巨人の仔は屍人と笑う
五月笑良(ごがつえら)
第1話 巨人の仔(前編)
物心がついた時には、すでに『声』が聞こえていたと思う。
食べ物と香水の臭い、砂埃と雑踏が入り乱れる露店市場の空を見上げ眉を
「おねえさん。」
横をするりと通ろうとした歳若い女性の腕を掴み止める。女性の驚いたように見開いた目が瞬間、キッと鋭さを増してオレに向いた。敵意の言葉。
オレは首を横に振る。
「そのエプロン下に隠れたポケットの中の金貨はお店の人に返した方が懸命ですよ。」
女性は短く悲鳴を漏らすとオレの手を振り解き、市場の道を真っ直ぐ駆けて行く。しかし、その足はすぐに止められる。先程の女性の悲鳴。地面の上を何かが勢いよく擦った音。複数の男性の怒声。肉を打つ音と色めき立つ野次馬。
オレは旅装束のフードを深く被り直す。騒ぎとは反対側へ歩き出し、歯噛みする。
人間に口出しなんてしなければ良かった。聞くわけがないのに。
先程購入した手元の買い物包みをぎゅっと握る。
「オドニスの言う通りだった……。」
悪事を働くものは聞く耳を持たなければ否さえ認めない。関わるだけこちらの害である。
オドニスは嘘をつかない。いや、嘘をつくのは人間くらいだ。悪魔だって
『いたいな!ほりにつめをたてるなよ!』
あの金貨だ。持ち主の元へ帰ったようだ。
それ以上のことは考えないようにした。
今夜の寝床にしようと立ち寄る宿屋はことごとく満室で、やっと空室を見つけたのは五軒目にして、蜘蛛の巣を着飾った二階建ての木造宿屋だった。昨今、中心都市では色レンガや磨き岩造りの意匠を凝らした高級感のある建物が流行っているという。そんな風潮を真っ向から否定するような構えのそれに安心感を覚えた。
両開きの木戸を押し開けると正面にこれまた年季の入った受付の簡易カウンターが出迎えてくれた。宿帳を記入するオーナーの初老の男性も建物そっくりで、物静かな人間だった。
「名前は?」
「アクラキスと申します。」
「姓は?」
首を横に振る。バタリと宿帳が閉じられると、舞い上がった埃が玄関上の明かり取りから差す陽光に照らされてオーナーの周りで煌めいていた。
オレに部屋の鍵を差し出そうとして、その手が止まった。
「……なに笑ってんだい?」
「『声』が聞こえてきて、つい。」
「声?……疲れてんじゃないのかい。
部屋でゆっくり休むといい。といっても、今夜は街祭りの夜だからぐっすりいくかは、アンタさんの図太さが試されるがねえ。」
鍵を受け取る。オーナーがカウンター向こうの部屋へ戻るのを見届け、オレは天井を見上げた。
『おきゃくさん!おきゃくさん!』
『ひさしぶりだね!やったね!』
『オーロッタ、うれしそう!うれしそう!』
囁くような、内緒話のようなこの宿屋に使われている木材達の『声』にまた笑みが浮かぶ。余程、あのオーナーはこの宿屋を大切にしているのだろう。
精霊宿るモノの『声』はいつだって汚れも迷いも無く真っ直ぐだ。ふと故郷の森を恋しく思うが、くよくよもしていられない。
オレは、街祭りの夜を宿屋の一室で待った。
陽が月を引きずって、月を置いてきぼりにしたまま大河の向こうへ溺れていくのを黙って窓から眺めていた。己れの去った暗闇の世界に月を残していく陽を自分勝手だと批難し仔狐を思い出す。オレは、考えもしなかったよと笑いながら仔狐と一緒に故郷の森の中、置いてきぼりの月を見上げた夜を思い出した。
でも、そんな夜はもう壊れてしまったのだ。
「みんな……。」
なにを思い出に浸っている。やるべきことをやり遂げるんだと故郷の全てに誓ったじゃないか。感傷に浸る暇でさえ惜しめ、振り向くな。
オレは、巨人の
故郷である大樹神ノ森を救うためにオレはここまで来たのだ。
街外れにある教会の鐘が鳴る。
一回、二回……七回目の鐘が鳴り終わる。
オレは天井木材達の明るい『声』を背に宿屋を後にした。
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