裏表のないコイン

硝子

−あたし、あいつ、ゆるせなくて。


“あいつ”というのはついこの間まで交際していた、春という女の人のような名前の美青年だ。あたしは春くんを交際10年目にして、今の彼の奥さんである絵馬さんにたった一晩で奪われてしまった。それがあまりにも一瞬のことだったので、あたしは何が何だかちょっとよくわからなかったのだけれど、その後、春くんが居ない日々を何日か過ごしてやっとこうして理解した。

“つまり、こういうことなのだな”と。

あたしはいつでも遅すぎるのだ。


グラスいっぱいにクラッシュアイスを入れ、辛口のジンジャーエールを注ぐ。春くんはいつも“辛すぎる”と言って、決して飲まなかったけど、あたしは強い炭酸飲料が好きだった。透明な世界でそれは静かにそして激しく、はじけた。くたびれたタンクトップにショートパンツ、濡れたままの髪。裸足でベランダに出て、夜空を見上げる。全てが気怠い真夏の夜だった。


これは決して強がりでも、また、ひがみや嫉妬でもないのだが、絵馬さんはあたしなんかよりもずっと美人で優しくて、本当に素敵な女性だった。それもあってか、あたしのこのどうしようもない“憎しみ”の対象になったのは、春くんを奪った絵馬さんではなく、いとも簡単に奪われてしまった春くんの方だったのだ。でも、本当の理由はわかっている。ジンジャーエールが舌の先でぴちぴちと跳ねる。痺れる。


–あたし、あいつ、ゆるせなくて。


多分、春くんの中には、今となっては綺麗さっぱり消し去ってしまいたい、死ぬほど恥ずかしいものとなった“10年間のあたし”が、死ぬほどたくさん含まれているからだ。

細いのにどこかたくましい肉体にも、いつでも自由でのびやかで、そしてちょっぴり情けなかった心にも。


–明日だ。


あたしは目を閉じて、自分の心の状態を確かめる。驚くべきことに、冷静だった。明日、春くんと絵馬さんは海外旅行から帰国する。荷物を置きに、春くんは1人で自分のマンションに向かうだろう。そこを狙う。






春くんは死んだ。





飛行機事故だった。真っ青な空の中で、そろったテトリスのブロックみたいに爆発し、骨のかけらひとつ残さず一瞬で消えてしまった。神様は、あたしには選択肢なんか与えてくれなかった。春くんを殺すどころか、彼の顔を久しぶりに見て、直前になって迷う、ということすらさせてくれなかった。わかっている。本当は心のどこかでそれを期待していたのかもしれない。

結局、この世界のありとあらゆることを、あたしたちは選べないのだろうか。結局、そうなのだろうか。



涙すら流せず、ホテルのテレビの画面をぼんやりと見つめ続けるあたしに、隣で煙草を吸っていたセックスフレンドの謙也がにやりと笑って言った。

「同じさ。怨念で殺したって思えばいい。」

なんて嫌なことを言う奴だろう。あたしはすべてのことがすっかりどうでもよくなってしまった。どうやらまた、日常を取り戻さなくてはならないらしい。

そんなのはもう、今さらうんざりだというのに。

朝起きて、本を読んで、昼間にちょっと眠り、温かい紅茶を飲み、静かなピアノを聴く。買い物に行き、夕食を作り、シャワーを浴びてまた眠る。

そうする自分を想像すると、滑稽だった。

「なに笑ってんの?」

「べつに」

いっそのこと、激しい豪雨で全て流れて消えてしまえと思うけれど、春くんが消えていった空は憎たらしいほどに青く、雨はいつまでたっても降ってくれなかった。




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裏表のないコイン 硝子 @garasu

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