第2話 六路村 その五
その距離、二百メートルばかりか。
木の下闇に立つ熊と数分間、にらみあっていた。
やがて、くるっと向こうが背中を見せた。のそのそと歩き去っていく。どうやら襲うつもりはなかったらしい。茂みの奥に入り、見えなくなった。
ほっとして、龍郎は吐息をついた。
「よかった。行ってしまった」
「熊が出歩いてるなんて、とんでもない田舎だね」
「まあ、これだけ山のなかならしかたないよ。あいつが気を変えて、ひきかえしてくるかもしれないし、もう帰ろう」
それにしても、あの犬のおかげで助かった。龍郎たちが熊の存在に気づかず背中を見せたままだったなら、あいつは襲ってきていたかもしれない。
龍郎は助けてくれた犬をなでてやろうと思い、ふりかえった。が、さっきまでそこにいたはずの芝犬がいない。どこかに行ってしまったらしい。
「もしかしたら、熊が近くにいることを察して、そばにいてくれたのかもしれないな。あの犬」
「そうだね」
「やっぱり飼い犬だよ。日本犬って、もともと狩猟犬なんだよ」
「へえ。そうなんだ」
青蘭はあんまり興味ないらしい。ぬいぐるみ相手には、あんなに夢中になっているくせに。
高屋敷家のある村の中心あたりへと折り返していった。途中の道筋で、自転車を押す千雪を見かけた。遠くのほうから、こっちに向かってきている。
一人ではなかった。そのとなりに男がもう一人いた。ひょろっと背が高いので穂村かと思ったが、どうも違う。二人は並んで談笑しながら歩いている。
龍郎たちに気づくと、千雪は笑って近づいてきた。
「よかった。あちこち探していたんですよ。このあたりには人喰い熊がいるってこと、伝えてなかったので」
言うので、龍郎は青蘭と目を見かわす。その助言はすでに遅い。
「さっき、熊と遭遇しました。どっかの犬が助けてくれて、すぐに向こうから逃げていったけど」
「そうでしたか。すみません。危険なめにあわなくてよかったです」
青蘭が「おい、ぐ——」と言いかけたので、龍郎は急いで青蘭の肩を抱いた。
「青蘭」
「何? 龍郎さん」
「呼んでみただけ」
「ふうん?」
青蘭が「おい、愚民。僕たちが熊に喰われてたらどうする気だ?」と言うつもりだったことは明白だ。まさか人前で恋人の口をふさぐわけにもいかないから、呼んでみたのだとは言えない。
「ところで、こちらのかたはどなたですか?」
さらに話をそらすために、龍郎はたずねた。千雪が男を紹介する。
「
そうか。これが、あの茶人の老人が言っていた陶工かと、龍郎は思った。意外にもすぐに出会えた。この男の作品のために、老人は六路村に引っ越してきたわけだ。龍郎の見た感じでは、どこが素晴らしいのかよくわからない作品だったが。
「初めまして。本柳龍郎です」
龍郎は右手をさしだした。
鷲尾は陰気な目つきでモグモグ言うと、一歩あとずさった。そうとうにシャイらしい。
しかたなく、龍郎はさしだした手をひっこめた。
「じゃあ、このへんで……」とかなんとか小声で言って、鷲尾は去っていく。
「鷲尾さん、人見知りが激しいんですよ。初対面の人とは話ができないみたいです」と、千雪がとりなすように言った。
「そろそろお昼になります。本柳さんたちも帰ってきてくださいね」
「あ、はい。ちょうど戻りかけていたんです。ごいっしょしましょう」
龍郎はUターンする千雪と並ぶ。龍郎の反対側のとなりには、すかさず青蘭が。
「千雪さん。ちょっと聞きたいことがあるんですが」
「はい。なんですか?」
千雪は自転車を押しながら、頭をよこに向けて龍郎をながめる。必ず目を見ながら話すタイプのようだ。
「この村って男の子を見かけない気がするんですが、なんでですか? たまたまかな?」
「…………」
千雪はじっと龍郎を見つめたまま、歩き続ける。口ごもるような内容なのだろうか? なんだか異様な間である。
「あの?」
問いかけたとき、千雪は急によろめいた。土の道だから小石が落ちている。大きめの石に車輪を乗りあげて、バランスを崩したのだ。
自転車ごと倒れそうになったので、とっさに龍郎は彼女の手をつかんで抱きとめた。自転車は横倒しになったが、千雪は倒れずにすんだ。
龍郎の腕のなかで、ぽっと千雪の頰が染まる。
「大丈夫? 怪我はないですか?」
「あ、あの……いいえ。ありがとう……」
小声でつぶやいた千雪は、あわてたようすで龍郎の腕をふりほどいた。
「わたし、さきに帰ってますね。いつでも食べられるように昼食の準備しておきますから」
自転車を起こしてとびのると去っていった。
「ああ、けっきょく教えてもらえなかった。ね、青蘭?」
恋人をかえりみた龍郎は、そこに鬼を見た。偽りではなく頭に角が二本、ニョキニョキと生えているかのような錯覚をおぼえる。
「龍郎さん」
「は、はい……」
「浮気したら殺すって言ったよね?」
「言ったね」
「覚悟はいい?」
両手を伸ばしてくるのは、なんのつもりなのか。もしかして首をしめるつもりか?
「ちょっ、ちょっと待った! 浮気じゃないよ。転びそうな人をほっとけないだろ? ちょっと支えただけだよ。ほんと。ぜんぜん、千雪さんのことなんか好きじゃないし!」
「ほんと? 誓う?」
「誓う。誓う」
「じゃあ……今回は許すけど。僕、本気だからね?」
本気で殺すという意味だろう。
龍郎は笑おうとしたが自分の頰がひきつるのを感じた。
一番怖いのは、どんな化け物より、じつは青蘭なのかもしれない。
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