猫被りの街

霜月秋旻

猫被りの街

「吉村ヨシコさん、どうやらあなた、猫病にかかってますね。お薬出しておきます」

「はい?」


 医師の思わぬ診断に私は驚きを隠せなかった。最近何日も眠れない日が続いて、私は精神的にも体力的にも限界に来ていた。うつ病なのではないかと疑い、思い切って精神科を受診したのだが、診断結果はまさかの『猫病』である。



 みんなが私に優しい。みんないつも、笑顔で私にお菓子やジュースを差し入れてくれる。誰も私を怒ったり、けなしたりもしない。

「ヨシコちゃんは本当にいい子ね。ウチの子にも見習わせたいわぁ」

 近所のおばさんが口癖のように、私に会う度にそう口にする。そしてそれに対し私は「いえいえ、そんなことないですよ」と毎度のように謙遜する。

「ヨシコって本当、怒らないしおとなしくて優しいよね。かわいいし」

 職場の同僚にもよくそう言われる。そして言われるたびに私は謙遜する。

 勿論、褒められるのは嬉しかった。自分に対する周りの評価のよさも伺える。しかし褒められては謙遜、おだてられては謙遜の毎日を繰り返していくうちに私は、謙遜疲れしてしまった。私を褒める周りの言葉が、だんだんと重圧となって私に押しかかってきて、ストレスとなっていた。

 いつからなのだろう。いつから私は「いい子」を演じるようになったのだろう。そんなもの、私の本来の姿ではないのに。いつのまにか『ヨシコはいい子』というレッテルが貼られ、それが私を縛り付けている。いい人でありたいと思ってはいたが、知らぬ間にいい人でいなくてはならないと思うようになっていた。私に対するみんなの優しい笑顔が、嫌悪な顔に変わるのを恐れた。嫌われるのを恐れて、周りと対立するであろう自分の意見を、自分の中に押し殺した。いわゆる面従腹背だ。人の顔をうかがう癖が出来てしまった。そんな毎日を繰り返しているうちに、自分がわからなくなってしまった。カメムシのように、はじめから嫌われ者だったら諦めがつくというのに。



 医師が言うには、猫病とは、自分を偽って生きてきた人間、いわゆる『猫をかぶった人間』がかかりやすい病気らしい。幼い頃から、人に嫌われるのを恐れるがあまり、自分の本当の意見を隠し、ひたすら周りの意見に賛同するあまり、本当の自分がわからなくなってしまう。アイデンティティの消失。自分の意見が言えなくなり、自分は何のために生きているのかがわからなくなってしまい、無気力になる。猫病、それはうつ病の予備軍とも呼ばれていて、猫病の治療には、投薬治療のほかに、覆面治療があるらしい。

「あなたは今日から、家にいるとき以外はこれを被ってくださいね。」

 医師に薬と共に渡されたのは、猫の被り物だった。何の冗談かと思った。ご当地PRでもハロウィンでもあるまいし、そんなもの被って街を歩いたら笑いものにされるに決まっている。

「この猫の覆面は、自分が猫病であることを周りにアピールすることをひとつの目的としています。それと、その覆面の内側は、グレープフルーツの香りを染みこませた布で覆われています。グレープフルーツの香りは、ストレス緩和の効果があるのです。さらには、周りに変人扱いされる目的もあります。そうすることで自分が開き直ることができるのです」

「外で食事するときはどうすればいいんですか?この覆面、口も覆われてるから取らないと何も食べれないじゃないですか」

「コンビニで弁当でも買って、ひとりで人目につかないところでこっそり覆面をはずして食べてください」

「………」

 

 それから私は毎日、猫の覆面を被って街を歩いている。最初は周囲の反応が気になったが、日が経つにつれ、さほど気にならなくなった。医師の言うとおり、自分は変人なんだと開き直ることで、気が楽になった。それどころか、街を歩く人々の中に、猫の覆面を被っている者が徐々に増えていった。きっと私と同じように、猫をかぶって生きている人間が世の中には少なくないのかもしれない。

 

 いつか、この覆面から解放される日が来るのだろうか。周りが勝手に造った、また、自分が自分を守る為に造ったこの偽りの覆面を壊して、本当の自分を解放する日が。

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猫被りの街 霜月秋旻 @shimotsuki-shusuke

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