第9話 蝦蟇仙人 その三
「青蘭ーッ! どこにいるんだ? 青蘭!」
必死になって周囲を走りまわるが、青蘭の姿はない。それどころか清美もいない。
ただ、草をふみしめた足跡が奥の細道へと続いている。神父や穂村のものなら、もっと靴跡が大きい。それは女か、女と見まごうほど小さな靴をはいた人物のものだ。たとえば、青蘭のような。
(さきに行ってることにしたのか? 井戸のそばで集合する約束だった)
そう思い、脇道のなかへ入ってみる。
数分ほど歩くと、足元にキラリときらめく赤い光を見つけた。近づいていくと、青蘭の指輪だ。青蘭の誕生石のルビーをはめこんだ、二人の大切なペアリング。これを青蘭がみずから置いていくことなど、あるはずがない。
龍郎の胸に、じわり、じわりとドス黒いシミが広がっていく。
悪い予感。
どうか、はずれてほしい。
この空を覆う異様な渦巻き雲のような黒い何かに、少しずつ侵食されそうだ。
龍郎は青蘭の指輪をひろいあげ、さきへと急いだ。
いくらも進まないうちに、道脇の木のかげから人影が現れた。龍郎の目の前をよこぎる。
最初、龍郎はそれが誰なのかわからなかった。しかし、青蘭ではない。スカートをはいている。
「……清美、さん?」
それにしてはシルエットが清美っぽくない。清美はロングヘアだが、その女はショートヘアだ。それに、清美より背が高い。
女は道の端で止まり、体を正面にむけた。木洩れ陽がななめにさしこみ、女の顔を照らした。
「なんで、あなたが、こんなところに?」
龍郎はわけがわからなくて、その人を見つめた。
まだ村のようすを見てはいないが、車道にあふれるあの亡者の行進を考慮すれば、村のなかは大変なことになっているはずだ。
たとえ霊感のない人たちに亡者は見えないとしても、それは体の不調として表れたり、わけもなく、ふるえが止まらなかったり、もっと別の異常として村人たちをおびやかしているはずだ。それほどの歪んだ空気なのだ。まともな感覚の持ちぬしなら、家から一歩も外に出ないだろう。
なのに、その人はそこにいる。
「千雪さん。どうかしたんですか?」
千雪はかたわらの木に片手をかけ、ゆっくりと口をひらいた。
「わたし、羨ましくて」
「…………」
そういえば、千雪は昨日もそう言っていた。光司に頼んで青蘭を土蔵に閉じこめたのも、羨ましかったからだと。
いったい、何が羨ましいというのか?
「千雪さん。まさか、また青蘭をどうかしたのか? いいかげんにしてくれないと、さすがに怒るよ?」
龍郎があせって、少し怒ったような声色を作っても、千雪は無表情なままだ。この世の何もかもに疲れきって、感情がなくなってしまったような顔をしている。
「わたし、子どものころから、なんでかわからないけど、その人の過去の姿が見えるの。いつもってわけじゃないけど、ときどき、見えるの。だから、青蘭さんの子どものころの姿も見えた。龍郎さんは知ってるの? あの人、以前、ずいぶんひどい火傷を負ったのね。それはもう二目と見られないような」
龍郎は青蘭の誇りのために憤った。
「ああ。だから? おれは青蘭がどんな姿だって愛してる。おれたちのあいだのつながりは、そんなことでは壊れない」
反論すると、千雪はほんのり口元に笑みを浮かべた。
「ほらね。そんなところが羨ましいの。どうして青蘭さんは幸せになれたのに、わたしはなれないの? なんで、わたしばっかり、こんなに苦しまないといけないの?」
語るうちに、千雪の双眸から涙がこぼれてきた。音もなく白い頰をすべりおちる。
龍郎は戸惑いながら応える。
「でも、千雪さんだって、光司さんに愛されてるじゃないか。彼の気持ちは本物だ。だって、ふつうの男なら、恋人や想い人がいたとしても、昨日の状態で土蔵に青蘭と二人きりになったら、よからぬことを考える。それをしなかったのは、そんな考えも浮かんでこないくらい、あなたを想ってるからだろ?」
千雪は自嘲的に笑う。
「光司さんは、わたしのことを知らない。わたしの、ほんとの……彼だって、ほんとのことを知ったら、わたしのことを化け物のように見る」
「そんなことないさ。何を悩んでるのか知らないけど、ちゃんとぶつかってみれば——」
だが、龍郎の言葉は中途でとだえた。
とうとつに千雪がスカートのジッパーをおろしたからだ。驚いて声が出ない。
千雪は龍郎の見ている前で、ハラリとスカートをおろす。下着をはいたキレイな足があらわになる。スカートがそのまわりで輪を描いた。
「なっ……何やってるんだ。千雪さん。やめてくれ。困るんだけど」
千雪がスカートに続いてブラウスのボタンを外した。
その下にある、なめらかな白い肌を想像して、龍郎は目を閉じた。
青蘭に見つかったら殺される——と思ったが、それどころではなかった。
「龍郎さん。ちゃんと見て。これを見ても、あなたはまだ、わたしを化け物じゃないと言える?」
千雪の声は凍りつきそうに冷たく硬い。違う。彼女は龍郎を誘惑しているわけではない。それは秘密を明かすときの声だ。
覚悟を決めて、龍郎は目をあけた。
次の瞬間、龍郎は驚愕のあまり呼吸が止まった。つかのま息をすることを忘れていた。
信じられないものが、そこにあった。
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