいないので関係ないかもしれない。


 そこまで考えて始めてここが寝室でもないことに気づく。一階の洋間だ。実家には定期的に帰っていたというのにそんなことすら忘れていた。

 お酒を飲んで両親に愚痴を吐いてそのまま寝たのだろう。


『母さんたちは先に寝ます。目が覚めて風呂に入るならボイラーは切ってありますので気を付けてください。』


 そんなメモ書きが置いてある。

 空き缶が並んでいたはずの机は片づけられ、端に寄せられている。いい歳をして私はどこまで親の世話になったのだろうか。

 お酒を飲んですぐ寝るなんてことは久しぶりだった。疲れのせいだろうか。


 かつて愛した人に離婚届を突き出し、それを役所に突き出した勢いで、いや勢いではなくあらかじめ用意しておいた荷物を持って家を飛び出した。そして、一時間三十分電車とバスを乗り継いで実家に帰って来たのだ。

 夫、今となっては元夫との関係が上手くいっていなかったかと言われると難しい。世間の離婚した人の話を聞くと浮気だったり大喧嘩だったりと一悶着あっての離婚といった形のようだが、そこまで酷いことはなかった。


 離婚原因を端的に言ってしまえば夫婦として合わなかったから。

 学生時代から五年の交際を経て結婚したので、お互いを見極めきれなかったなんてことはない。ただ、私と彼は夫婦というものをわかっていなかったのだ。

 交際がうまくいっていたのはきっとお互いが友達として良い関係だったから。結婚するべきではなかったのだ。


 どちらが先に気づいたかはわからない。ただ、先に口にしたのは私だった。

 口に出してからは早かった。役所に届けを貰いに行ったのは一昨日のこと。自分の署名を入れたのは昨日。そして、今日に至る。

 そうして私は三年ぶりに村川の姓へと戻ったのであった。


 子供がいたらそんなことは言い出さなかったかもしれないなと思うが、できなかったものは仕方がない。それも私たちが夫婦として合わなかった証拠だと思うことにした。


 酔いは残りながらも眠気は覚めてきた。電車の中でもうたた寝をしたというのに我ながらよく寝たものだ。

 下着姿のまま座っているの変だと思い取り出した服に着替えようとズボンを手に取り、片足を入れたところで再び脱ぎ捨てる。


「海が見たい。」


 ふとそんなことを思った。


 先ほど脱ぎ捨てたジーパンをはき、同じくTシャツを着る。五月の夜にこの格好は寒いので鞄から薄手の長袖ジャケットを取り出して羽織る。スマートフォンとキーケースだけポケットに突っ込んで部屋を出る。


 髪型と化粧を直すべきか迷ったが見せる相手も見る人もいないだろうと思い髪をゴムで結ぶだけにした。ただ、口の中が気持ち悪かったので水を出して口をゆすぐ。

 冷たい水の感触が、流れ出る水の音が懐かしい何かを思い出させようとしたが蛇口を閉めればその何かは消えてしまった。

 食堂の冷蔵庫から麦茶の入った500mlペットボトルを取り出して飲む。冷蔵庫にしまおうと扉を開けてしまわずに扉だけ閉める。

 食堂の引き戸をあけると土間と玄関に繋がっている。この構造の方が買ってきた食材をすぐに入れられて便利なのだそうだ。


 ペットボトルを手にしたまま靴を履く。今日はショートブーツではなくこうやって片手で履けるスニーカーを選んできて正解だった。

 大きな音をたてないように玄関の扉を開けて、更に気を遣って閉める。結婚してもずっとキーケースに入れっぱなしだった鍵で閉める。


 外は暗い。食堂の時計が正しいなら午前二時なのだから当たり前だ。

 実家から海まではそう遠くない。昔、チリ津波の時に町の大半が被害にあったような海辺の町なので、極論を言えば海から遠い場所などないのだがその中でも我が家は近かった。

 子供の頃の私がそう感じるような距離だ。今の私からすれば本当にすぐだった。


 おそらく六年ぶりに向かい合って見る海には人一人いなかった。

 堤防の階段を上り、静かな海を見つめる。

 波の音が聞こえた。優しく、ゆったりと満ち引きをする音。

 だけど、彼女は私に何も囁かない。さっきの続きが聞きたいんだと、あなたがここに呼んだのではないかと抗議してみても何も答えてはくれない。何故、私を拒絶するの。

 いや、私が拒んでいるのか。

 堤防を越えて砂浜へと歩みを進める。久しぶりに歩く砂浜に足を取られながら、夜の冷たい砂が靴に入って来ることも気にせずに波打ち際へと近づき耳を澄ませる。

 波の音しか聞こえない。


 まだ私は拒んでいるのか。もっと近づけば――このまま海に入って行けば何かわかるかと考えたところで再び波の音が聞こえた。


 昔はよく聞いた音だ。

 彼女は私に語る。

 ゆっくりと丁寧に、私を包み込んでいく。

 あぁ、そうか。

 ありがとう。私はもう大丈夫。


 窓から差し込む陽の光で目が覚める。

 何故か目元は濡れている。

 ジーパンの裾も濡れていた。

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中野あお @aoinakayosa

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