[覚 醒 篇]
序 章 Great Airship Homecoming ブランカ点描
序 章 1 黒衣の出迎え
最大限に開放された扉から、七台もの馬車に曳航され、〝それ〟はガランとした格納庫にしずしずと入ってきた。
向きや進路を微調整するためのロープを引いてあちらこちらへ走る何十という人影が、まるで地面にばら撒かれた豆粒のようにしか見えない。
最後尾がようやく入りきって全体が所定の位置に達すると、こんどはドック最上部のキャットウォークから、固定用の索具につかまった作業員たちがスルスルといっせいに降りてきて、優美に湾曲するその表面に羽虫のように群がる。
無数の索具に絡みとられて、ようやく巨体が独力で宙空に浮かぶのをやめた。
長時間におよぶ格納作業にたずさわっていた多くの者たちが思わず歓声を上げ、またある者たちは安堵のため息をついて額の汗をぬぐった。
飛空艦プロヴィデンスがブランカの地底にある格納庫に入るのは、十数年ぶりのことになる。
長らく帝国の旗艦を務めて帝都アンジェリクにあり、現皇帝のブランカ帰還に際してはかならずその玉体を運ぶ役目をになってきた。
滞在が数日を越えたことはなく、プロヴィデンスはその間、広場に係留しておくのが慣例となっていたのである。
操艦を終えた乗組員たちが、バルコニーから延ばされたタラップをつたってつぎつぎと下船してくる。
彼らはそのままタラップ上にきれいに整列し、最後に艦橋を出てきた肥満体の人物を敬礼をもって迎えた。
彼らににこやかにうなずきかけながらゆっくりとタラップを進んだ人物は、渡りきる手前で思わず足を止めた。
タラップの突き当たりのバルコニーに、足首まで隠れる黒い寛衣に身を包んだ人影が立っていた。
肥満体の人物が自分に気づいたのを知ると、目深にかぶっていたフードを背中のほうへ優雅な手つきではらう。
肥満体の人物は驚いて呆然とその場に立ちつくした。
機械油と浮揚気体の混じり合った異臭が漂う格納庫には、もっともふさわしくない姿を眼にしたからである。
「これは……寮母陛下!」
「ボルナーデ艦長。長旅お疲れさまでした」
「とんでもありません。わざわざお出迎えいただけるとは……まことに光栄の至りです」
ボルナーデは後方に居並ぶ乗組員たちに先に行くようにうながし、あらためて黒衣の寮母ミランディアに最上位者に対する拝礼のポーズをとった。
広い格納庫をぐるりと一周するバルコニーへとゆっくり歩を進めながら、ミランディアはドック入りしたばかりのプロヴィデンスを見上げ、素直に感嘆の声を上げた。
「こうして間近に見上げると、つくづく飛空艦というものの大きさに圧倒されますわね。人の想像をはるかに超えています。これほどのものが大空を自由自在に翔けまわるなどとは、わたくしにはとても信じられないことですわ」
「いやいや、自由自在などというわけにはいきません。強風にあおられたり、厚い雲に行く手をさえぎられることはしょっちゅうですし、とくに夜間飛行では山塊に衝突せぬかと長時間の緊張を強いられます。むしろ飛行の半分以上は運まかせなのですよ」
ミランディアは興味深そうにうなずき、ボルナーデをふり返った。
「そうなのですか? あなたは、長年旗艦たるプロヴィデンスの艦長を勤めていらっしゃった。皇帝陛下が、ご自分の命を預けるに足る卓越した技倆と優れた判断力、危難にひるまない豪胆さをかねそなえた人物と判断されていたからですわ。運まかせではとてもそのような大役が務まるとは思えませんが」
「失礼ながら、それは寮母陛下の買いかぶりというものです。皇帝陛下は『戦況がわからん。もっと接近しろ』とか『山脈の向こうまで一晩で行け』などとすぐに無茶なことをおっしゃる。私はできるだけその命令に逆らわないようにしていたというだけのことですから。地位が安泰だったのは姑息な保身のたまものであって、あまり自慢できるようなものではありません」
「ホホホホ。あの勇ましい陛下らしいこと。でも、艦長はその無理な注文の数々にちゃんと応えておみせになったわけでしょう。ご謙遜なさる必要はありませんよ」
「なあに、せいいっぱい努力しているように見せかけていただけのことです。飛行はつねに安全が第一ですから、飛空艦にどれほどのことが可能かは、実際私らにもよくわかっておりません。ましてや皇帝陛下にご想像がつくはずもなく、適当なところでごまかして、素知らぬ顔をしておったのですよ」
「まあ。そうでしたの」
どこまでが本音でどこからが冗談かわからないような言い方をして、ボルナーデは不敵にニヤリと口の端を上げ、ミランディアはいかにも楽しそうに笑った。
「しかし、そのような冒険ももうおしまいです。大陸の南部はどこもかしこも帝国の領土になってしまい、プロヴィデンスの巨体でもって敵を威圧するような必要はなくなりました。帝国全軍の大集結が行われるガラフォールへは、皇帝陛下は速度が速くて着陸場所を選ばない軽快なユリーカに乗って向かわれました。プロヴィデンスは、そのユリーカともっぱら輸送に使われる双胴艦のカルマにアンジェリクのメインドックを明け渡して、ようやくブランカにもどることになったのです」
「それはお寂しいことですね」
「むしろホッとしておりますよ。もう私の仕事は、長期休暇で領地へ帰る幼年学校の生徒たちを送迎するくらいなものでしょう。受爵をお断りしましたから、私には帰るべき領地もありませんし家族もいません。半分引退したようなもので、ずっとブランカ暮らしになります。これからは、寮母陛下にはなにとぞよろしくお願いいたします」
ボルナーデは足を止め、軍人式ではなくあらためて深々と頭を下げた。
「こちらこそ。どうぞ、陛下などと堅苦しい敬称は使わず、ただの寮母かミランディアとお呼びになって」
「本当によろしいのですか?」
驚くボルナーデに、ミランディアは悠然とうなずき返した。
「かまいませんとも。わたくしのほうは、皇帝陛下と執政のマドランが気をつかってブランカの統治者などという地位をくださったせいで、居心地のいい生命回廊にばかりこもってはいられなくなりましたの。さいわい、有能なシスターたちが育ってきて大事な育児をかなり任せられるようになりましたけど、代わりに半分は地上の執務室でわずらわしい書類仕事などをこなさないといけないのです。あなたがそこにちょくちょくお茶でも飲みにいらっしゃってくださるなら、きっと退屈な時間もまぎらせますわ」
「それは何よりも嬉しいお誘いですな。ぜひうかがわせていただきましょう」
わずかの時間でまるで長年の知己であるかのようにうち解けた二人は、悠然とした足取りでバルコニーをさらに奥へと回り込んでいった。
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